向夏の頃
うららかな春が終わろうとしていた頃、死ぬ覚悟を決めた俺はその旨を母に伝えた。
歳を取り白髪で頭皮が透けて見える姿は見た者に今までの辛労を容易に想像させ、それは俺への当てつけとさえ思えた。
何も言わず立ち上がった母がみせてきたものは1本のビデオテープだった。とうの昔に廃れたその記憶媒体は意外なほど綺麗に残っていた。
デッキにセットし再生を始めるとホームビデオが流れ初め、撮影者であろう声が聞こえた。日付は2月15日。
この日付は俺にも心当たりがある。この日になると母は毎年飽きもせずケーキを買ってくる。うわずったように聞こえるビデオ内の声主は今の状況を事細かに説明する。暫くして赤ん坊の鳴き声が聞こえたその瞬間だ。今は亡きおじいちゃんおばあちゃん看護師みんなが湧いた。撮影者は声にならない声でありがとうと何かに感謝を伝えた。ビデオに写った全ての人が幸福に満ちに満ち色ずいている。長くモノトーンの世界にいた俺には眩しかった。
そして母が写された。若い母は小さい赤ん坊を抱きしめ、そして涙を流しながら笑っていた。
ビデオが終わった。
俺は抱きしめられていた。
お前が生まれた時みんなが幸せだった。お前がみんなを幸せにしたんだと。母の震えた体と濡れた俺の肩は俺を後悔させるに十分だった。
夏が始まろうとしていた。