第84話
その日、エルドレッドは朝からご機嫌だった。
抜けるような青空の下、彼は今か今かと来訪者を待つ。右手に艶やかなユリの花束を握り、エントランスをずっとウロウロしていた。
あまりにもソワソワした様子のエルドレッドに耐えかねて、体躯の良い青年が彼に声をかける。
「…少しは落ち着いたらどうですか?」
「ごめん。でも、やっと二人きりになれるかと思うと…!」
「…エルドレッド様、“二人きり”じゃありませんよ。俺も、リリアン嬢もいるんですけど」
ああっ!楽しみだぁ!早く来ないかなぁっ!とつぶやくエルドレッド。……あかん。まったく聞いてない……。
あんなに浮かれたエルドレッド様を見るのは初めてです、と青年の隣で邸の家令が驚く。「女性に対しては一線引いていたのですがねぇ…」と何かを懐かしむように、しみじみと家令が言った。
エントランスでたっぷり1時間もそんなやりとりをしていると、外で馬の蹄の音がかすかに聞こえる。
青年よりも、家令よりも早く、エルドレッドはエントランスを飛び出した。
「アンジェリカちゃん!」
二頭立ての馬車が、入口前で止まる。使用人を押しのけてエルドレッドは馬車の扉を開いた。
「いらっしゃい、アンジェリカちゃん!」
「まあ、お出迎えありがとう存じますわ」
エルドレッドは右手に花束を抱えたまま、アンジェリカを抱き上げる。ひとしきりアンジェリカを堪能した後、エルドレッドは花束を渡してエスコートした。
そんな暴走気味のエルドレッドを眺め、リリアンがぼやく。
「…私もいるんですけど」
「こんにちは、リリアン嬢」
挨拶とともに差し出された手を見て、リリアンが驚きの声を上げた。
「えっ?!ガスコイン様?!」
「何故かエルドレッド様に招待されまして。3日間よろしく」
「ええ…よろしくお願いします…」
リリアンはリオンにエスコートされながら、チラリとリオンを見る。彼はエントランスを見つめて苦笑していた。
ーーさすが、ソーンリー様…
本当に、本当ーに、目的のためには手段を選ばない男だ!片思い中のガスコイン様に見せつけるとは!えげつないっ!
エルドレッドは、普段は大変寛容で穏やかで、誰に対しても貴賎の別を感じさせない態度を取る紳士である。彼を尊敬する青年も、彼に熱を上げる令嬢も、あまたいるだろう。
なのに、アンジェリカのこととなると、彼は独占欲をむき出しにして、邪魔者を徹底して排除しようとする。ーーその邪魔者には、たまにリリアンまで入ることがある。
リリアンは心配する。アンジェリカの伴侶にはアレクサンドル殿下が一番良いと思うのだが、果たして彼から逃れられるものだろうか、と。
++++++++++
翌朝、動きやすい服を指定されたので、アンジェリカとリリアンはコルセットのない、フレアワンピースを着た。ひとしきりエルドレッドに褒められた後、馬車にて畑に向かう。
「今日は外出ですか?」
「ん?違うよ。敷地内だけど、畑はわりと端の方にあるんだよね。だから、馬車移動」
「ま、まだ敷地内なんですか…?!」
リリアンが目を剥いた。
「ここは、ソーンリー公爵領だからね。当然、邸も敷地も広大だよ」
「まさかの本拠地!」
本気だ!とリリアンの背筋が凍る。
さすがに公爵閣下は不在のようだが、保養地ではなくまさか本邸にアンジェリカ様を招待するとは…!
青くなったリリアンに微笑みかけて、アンジェリカは言った。
「ソーンリー公爵領は、ワインの製造が著名ですの。楽しみですわ」
「さすが、アンジェリカちゃん。今日の予定が分かっちゃったか」
「なるほど、ぶどう摘みですね」
リオンが窓を開けて、外を眺めながら答えた。甘酸っぱい芳香が、すでに馬車まで漂っている。
到着場所は、広いぶどう園だった。いくつか区画が出来ており、どうやら今日は早摘みのぶどうをもいでいくようだ。
ぶどう園の管理人に説明を受け、各々かごとハサミを持って、ぶどうを収穫する。
エルドレッドは当然のようにアンジェリカの傍に寄り、話しかけた。
「早摘みだから、フルーティなワインが出来るよ」
「ふふ、早く成人して飲んでみたいですわ」
「あれ?アンジェリカちゃんはお酒飲んだことないの?」
「ありませんわ」
アンジェリカが丁寧に房の先の枝を切って、優しくかごに入れる。農作業などやったことがないものだから、アンジェリカはすぐに夢中になった。
そんなアンジェリカの隣で、「可愛いなぁ…」と何度もつぶやいてはウットリするエルドレッド。かごの中にはぶどうなど、ほとんどない。
「もう!ちゃんと摘んで下さいまし!」とアンジェリカからお叱りを受け、嬉しそうにエルドレッドは手を動かし始めた。
一方、リリアンもリオンも大概器用なので、農作業の収穫などお手のものだった。パッパッとぶどうを摘んでは、ヒョイヒョイとかごの中に収める。端から見ていると、実に芸術的な動きをする二人だった。
黙々と作業するのもアレかな、と思い、リリアンはリオンに話しかける。
「その…どうしてこちらに?」
「フツーにエルドレッド様から招待を受けた。ソーンリー公爵邸には、最新の剣舞場があるから。それを見たさに喜んで来たんだけど…」
「アンジェリカ様の来訪は、秘密にされていたんですね…。えげつない…」
結局は、エルドレッドによるただの牽制だった。二人は重いため息をつく。
「もう少し、時間があればな。今の俺は、アンジェリカ嬢に求婚できる立場にはないからなぁ…」
「キャスリーン様がいるじゃないですか。贅沢ですよ!」
「キャスリーンだって、学園に入ればいい男が見つかるかもしれないじゃないか。俺にとって、大切な妹だからな」
「うーん、貴族様も大変ですね」
ほとんど他人事のようにリリアンは話す。リオンは事情を知るから、リリアンのほよんとした態度を少し気の毒に思った。彼女は、近い将来王家の鳥籠の中に入るのだ。それを知らないままだというのは、酷なことだとリオンは同情するのだった。
数時間後、四人のかごの中はぶどうで一杯になった。特にリリアンの収穫作法が感動的に上手い、と管理人に讃えられ、挙げ句就職の誘いを受ける。リリアンは「それもありかも!」と上機嫌だった。
さて、もいだぶどうをどうするか。昼食後、四人は隣接の工場でぶどうをつぶす作業をする。
風呂のような大きな樽を前に、リリアンが尋ねた。
「これ何ですか?」
「これは、ぶどうを濾して、ジュースにする樽さ」
「ソーンリー様は、何でもご存じなんですねぇ!」
リリアンが珍しくエルドレッドを褒めた。だが、エルドレッドの心には全く響かず、無感動のまま説明を続ける。
「摘んだぶどうを樽の中に入れるから、君たちは樽の中でぶどうを踏みつぶしておくれ」
「裸足ですの?」
「うん。裸足で。スカートも裾を少し上げた方がいいよ」
言いながら、エルドレッドはリオンと一緒にぶどうをドンドン入れていく。最後の一つを入れてその上にシートをかぶす。そして、裸足になった女性二人が、シートの上からぶどうを足踏みした。
「わわ、感触が気持ち悪い」
「何だか食べ物を粗末にしているみたいですわ」
キャアキャア言いつつ、二人はスカートの裾を持ち上げて踏みならす。「うん、良い眺め」とエルドレッドはアンジェリカの白い脚を見つめてつぶやいた。楽しそうにはしゃぐ二人を見て、エルドレッドもリオンも裸足になって参加する。四人で踏むと、ぶどうはドンドン濾されていった。
濾したジュースはまだ酸っぱい。だが、ハチミツを垂らして飲んだら、甘みと酸味が絶妙に混ざって格段に美味になる。
アンジェリカは終始楽しそうに笑っていた。それを見てリリアンは、エルドレッドはアンジェリカを喜ばせる天才なのだ、と改めて思う。
アンジェリカの幸せはどこなのか。リリアンはどんどん迷うのだった。
++++++++++
翌日、エルドレッドが「アンジェリカちゃんと二人きりでいちゃいちゃしたい」と劣情を隠さずいっそ潔く言い放つものだから、嫌とは言えずリリアンはアンジェリカと別行動となった。
リリアンはリオンと街に行き、エルドレッドはアンジェリカのパンを食べたいとリクエストして、邸に残る。
アンジェリカはパッと笑顔になって、いそいそとパン作りを始めた。手際の良いアンジェリカを眺め、不思議そうにエルドレッドが尋ねる。
「アンジェリカちゃんは、いつからパンを作り始めたの?」
「そうですわね。セバスチャンに教わったのが10歳の頃でしたわ。ルーカスお兄様も手伝ってくださって、究極の配合を生み出しましたの!」
「へえ…」
とことん極めたがるアンジェリカらしい、とエルドレッドは微笑んだ。彼女は世の中の大抵のことに興味はないが、その分興味を引いたものを極めたがる。
エルドレッドはパンを捏ねるアンジェリカの腰を後ろから抱きしめ、ささやいた。
「僕のお嫁さんになったら、この究極の配合パンが毎日食べられるんだね。嬉しいな」
「ふふ、毎日食べたら、すぐに飽きてしまいますわよ」
「飽きるわけないさ、君のことで」
エルドレッドはアンジェリカのつむじに優しくキスをする。その唇が耳を食んだところで、アンジェリカが「離れて」とぼやいた。
天気が良いからと外でランチを取ることにした。大きな屋根のある広い東屋で、作ったパンを広げ、シートに座る。
相変わらずの美味に、しばし無言でエルドレッドはパンを堪能した。お腹が空いていたのか、よほど美味しかったのか。エルドレッドはあっという間に平らげる。
食後のコーヒーを飲んで、エルドレッドは人払いをした。
「さ、アンジェリカちゃん。いちゃいちゃしよう!」
「…具体的には何を?」
「抱きしめさせて~」
言うなりエルドレッドは素早くアンジェリカを己の膝の間に座らせて、背後から抱きしめる。もちろん、匂いを堪能するのも忘れない。
「はあ~良い匂い…」
エルドレッドはアンジェリカの匂いを嗅ぐと、すぐに脱力して酩酊する。アンジェリカにはそれがいつも不思議だった。
「…私、匂います…?」
「もちろん、能力の方だよ。だから、誰も誤魔化せない。アンジェリカちゃんは、僕の番。僕は君なしではもう生きられないよ…」
「ふふ、大げさですわ」
首元に唇を寄せられ、くすぐったさにアンジェリカがふきだす。スンスンと犬のように鼻を、唇を寄せて、エルドレッドは幸せを感じた。
「…僕は一生好きな女性に巡り会えないと思っていた。でも、君に会えた。好きだよ、アンジェリカちゃん」
「…大げさですわ…」
頰にキスされて、アンジェリカが振り向く。切実そうな…どこか泣きそうなエルドレッドを見つめ、アンジェリカがキュッと切なくなった。
「アンジェリカ、キスをしてもいい?」
「…はい」
瞳を閉じて、アンジェリカは了承する。ーー少し震えているのは、どちらだろう?
エルドレッドから受ける唇へのキスは、少し触れただけだった。
ーーと思ったら、すぐに角度を変えて唇を覆われた。わざとなのか、リップ音を鳴らすものだから、聴覚的にも恥ずかしくなる。
アンジェリカの背中をつつ…とエルドレッドの指先が這う。くすぐったさに驚くと、開けた口からエルドレッドの舌が入ってきた。
「ーーんっ!」
アンジェリカの口内を、熱い舌が生き物のようにはいずり回る。円をえがくように舌をねじ込まれたと思えば、今度はアンジェリカの舌を絡め取って嬲る。クチュクチュと鳴る水音を、遠くのように感じた。
ゾワゾワが、お腹から這い上がる。知らない感覚に、アンジェリカは少し怖くなった。
はあ…と熱い息をはいて、エルドレッドがようやく舌を、唇を離す。息が上がったアンジェリカを見て、エルドレッドがウットリと微笑んだ。
「苦しい?アンジェリカちゃん」
「だ、いじょうぶです」
「どんな感じ?」
「…お腹がゾワゾワしました」
「ふふ、可愛い…!」
ちゅ、と軽いキスをして、エルドレッドはアンジェリカを抱きしめ直す。
「ずっとこうしたかった…。1年以上も、よく耐えたと思わない?」
「…そうなんですか?」
「ま、まあ結構触っていたかもしれないけれど。キスは我慢してたでしょ?」
「当たり前ですわ。恋人でも婚約者でもなかったのですから」
「でも、今は婚約者に近いよね」
さぁっと南風が吹き、二人の髪を揺らす。エルドレッドが少し乱れたアンジェリカの髪に触れた。ーーエルドレッドはアンジェリカに触れるとき、いつも「愛しくてたまらない!」という表情をする。だから、アンジェリカはどうしていいか分からなくなるのだ。
「君が愛しい。婚約者になったら、我慢はもうしない。君に思う存分触れるからね」
「……?では、いまは触れないということですの?」
「それは無理」
断言した!いっそ潔い!
「キスまでにしておく、ってこと。触っていいなら、胸も撫で回したいし下にも触れたい。いいの?」
「もちろん、駄目ですわ」
「ーーだよね。我慢するから、キスは拒んじゃダメだよ…」
何だか上手く言いくるめられている気がするが、再び受けたキスを、アンジェリカは拒まなかった。
その夜、貯蔵されているワインを少しだけ皆で飲んだ。スパークリングワインの軽めのものだったが、リリアンがいたく感動していた。ーーイケるクチだ。
リオンもエルドレッドも、すでに共に飲んだことがあるから互いの限界を知っているが、アンジェリカもリリアンも、飲酒は初めてだった。
だが、ワインを美味しそうに堪能する二人を見て、案外強いようだと認識する。
ーーエルドレッドは少し残念そうだった。
四人で飲んでいるときも、エルドレッドはアンジェリカの手を放さなかった。彼女の右手には、エルドレッドの贈った指輪が光る。
ーーしかし、その左手には、何の装飾もなかった。
リオンは、自分がアンジェリカを手に入れる機会を永遠に失ったことを知った。
Q.アンジェリカのどの部分が好き?
リ:「エメラルドの瞳!美しすぎです!」
ユ:「…え?何で君が答えてるの?」
ア:「私は脚だな」
リ:「もう潔良さ満点ですね、殿下」
ユ:「ムッツリ度高いな~殿下は」
ア:「そう言う君は?」
ユ:「顔全般好みですけどね。プラス豊満な胸!」
ア:「…ただのスケベではないか」
リ:「もう、存在自体好き!」
ア:「信者か!」
リ:「ソーンリー様は?」
エ:「匂い!」
リ&ユ:「…………………(引)」
一番本能をむき出しているのは、エルドレッドだという話。