第71話
深緑の季節、木々が青々と美しくなる。時折降る雨が、植物をさらに生き生きと見せた。
段々と蒸し暑くなる最中、まだ冷え込む夜に、アンジェリカは1枚の手紙をクルクル回して、項垂れていた。
「…お嬢様。手紙をクルクル回しても、事態は変わらないかと」
「…ちぎって燃やせば、事態は変わるかしら…?」
「変わりませんので、お止め下さい」
アンジェリカが怪しい方向にむかったので、セバスチャンはパッと手紙を取り上げる。ーーこの手紙を燃やしたい気持ちは、セバスチャンとて同じだが。
「まさか、また夜会とは。ストックデイル辺境伯は、何を考えているのかしら…?」
「あれから、公爵への接触はありません」
「うーん、目的が多すぎて、本命が見えないわね」
「木は森に隠せ、と申しますから」
アンジェリカは白く美しい手をあごに当て、考え込む。その姿は、女神を思わせるほど美しい。憂いを帯びたその表情は、悶えるほど佳麗だ、とセバスチャンは震えた。
「…今回は、お父様の命令文まで入っていたわ」
「前回のお嬢様の行動からのことでしょう」
「面倒くさいこと…」
エスコートまで、指名されていた。今回のエスコートは、次兄だ。
退路を塞がれた。アンジェリカはそう思った。
まあ、いい。エスコートがルーカスなら、多少の自由と融通がきく。その上、何があってもアンジェリカの味方をしてくれる。ーー安心感が誰よりもある兄として、アンジェリカは心から信頼している。
「夜会は1週間後ね。セバス、支度をお願い」
「畏まりました、お嬢様」
さて、夜会でもお嬢様が1番美しくあらねば。どのドレスにしようか、とセバスチャンは張り切るのであった。
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小雨の中、大きな邸に4頭立ての馬車が、次々と訪れる。
今回の夜会は、招待客を半分程度に減らした分、家柄の良い貴族が参加していた。
アンジェリカはルーカスのエスコートで、ストックデイル邸に入る。ーー相変わらずの成金趣味だ。金が眩しい。
真っ金々のシャンデリアの下、人があふれはじめた。
「…すごいな。今日は高位の貴族ばかりだ」
「なのに、王族は招待されていませんのね」
「“叛意あり”と思わせたいのかな?」
「…ストックデイル辺境伯のやる事なす事、全て統一感がありませんわね…」
「だから、いちいち惑わされてはダメさ。そのうち絞られていくよ」
「なるほど…」
ルーカスは事もなげに言い放つ。これが長兄では、こうはいかない。逐一考えて余計な苦労を背負い込むだろう。それを加味して、今日のエスコートがルーカスだったのか。
「ところでお兄様。アレクサンドル殿下の護衛はよろしいの…?」
「よろしい、よろしい。僕はただの一般兵だからね」
「………」
またアレクサンドルとの確執が広がるだろう。アンジェリカはそう思った。
ホールの前方中央で、歓声が上がる。華やかな舞踏会が始まった。煌びやかな内装が眩しいのか、貴族の身にまとう貴金属が眩しいのか。アンジェリカは目を細めて眺めていた。
ルーカスとホールの隅で人間観察をしていると、周辺がざわつき始める。何事かと首を傾げていると、群衆が割れて1人の青年がアンジェリカの前に立った。
ーーまあ…あちらから接触に来たのね
「お美しいご令嬢、是非僕と踊っていただけますか?」
「…ええ、喜んで」
髪を後ろにまとめ、紺の夜会服を身にまとう彼は、実年齢より大人びて見える。ーー先方からのご指名だ。少し探ってみよう。そんな思いからアンジェリカは彼の手を取った。
青年は、わざとホールの中央を陣取り、踊り始める。アンジェリカへの嫌がらせなら、これほど効果が上がるものはない。
「今日は来てくれて嬉しいな、ソーンヒル先輩」
「…こちらこそ、お招きありがとう存じます」
「緊張しているの?」
「ええ、少し…」
明るくテンポの速い曲を、完璧に踊る2人。アンジェリカに緊張など微塵もないことを、青年は分かっていた。
ーーふうん、このお人形さんは、ダンスも完璧だね
おまけに、僕の姿を見ても全く気を引く素振りを見せない。ーー青年には、それがとても新鮮だった。
「ストックデイル」と言えば、誰もがすり寄ってくるし、美麗な青年に誰もが近づいてくる。
ーー俺に落ちない女はいない
青年には、身分の高さに見合う傲慢さがあった。
「ねえ、ソーンヒル先輩。いま君と踊っているのは、どっち?」
「ユーイン様ですわ」
「……ハズレ」
青年は軽く目を見張る。アンジェリカは、即座に双子の名前を言い当てた。
ーー何故見破った?完璧にノーマンの振りをしていたのに…
少し動揺して、思わず「ハズレ」と言ってしまった。だが、このご令嬢はどう出るか。ユーインはそれを知りたい。
「貴方がユーイン様でないのなら、あの時のお茶会で嘘をついたことになりますわね」
「いや、だって、僕の左目の下にホクロなんてないでしょ?」
「ホクロ…?ホクロに何の関係が?」
「え、でも、そうじゃなきゃ、僕たちを見分けられないでしょ?」
「確かによく似ておりますが、別人ですわ。貴方は、お茶会でユーインと名乗りました。結局、どちらが嘘なのです?」
「……あははっ!」
少年のような笑顔で、ユーインはアンジェリカを抱き上げてクルクル回る。それがまた音楽に合っていて、周りから歓声が上がった。
「ゴメン。嘘ついて。俺はユーインだよ。…君の正解だ」
「覚えたと、言いましたでしょう」
「うん。そうだった。本当に覚えたとは思わなかったから」
嬉しそうにユーインが言う。…何だか先ほどよりも躰が密着しているのは、気のせいだろうか?
「他人に見破られたのは、初めてだよ」
「そうですか」
「ね、どうして俺がユーインだって分かったの?」
オーラで、とアンジェリカは言えず、適当に言葉を濁す。
「雰囲気と、お姿ですね」
「それだけ?」
「それだけで十分では?先ほども申した通り、似ているけれど、別人ですもの」
「そっか…」
目の前の美しい人は、どうやら適当に当てたようではない。
ーー多分、俺を覚えたんだ…
俺じゃなければ、ノーマン。きっと、そういう覚え方。
ユーインは、何故だかそれが嬉しい。
「!!?」
ユーインはいきなりアンジェリカを抱きしめて、頰にキスをする。さらに、その頰をベロリと舐めた。驚いたアンジェリカは、強くにらんで非難する。
「何をなさるの…!」
「ふふ。おまじない」
ニコリと微笑んで、ユーインは告げる。
「『俺の胸に頰を寄せて踊る』」
「!!!」
アンジェリカは吸い取られるように、ユーインの胸に舐められた頰をくっつけて、踊る。ーーその姿は、周囲にアンジェリカとユーインの仲が睦まじいものだと思わせる。
ーーうそ…!躰が動かない…!
躰がーー頰が、ユーインの胸から離れない。頰を剥がせない。こんな…目に見えない力が作用するなんて…!
「アンジェリカさん…」
ユーインに優しく頭を撫でられた。アンジェリカは抵抗出来ないことを知り、力を抜く。
フワリと良い香りが鼻腔を掠める。これは、ユーインの香り。……アレクサンドルとも、エルドレッドとも違う、男性の香りだ。
腰をとられ、しっとりと踊りながら、アンジェリカは考える。
突然、右頰を舐められた。
『俺の胸に頰を寄せて踊る』という言葉。
舐められた頰だけが、動かない。
ーーこれは、まさか、特殊能力…?
リオンが言っていた。「まるで五感のようだ」と。もしそれが当てはまるのなら…彼は『味覚』。
「ねえ、アンジェリカさん。君にはまだ婚約者はいないよね」
「…いませんわ」
「ふうん。そっか。アンジェリカさんは、年下は嫌い?」
「好みなどありませんわ」
「ふふっ」
ユーインは本当に楽しそうに笑う。女性に、こんな無碍にあしらわれたのは、初めてだ。胸に頰を寄せて、躰をこれほど密着しても、アンジェリカは全然ユーインになびかない。
ーーそれどころか、なんか考えているな…
自分の躰の一部が動かない理由を、必死に考えているのだろう。…なんて賢い女性だ!
ユーインの心が弾む。
曲が終わり、アンジェリカの頰が自由を取り戻した。ーーなるほど、あの呪文には、時限があるのか。アンジェリカがホッとする。
「残念、もう終わっちゃった」
「3曲も踊れば、十分かと」
「ん。少し休憩する…?」
「ご令嬢、次は私と」
背後から、手を取られた。アンジェリカが振り返ると、そこにいたのはエルドレッドだった。
ーーソーンリー様…
手を握られ、思わず安堵した。さっきの事も話したい。
「今日は、こちらが主催者だ。遠慮してもらいたい」
「もう3曲踊りましたよ。アンジェリカ嬢は、解放してもらいます」
「……仕方ないか」
ふーっと長い息を吐いて、ユーインはアンジェリカの手を離す。すると、すぐにエルドレッドが輪の外へアンジェリカを連れ出した。
「またね、アンジェリカさん」
背後からユーインに声を掛けられた。お茶会と同じ台詞に、アンジェリカの背中がヒヤリとした。
アンジェリカとエルドレッドは、ダンスをせずにホールを出る。アンジェリカが「話がある」と言って誘い出したのだ。
だが、外は雨。秘密の話をするには、休憩室しかない。エルドレッドを信用していないわけではないが……いや、男女関係の件ではあまり信用していないから、密室に2人きりは避けたいところだ。
「話って?どうしたの?アンジェリカちゃん」
「それは…。出来れば内密の話なのですが…」
「そっか。じゃ、そこの部屋で話そうか」
「え、ええ…」
エルドレッドに腰を取られ、ドキリと胸が跳ねる。……どうしよう。今すぐエルドレッドに話したいけれど、2人きりは……緊張する。
と、そこへ2人を追いかけてきたルーカスが声をかける。
「アンジェリカ」
「お兄様…」
声をかけられて、思わずホッとした表情を浮かべたアンジェリカに、エルドレッドが苦笑する。その様子を見て、アンジェリカは、自分で誘ったのに意識してしまったことを、少し申し訳なく思った。
アンジェリカはエルドレッドの手を取り、ぎゅっと握って見つめる。
エルドレッドは瞳を大きく広げたが、すぐに良い笑顔になった。ーー嬉しそうだ。
「どうした?もう帰るのか?」
「いえ、お話があって。お兄様も一緒に聞いて下さる?」
「いいよ。じゃ、その部屋に入ろうか」
スタスタと前を歩いて、部屋に入っていくルーカス。アンジェリカはエルドレッドの手を握ったまま、ポソリと言う。
「すみません…」
「良いよ。アンジェリカちゃん、僕を男として意識してくれたんだから。むしろ嬉しい」
「あ…」
そうなるのか。アンジェリカの頰が赤くなる。その愛らしい様子に、エルドレッドはつないだ手を引いて、白磁の手にキスをする。
「可愛い、アンジェリカちゃん。この指輪も、とても似合うよ。…イヤリングと左手の指輪が邪魔だけれど」
「ふふ、ありがとう存じます」
手をつないだまま、2人は部屋に入る。一歩踏み込んだ関係に進んだ、とエルドレッドは頰の緩みをおさえられなかった。
双子を書くのが好きです!