第7話
一番古い記憶は、雪の中、ベンチで母を待っていた3歳の冬だった。
寒かったけれど、珍しく母がお菓子を買ってくれ、「ここで待っていて」と優しく言われたことが、トゲのように胸に刺さったままだ。
気が付いた時には、私は教会の孤児になっていた。母に捨てられたのだ。
教会には、神父様のほかに、結構な数の子どもがいた。日々の食事は倹しかったけれど、取り合ったりはしなかった。いじめなども無かったが、皆、単に元気がなかっただけだろう。
8歳の時、年寄りだった神父様の代わりに、声の大きい、意地悪な神父様がやってきた。
新しい神父様は、ことある毎に子どもたちを殴ったり蹴ったりした。ケガをする子どもが増えていく。食事の量も回数も減らされていった。
怖いのは、今までいた子どもがどんどん減っていくことだった。20人くらいいた子どもが、今は半分に減っている。
新しい孤児が増えるから、相対的には変わりなく見えても、見知った子どもが一人、また一人と消えていくのは、幼い自分でも不気味で仕方なかった。
ある満月の晩、夜中にトイレに立ったとき、一人の男の子を見かけた。男の子は、教会の女神像をじっと見つめている。
『何しているの?』
『……女神に祈ってた』
『何を?』
『女神に救われることを』
『そっか。叶うと良いね』
私は小さく微笑むと、男の子はこちらを向いて、じっと見つめ返してきた。その瞳は、深い谷の底の様に真っ黒だった。
ーーあの子の願いは、叶ったのだろうか……
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『リリアン、ここも掃除しておいておくれ』
『はい、かしこまりました』
伯爵様に言われ、私は床を拭き始めた。
教会に売られて、この年老いた伯爵様に買われた私は、家政婦として働いている。
伯爵様にはお嬢様がお一人いらっしゃったが、他家へ嫁いだため、伯爵様はひとりで本宅に暮らしていた。この伯爵邸には、使用人が数名いるのみで、伯爵様の身の回りの世話ーーつまり介護ーーは、主に私の仕事だった。
不満はなかった。
1日3食ーーしかも美味しいーー食事が出て、屋根があり雨漏りもない場所で暮らせることは、私にとっては大きな幸せであった。
だが、ある時転機が訪れる。
それは、伯爵様のお嬢様が子供たちを連れて遊びに来ている時のことだった。
伯爵様の孫は、貴族らしくワガママで独裁者だった。使用人は自分の言うことを全てきくものだと思っている。
彼らが来ると、私はいつも叩かれ、蹴られ、無茶な命令を強いられた。
だんだん大きくなってきた彼らの暴力に、私の躰が悲鳴を上げ、とうとう頭を強打し大量の血が流れ出す。
驚いた伯爵様の孫たちが、慌てて母親を呼びに行った。そして、彼らが見たものは……
『は、母上!コイツ、魔法を使ってる!』
『……なんてこと……!』
『リリアン……』
私はあまりに痛む頭部に、『治れ』と祈っただけだった。それだけで、みるみる治癒していく。
『……お父様、大変不本意ですけれど、この娘は聖アンドレア学園に入れないといけませんね』
『わしの世話は、誰がしてくれるんじゃろ』
寂しくなるな、と伯爵様は言ってくれた。
こうして、私は聖アンドレア学園に入学することになった。
9割以上貴族で構成されていると聞いていたから、入学前からウンザリしていた。
そして、やっぱり迫害されることになる。
ーーまさか、Sクラスなんて!
私の属性の珍しさと、魔法量の多さから、選定されたクラスだった。平穏無事に3年間を過ごすーーただそれだけを望んだはずなのに……。
「何だか、臭いませんこと?」
「ああ、生ゴミかしら?」
「ええ、これは庶民の臭いですわ」
クスクス笑いながら、私に生ゴミを投げてくるご令嬢方。誰一人味方はいない。
ーー今までだって、味方なんかいなかったけれど……
全員が敵、ということもなかった。
ーー正確には、全員ではない。ソーンヒル公爵令嬢だけが、私の迫害に加わっていなかった。
興味も無さそうだけれど。
「そこのお嬢様」
「ーーえ?」
この学園で私に話しかける人なんていないと思っていたから、呼ばれた時は自分だと思わなかった。だから反応が遅れてしまう。
「あの…私です、か?」
「こちら、落としましてよ」
どうぞ、と渡された銀色のペン。それは、伯爵様に餞別に頂いたものだった。
「ーーっ!あの、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
美しい黄金の髪を揺らして、ソーンヒル公爵令嬢は翻った。その姿は、蝶のように華麗である。
ーー本当に豊かで美しい人は、誰も迫害なんてしないんだわ……
私はソーンヒル公爵令嬢の幻を、いつまでもいつまでも眺めていた。
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とある休日。
教科書をクラスの令嬢方に破かれてしまったので、私は古書街へ向かった。
ーー痛い出費だなぁ…
伯爵様にはわずかばかりの小遣いを貰っているが、無駄遣いしたくない。だから、古本屋で教科書を安く手に入れなければならなかった。
すると、あのソーンヒル公爵令嬢とその執事を見かけた。
ドキン、と胸が跳ねる。今日もソーンヒル公爵令嬢は麗しい。
ーー古書街に来て良かった…!
私服もなんて可憐なんでしょう。私の気分はすっかり上向きになった。
でも、隣にいる執事を、私はどこかで見た気がする。
私は懸命に記憶の糸をたぐり寄せたが、分からなかった。