第57話
王家の保養地は、海に面していた。せっかくの立地だから、海に行こうとアレクサンドルが提案する。部屋から見える海岸線は美しく、王家の専用海辺だから、安全・安心である。
アンジェリカとリリアンは、海を見たことがなかった。知識として保有するのみである。湖とはやっぱり違うのかな?リリアンは興味津々であった。
だが、ここで問題が発生する。
「ーーえ?皆、もう課題終わってるの…?」
エルドレッドが驚愕する。だって、まだ夏休みはあと5日間もあるよ?と子どものようなことを言いだした。
「エル、“まだ”じゃなくて、“もう”だ。もう5日しかないんだよ」
「課題なんて、残りの2日間でやるものでしょ」
「ーーボケるにはまだ早すぎるな、エル。去年を思い出せ」
「去年だって、補習で何とかなったろ~?」
「何とかなった、とは言わない!」
エルは課題が終わるまで海禁止!というアレクサンドルの厳しい通達により、エルドレッドは課題が優先となる。
「ーーえ?嘘だろ?!アンジェリカちゃんの水着姿を見られないなんてあり得ない!」
「課題をやらないお前が悪い!」
「は?ふざけんな!アレクは僕の母親か?!」
「そのスケベ心があれば、すぐに終わるだろ」
「あ、アレクサンドル様、どうか手伝って…!」
「だ、め、だ!」
僕一人じゃ終わらないよ!頼む、後生だから!と拝み倒すエルドレッド。
「リオン君!どうか手を貸して!」
「エルドレッド様…。俺、1年生ですよ?」
「アンジェリカちゃん、リリアン嬢!」
「私たちも1年生ですけれど」
何だか見たことのある光景だ。別に成績が悪い訳ではないのに、エルドレッドは座学が苦手すぎる。ーーバカでは、ないのだが…。
「…分かった。アンジェリカちゃんさえ置いてくれれば、皆は自由にしていていいから」
「何故、アンジェリカ嬢が犠牲にならねばならん!」
「アンジェリカちゃんと海に行きたいんだよ~!」
もはや駄々っ子だ。全員が苦笑する。ブリブリ駄々をこねるエルドレッドに、「あの…」と控えめな声が上がった。
「私でよければ、お手伝いします」
「マスグレイヴ嬢…」
アデラインはニコリと微笑んで、手伝いを名乗り出る。学年もクラスも同じだから、適任である。だが、エルドレッドのためには、一人で課題をさせた方がいい。アレクサンドルが迷っていると、エルドレッドが先に言いだした。
「分かりました。急いで課題を終えて、皆と合流します」
「…いえ、私…」
「マスグレイヴ嬢、ありがたい申し出だが、手を貸すことは、エルドレッドのためにならないから」
アレクサンドルの発言に、はいと言ってアデラインは引いた。結局、エルドレッドは課題を終えてから、他の者は準備を終え次第、海に行くことになった。
王家のプライベートビーチは、人の出入りがほとんどないため、透明度が高く美しい。
ーーエルドレッドの瞳のような色だ、とアンジェリカは思った。
砂浜はサラサラで、裸足で歩くと少し熱い。でも気持ちいい。不思議な感覚だ。
湖とは違い、水面が波立つ。寄せては返す波が、素敵な音を奏でる。
海の水は、塩の味がするという。なんて神秘な存在なのだ!
「すごく、素敵ですね、アンジェリカ様」
「ええ、本当に…」
アンジェリカもリリアンも、海が至極美しい存在で、大変好ましいものだと思った。ここでは泳げるという。確かに、これほど透明で綺麗な海水だと、その中に入って遊びたいと誰しも考えるだろう。
「とりゃー!」
「あ、下手くそっ!」
男性陣は、ボールを投げ合って遊んでいる。柔らかい砂地だから、思いのほか投げ合いが難しいようだ。
女性陣は砂地に座りながら、綺麗な貝を拾っては眺めていた。この綺麗な貝殻は、どこから来たのだろう。海を渡って来たのか。それとも砂に埋まっていたのか。話が弾む。
「はあ…。素敵な時間ですね…」
「そうですわね。この波の音は、一定のリズムなのですね」
「海って、本当に塩の味がするのですね!」
リリアンが驚いたように話す。初めてみた海に対する興奮が隠せない。
「それはそうと、皆さま、ご婚約者はお決めになって?」
唐突に、ジョアンナが探りを入れはじめる。女子会の始まりだ。
「まだですわ」
「私、コニー・ドラモンドは、これからであります!」
「私は平民ですから」
「私も、まだですわ…」
話を振ったジョアンナも、婚約者はいないと白状する。今回、この場所にいる学生で、婚約者を決めた者はいない。ーーそれは、王子ですら例外ではなかった。
「あの…、ソーンヒル様は、殿下の婚約者候補ですの?」
「…違いますわ」
「では、ソーンリー様?」
「…違いますわ」
違うとハッキリ言ったアンジェリカだったが、婚約者候補と聞かれたら、どうなのだろう?本人たちからは、それらしい言葉を聞いたけれど。
ーーいえ。親同士の正式な申し入れではありませんもの
アンジェリカはそれを盾に、「NO」と言い続けた。
「私は…アレクサンドル殿下の婚約者候補になりたいですわ」
「素敵ですね!ハドルストン様はお綺麗ですから、殿下とお似合いでございます!」
「まあ、ありがとう存じますわ、ドラモンド様」
ニコリと機嫌良くわらうジョアンナ。それを見て、リリアンは思った。
ーーこれは、アンジェリカ様への警告…いえ宣戦布告…?
王子様の婚約者になりたいとは、アンジェリカ様は思わない。だが、目の前の美しい女性は、王子様の婚約者になりたいのだろう。
そういう女性ばかり群がるから、アレクサンドル殿下はアンジェリカに惹かれるのだ。納得の話である。
「リリアン嬢ー!」
なにやら、アルフレッドが叫んでいる。あまり良い予感がしないが、呼ばれて手招きされる。
「女性陣も、こちらへ!」
ボール遊びに飽きたのだろうか。思い出したように、男性陣からお呼びがかかる。女性陣は砂を払って、立ち上がった。
「私、飲み物を取ってきますわ」
そう言って、アンジェリカは別方向へ歩き出す。
ーーそう言えば、マスグレイヴ嬢はどこに行ったのだろう?とリリアンは不思議に思った。
なんとか半日で課題を終わらせる!と息巻くエルドレッドは、机に向かって一心不乱に書き始める。
ーー普段からそうしておけば、もっと楽になるのに。と、アレクサンドルがこの場にいれば、そうため息をついたであろう。
そのくらい、鬼気迫る集中力だった。スケベ心は偉大である。
この表現をどうしようかな、と手を止めたところに、コトリと飲み物が置かれる。
「お疲れ様です、ソーンリー様」
「………どうも」
お茶を入れてくれた心遣いより、許可無く部屋に入ってきたことが、エルドレッドには腹立たしい。
お茶を一瞥しただけで、それには手をつけずにまた課題に取りかかった。
お茶を運んだ女性は、そのままソファに座り、退席しない。そういう所も、エルドレッドには鬱陶しい。
「……悪いけれど、気が散るから出て行ってくれる?」
「ソーンリー様、私、お手伝いしますわ。そうすれば、皆さまに早く合流出来ますでしょう?」
「あのさ、そういうの、僕要らないんだよね」
はあ、と盛大なため息をついて、エルドレッドは美しい女性ーーアデラインに向き合う。
「僕の気を引こうとするのは、やめてもらいたい」
「そういうつもりは…」
「ないの?」
「ない…とも言い切れませんけれど」
アデラインは目をそらさない。うっすら微笑んですらいる。ーー彼女のこの自信は、どこからくるのか。
「僕が好きな人は、君じゃない」
「はい。存じ上げております。けれど、貴族の婚姻は、感情論ではなく政略的なもの。私もソーンリー様も、逃れられますまい」
「……君は、父親が命じた人と結婚するの?」
「はい。それが貴族の娘としての役割ですから」
「そう。なら話は簡単だ。君の父親の方に手を打とう。僕を候補から外せとね。そしたら、君は僕の前から消える」
「………そう、なりますね………」
アデラインは衝撃を受けた。淑女として高い教育と教養を身に付け、容姿も端麗に育った自分を、真正面から全否定するとは。
ーーなぜ…?
こう言ってはなんだが、自分とアンジェリカに差などほとんど無いはずだ。家柄も容姿も能力も。あの人形のように感情が乏しいアンジェリカに、劣っているはずないのに…。
「……私の悪い点は、直します。ソーンリー様の好まれる女性になります。ですから、どうか今の時点で拒絶なさらないで下さいまし」
「君に悪い点なんてないよ。淑女としては満点じゃないかな?」
「では…!」
「でも、僕は君を絶対に好きにはならない」
「なぜ…?」
アデラインは胸を押さえて、衝撃に耐える。ーーこれまで、男性からこれほど冷たくあしらわれたことはなかった。初めてだ。こんな悪態をつかれるのは。
ーーしかも、好ましい殿方に…
アデラインは淑女の嗜みとして、これまで男性を好きにならないように戒めていた。だが、学園に入り同じクラスのエルドレッドに、惹かれ始めた自分を覚えた。
ーーこんな素敵な殿方に、惹かれない女性などいないわ…!
紳士で、騎士のように強く、見目麗しく凛々しい。笑顔は太陽のように輝いている男性。極め付きは、実技大会だった。
他の追随を許さない強さを見せつけて、優勝杯を高々と掲げた彼に、アデラインは恋に落ちてしまった。
ーーだから、今回の縁談は…夢のようだったのに…
現実は、本人から断固拒否された。冷たくあしらわれた。
ーーそれでも、諦められない!
「なぜ?決まっている。君は、アンジェリカじゃない」
「……お身内から、反対されているとうかがっています」
「反対されたから諦めるほど、性格はよろしくなくてね。アンジェリカは、なんとしてでも手に入れるよ」
「……私は、その日が来るまで、貴方様を諦めません」
「……だから、それが迷惑だっての」
アデラインは、最後までエルドレッドから目をそらさなかった。諦めたくない!というアデラインの意思の強さを感じ、エルドレッドは苛立ちを覚える。
「まあ、他人の感情には手出しが出来ないからね。僕も君の感情を否定はしない。ーーただ…」
「ただ…何でしょう?」
「僕の邪魔をしたら、容赦しない。ーーいいね」
「…………!」
獣のような鋭い目つきに、アデラインが恐怖を覚える。ーーそれほど、私の心が迷惑なの…?
「じゃあね、マスグレイヴ嬢。お茶ご馳走さま」
一口も飲んでいない茶の礼をして、エルドレッドは部屋から出て行った。
エルドレッドは、皆がいる海に行こうと急ぐと、エントランスに人影を見つける。とたんにエルドレッドは駆けだした。
「……アンジェリカ……!」
会いたかった想い人が、所在なさげに座っている。エルドレッドに気付くと、アンジェリカがソファから立ち上がった。
「僕を迎えに来てくれたの?アンジェリカちゃん」
「いえ、飲み物を取りにきただけですわ」
甘やかにアンジェリカが笑う。
ーー違うよ。僕を待っていてくれたんだ!
喜びのあまり、エルドレッドはアンジェリカを抱きしめる。相変わらず、エルドレッドを酩酊させる最高の香り。
ーー絶対に逃がさない…!
この子は僕のだ。邪魔するヤツは、誰であれ絶対に許さない。
エルドレッドは改めて誓うのだった。
そしてまた影が薄くなるセバスチャン…