第40話
夢の時間は終わりを告げる。
お告げの使者は、王子様だった。ーー現実の。
くるりくるり。ひらりひらり。
ドレスが舞うこの美しい舞踏会を、リリアンは一生忘れないだろう。
「アンジェリカ嬢から頼まれたんだ」
「はい。私もご迷惑をかけないうちに、退散した方が良いと思います」
「申し訳ない。またの機会に」
「………?」
次があるような言い草に、リリアンは首をかしげる。また。ーーそういえば、第3王子にもそう言われた。
他意は無い、とリリアンは王子の発言を封じ込めた。
「殿下は、ダンスがお上手ですね」
「貴族の嗜みだからね。リリアン嬢こそ、ダンスがとても上手だ」
「ありがとうございます」
そういえば、第3王子とも踊りやすかった。貴族は皆ダンスが上手いのだろうか?
ーーきっと、ルーカス・ソーンヒル様も…
あの柔らかく笑うアンジェリカの兄と、一度踊ってみたかった。そう願った自分を嗤った。
ーー贅沢を覚えてしまったな…
現実を見なさい、リリアン。ソーンヒル様のご好意が終われば、貴女はみすぼらしい学生に戻るのよ。
「私は、一人で御屋敷に戻ります。ソーンヒル様を巻き添えにしたくありません」
「……リリアン嬢の目には、アンジェリカ嬢が舞踏会に残って楽しみたい女性に映るかい?」
「……いえ、早く帰りたいと思います」
「うん。私もそう思う。これ以上ここにいたら、引っ切り無しに男性に声をかけられるだろうから」
面倒くさがりの彼女は、嫌がるだろう?とアレクサンドルは同意を求める。
ーー嫌なのは、殿下ではないの?
そう思ってリリアンはアレクサンドルを見つめた。アレクサンドルは苦笑する。
否定はしないよ。心の中で呟いた。
「今日はお招きありがとうごさいました」
「うん。夏休み中、よろしく頼む」
「こちらこそ」
「さあ、迎えが来たよ」
そう言って、アレクサンドルはリリアンの手をルーカスに渡した。
リリアンは驚いて紫水晶の瞳を大きく開く。
最後にもう一つ、ご褒美をもらった。リリアンは泣きそうになる。
「リリアン嬢を頼むよ、ルーカス」
「はい」
「私の護衛も、そのくらい勤勉につとめてくれたら良いのに」
「はは、ご冗談を」
笑えない冗談だよ、ルーカス。全く、怠惰はソーンヒル家の家訓だろうか?
飄々と去るルーカスに苛つきながら、アレクサンドルはダンスホールに戻っていった。
ルーカスと共に、ダンスホール入り口に向かう。途中、リオンにエスコートされたアンジェリカと合流した。
「リリアン嬢、大丈夫でしたか?」
「はい。殿下二人に助けてもらいました」
「二人?」
リオンとアンジェリカが顔を見合わせる。アレクサンドルはともかく、第3王子が助け船を出したのは何故だろう?
「ガスコイン様、今宵はありがとうございました」
「こちらこそ、アンジェリカ嬢。模擬舞踏会の夢心地を、今宵も体験出来て、天にも昇る喜びです」
「ふふ、お上手ですわね」
薄手のイブニング・ケープを貰って会場を出る。すると、そこにはエルドレッドがいた。ーーあれから誰とも踊らず、アンジェリカを待っていたのだろうか。
「あれ?エルドレッド様…?」
「やあ、リオン君。こんばんは」
「……こんばんは」
出口でするやり取りではないが、先輩に逆らえず挨拶を返したリオン。ちらと隣を見ると、アンジェリカが苦笑していた。
「アンジェリカちゃん、もう帰るの?」
「ええ、ソーンリー様。今宵はありがとうございました」
「……僕としては、永遠に君と踊っていたかったけれど。でも別の男と踊る姿を見て、こんなに焼き焦げた思いをすると思わなかった。ーーアンジェリカ」
リオンに絡んでいた手を取り、エルドレッドはキスを落とす。
「お休み。良い夢を」
「お休みなさい、ソーンリー様」
笑みを交わし合って、別れる二人。エルドレッドはアンジェリカの姿をいつまでもいつまでも見送っていた。
「……エルドレッド様、ここにずっと?」
「うん。ダンスホールにいると、ご令嬢と踊らなくてはならないからね。避難していた」
「本気なんですね、アンジェリカ嬢のこと」
「もちろん」
エルドレッドはリオンに向き合う。体躯の良いリオンだが、エルドレッドも流石に鍛え上げられていて、引き締まった躰はしなやかな氈鹿のようだ。視線は、リオンより指二本分低い。
「絶対に誰にも渡さない。今日改めて分かったよ。僕はもう、アンジェリカ以外には欲情しない」
「俺も、アンジェリカ嬢が好きです。あの人だけが欲しい。ーー俺も、なり振り構っていられませんよ」
「いいね、遠慮がなくて。でも、ガスコイン伯爵には、良い娘を紹介しておくよ」
「あ、こら、早速卑怯ですよ!」
「はは、君は結構強力な恋敵だからね」
腕を組んで笑うエルドレッド。じゃあね、と手を振って、その場を後にした。
エルドレッドは考える。恋敵のことを。リオンは正直眼中になかったが、まさか英雄と繋がりがあるとは。
それ以上に厄介なのは、彼の親友だ。
本人は認めないだろうが、彼はアンジェリカに恋をしている。彼女を婚約者にするのは、命令すれば簡単なことだろう。
ーーたとえ宰相閣下でも、王家の依頼を、無碍に断れるものだろうか?
そして、セバスチャン。
あの執事が、酷い粘着力でアンジェリカに執着しているのは、明らかだ。だが、使用人という立場である以上、彼女を手に入れることは困難なハズだ。
ーー何とかしそうな気がしなくもないが。
誰であれ、容赦しない。
アンジェリカを最終的に手に入れるのは、僕だ。
エルドレッドは気付いてしまったのだ。アンジェリカ以外の女性には、もう拒否反応が起こることを。
ーーあの時。
ファーストダンス後、アンジェリカをアレクに取られ、エルドレッドは所在なさげにホールにいた。アンジェリカを瞳に捉えて。
だが、周囲はエルドレッドを決して一人にはさせなかった。わらわらとご令嬢方が、エルドレッドに群がる。
「ソーンリー様、是非私とダンスを…」
「いえ、私と。私の父は文部大臣でございます」
「我が家も、財務次官ですわ。どうか…」
「まあ、私こそ…」
姦しさよりも、醜悪な(と感じる)匂いが、エルドレッドには耐えられない。誰も彼も、打算的な匂い。
ゴメンね、気分が悪いから、とご令嬢方を袖にして、エルドレッドはホールを出た。
ーーアンジェリカ…!
今すぐ、君の匂いを嗅ぎたい。傍にいたい。
出口で待っていれば、きっともうすぐ君に会えるだろう。君は、こんな集まりが嫌いだから。優しい君は、リリアン嬢に配慮するから。もうすぐ会える。もうすぐ……。
フワリと、良い香りがした。柱の陰から、エルドレッドは躍り出る。遠くに、リオンにエスコートされてこちらに来るアンジェリカの姿が見える。
ーーあの手を握って良いのは、僕だけだ!
焦げ付くような嫉妬。会場総ての野郎を、八つ裂きにしてしまいたい!
出口に到達したアンジェリカと目が合う。アンジェリカは困ったように微笑んだ。そこに、エルドレッドを拒否する感情は、ない。
ーーああ…!たまらない……!
アンジェリカの清涼で芳潤な香りといったら!エルドレッドの下半身が再び熱を取り戻す。
「お休み。良い夢を」
この手を離したくない。柔らかなこの肢体を抱きしめて、ともに朝を迎えたい。
ーーでも、今はこれが精一杯。君の安眠を、心から祈るよ。
夏中、一緒に居られるから。焦るな、エルドレッド。ゆっくり、確実にアンジェリカを手に入れるんだ。
「……愛しているよ、アンジェリカ」
できれば、夢の中でまた君に会いたい。エルドレッドは切ない気持ちで満天の星空を見上げた。




