第37話
あるところに、小さなお姫様がいました。
小さなお姫様は、たいそう愛らしくとても可憐でした。
小さなお姫様には、不思議な力がありました。
その力は、たいそう便利でとても有益なものでした。
小さなお姫様は、身近な大人に都合よく使われました。
小さなお姫様は、大人が自分を頼ることに、たいそう喜びを感じていました。だから、どんな時でも頑張りました。
けれど、頭の良い小さなお姫様は、いつしか自分が利用されていることに気が付きました。
ーーでも、お姫様はすでに感情を殺す術を身に付け、身についてしまった習慣は、中々消えることはありませんでした。
小さなお姫様のお兄さんは、お姫様をみて思いました。
この子は、大人に殺されたのだと。
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朝の惨劇を、アンジェリカは一旦忘れることにした。
父の目論見など考えてもムダだろうし、母に至っては、娘が今日の舞踏会でデビューすることなど、頭の片隅にもないだろう。
二人とも、己のために伯爵領へ来たわけではない、とアンジェリカは思っている。
身仕度をしながら、ふとアンジェリカは気が付いた。
「リリアン嬢のエスコートは、どなたが?」
「それも手配済です、お嬢様」
「………」
何もかも先回りして、やりたい放題なセバスチャンである。彼の主人として、窘めた方が良いだろうか?
「……私のエスコートは、ジーヴスがやってくれないかしら……?」
「現実逃避はいけません、お嬢様。とりあえず公爵閣下がエスコートしてくださることは、間違いございません」
「セバスったら……余計なことを……」
大体、あの母が、ウィリアムの出席する舞踏会に不参加、などということはあり得ない。
となれば、おのずとウィリアムはアンジェリカをエスコートしている場合ではなくなる。
「もちろんその点も、抜かりなく」
ニヤリとそれはそれは美麗な顔で笑うセバスチャン。アンジェリカの一生に一度のデビューに、半端ない気合を入れていた。
コルセットをうんと絞られ、ペチコートを着せられ、装飾品をこれでもか!と身に付け、ものすごく凝った髪型を強いられる。
ーー何の拷問か…!
とかく面倒くさがりのアンジェリカにとって、着飾ることなど、酷く心が打ちのめされる行為に等しい。
そんなアンジェリカの気鬱をよそに、アンジェリカを粧う度、瞳がキラキラキラキラしていくメイドとセバスチャンであった。
半日以上かけて、女性たちの装いが整った。
隣室で身仕度をしていたリリアンが、アンジェリカを見て涙ぐむ。
「女神さま……っ!」
女神様が地上に降臨した!尊すぎる……!
と全身で悶えながら、アンジェリカの美しさを褒める。
「リリアン嬢も、とても綺麗ですわ。ドレスもお似合いで良かった」
「はう!女神様が私を褒めてくださった……!」
一生分のご褒美をもらった、とリリアンは思った。
「本当に…お美しいです、お嬢様。今夜のお嬢様は、会場総ての男性を虜にすることでしょう」
「まあ、今宵は口が達者ね、セバス」
俺がエスコート出来ないのが残念です、とセバスチャンは本気で歯噛みをした。血が出てる。
コンコン、と柔らかいノックが響く。入室を許可すると、背の高い美形が現れた。
「おお、これはこれは…!美の女神もかくや、という美しさだね」
「……ルーカスお兄様!」
アンジェリカの顔がほころぶ。ルーカスはアンジェリカに近づき、挨拶を贈る。
「ご無沙汰してますわ、ルーカスお兄様。お時間は大丈夫ですの?」
「君の大切なデビューの日だ。駆けつけるのは当たり前だよ」
「ありがとう存じますわ、お兄様」
優しく微笑み合う兄妹。ソーンヒル家は、親子関係はともかく、夫婦仲と兄妹仲は他に誇れるほど良かった。
「伯爵様、本日は誠にありがとうございます」
「やあ、セバスチャンも元気そうでなによりだ。今日、僕がエスコートする女性はどなたかな?」
「こちらの、リリアン嬢でございます」
「り、リリアンと申します」
突如現れたダークブラウンの髪の美青年は、アンジェリカの兄であった。急いでお辞儀をすると、脇で「85点」という声が聞こえた。
「これは、可憐な女性だね。今宵、貴女をエスコート出来る幸運に感謝します」
「あの、こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」
手の甲にキスを受けた。生まれて初めてだ。貴族でもない私を、ソーンヒル家は一人の「女性」として、優しく丁寧に扱ってくれる。
ーー夢のよう…
リリアンは幸せを噛みしめた。
「うーん、今日のアンジェリカは、第1王子に見せたくないなぁ」
「私もです、ルーカス様」
「女神を見たら、惚れない男などいないよね」
「はい、私もそう思います」
ルーカスの発言に、セバスチャンとリリアンが全力で肯定する。
アンジェリカは微苦笑して言った。
「買いかぶりが過ぎますわ。身内贔屓ですわよ」
「……アンジェリカ……少しは自覚したまえ。君は本当に、ほんとーに美しくて華麗で玲瓏なんだよ」
「ルーカス様の言うとおりです。本日は、私も思うように護衛出来ませんので、自己防衛を強化してください」
「わ、私も、ソーンヒル様の防波堤になりますわ!」
「いやいや、君も十分可憐で愛らしいから、気を付けたまえよ」
「あ、ありがとうございます」
一人の女性扱いされるのは、何だか照れる。
嬉しいやらこそばいやらで、リリアンは頬を赤く染めた。
対して、肩をすくめて苦笑いするアンジェリカ。それを見て、ルーカスは呟いた。
「……これは、本気を出してアンジェリカを護らねば。野郎の格好の餌食だ」
この子の危機感のなさはどうだろう!もはや罪である。全く、ジーヴスとセバスチャンが甘やかすから、己の身を顧みなくなるのだ。
そう憤る一方で、ルーカスは安堵もする。
ーーまだ、僕がアンジェリカにしてあげられることがある
僕の小さなお姫様。
大人に利用され、大人の仮面を着けさせられ、もう取れなくなった哀れな姫。
僕が愛してあげる。
被って取れなくなった仮面ごと、君を愛しているよ。
僕の愛するお姫様。
君を傷つける総てのものから、僕が護ってあげる。
ーー僕の小さなお姫様
まずは、王家の目に留まらぬよう。王家に絡め取られぬよう、目を光らせて警戒する。
考えることは、ウィリアムのそれと完全一致していた。