第16話
清く正しく生きてきたわけじゃない。
でも、出来るだけ、やれる限り、真面目に頑張ってきた。
後ろ暗い点は、ほとんどない。
幼少の頃、空腹に耐えかねて、パンを1つだけ盗んだことがあった。それだけだ。
この仕打ちは、何の報いなのだろう。
ーー私は、何故生まれてきたのだろう……
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椅子の事件があって、3日。
アンジェリカはエルドレッドに(無理矢理)頼まれたので、一応椅子の子を眺めていた。
こうして注視していると、リリアンは本当によく嫌がらせを受けている。
備品の類いは、アンジェリカの施した魔法により追跡が可能のため、手元に戻すことが容易となった。そのことを、リリアンから大仰に感謝されている。
リリアンは、徹底してクラスメイトに孤立させられていたが、彼女は出来るだけひとりきりにならないよう、注意していた。
ーー賢い女性ね
アンジェリカはリリアンを見直した。
味方もいない、従僕もいない。その中で周りに誰もいない状況に陥ったら……。
ーーああ。面倒ね…
アンジェリカは正義の味方など、なりたくない。弱い人間を救うとか、誰かを守るとか、そんな面倒、考えたこともない。
誰かに感謝されたいわけでもない。
だから、アンジェリカのやる気は皆無だった。
そんなアンジェリカを見て、セバスチャンなら『とか思いながら、結局見捨てると寝覚めが悪いので、やることはやるお嬢様が素敵ですよ』なんてトキメクのだろう。
4日目。
ドサッと何かが落ちる音がした。
遙かかなたを眺めると、例によってストロベリーブロンドが嫌がらせを受けている。
のんびりした歩調で、アンジェリカは事件現場に近づいていった。
「何をするの、この平民風情が!」
「ミリアム様に触れるなんて……!」
「許されることでは、なくてよ!」
キャンキャン喚く犬が三人。その中心で、ミリアム・ソーントンが優雅に立っていた。
「も、申し訳ございません…」
「あやまって許されることではありませんわ!」
「平民の臭いが、こちらに移ってしまうではありませんか!」
おお、臭い臭い…と顔を顰める取り巻き。もう、取り付く島もない。
「……貴女、存外綺麗な顔をしているわね……」
くいっと扇でリリアンの顔を持ち上げるミリアム。淡いブルーの瞳が、リリアンを糾弾するかのように鋭く光る。
「アレクサンドル殿下とは、どういったご関係ですの?」
「え…?アレクサンドル殿下…?」
キョトンとした顔で、ミリアムを見つめるリリアン。紫水晶の瞳が不安げに揺れる。
「……昨日、アレクサンドル殿下のお口から、貴女の名前が出ました。殿下にどう接触したのですか?」
「で、殿下とは、お話したこともありません」
「まあ、白々しい……」
バシリ、と扇を翻し、リリアンの頬を打つ。リリアンはよろめいて、片手を地面についた。
ーー何を言っているのかしら…?
リリアンは本気で戸惑った。殿下なんて全く未知の生物だ。心当たりも無いことに、何故こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。
涙を堪えて、歯を食いしばる。
そこへ、フワリと良い匂いが鼻腔をかすめた。
「ごきげんよう、ソーントン様」
「……ソーンヒル様……」
取り巻きが、一斉に端に避けた。平民相手とは全く違う、格上の登場により、ひどく狼狽した様子だった。
「クラスメイトがお世話になったようですわね」
「……貴女には関係ございませんでしょう」
「彼女は、Sクラスの人ですから。級友のことは、見過ごせませんでしょう?」
「……ッ!」
ミリアムのコンプレックスを、えげつなくついてくるアンジェリカ。彼女の毒舌は、セバスチャンの折り紙付きである。
ふっとため息をついて、ミリアムが逆襲する。
「そちらの方が、私にぶつかって来たので、窘めただけでございますわ。Sクラスの方は、礼儀がなっておりませんわね」
「まあ!わざと体当たりすることが、“ぶつかって来た”ことになるんですの?Aクラスでは、常識が異なりますのね」
「な、なんですって…!」
カッと顔を赤く染めるミリアム。彼女とアンジェリカでは、所詮器が違う。
ハラハラしつつも、アンジェリカの華麗な姿に、リリアンは恍惚となる。
ーー見ていてくれたんだ…!
ミリアムからぶつかって来て、避けようがなかったリリアンは、教室に運ぶプリントを全部落としてしまった。言いがかりをつけられた上、扇で殴られる。
この理不尽をアンジェリカが見て、私を庇ってくれた。ーー女神が助けてくれた。
「言いがかりつけないで下さいませ、ソーンヒル様!私からぶつかるはずがないでしょう!」
「ふふ、そのようにムキになることが、図星の証左ですわ」
「な、なにを…!」
「本当に言いがかりなら」
ズイッとミリアムに近寄るアンジェリカ。エメラルドの瞳を燃やして、彼女に囁く。
「一部始終を、殿下にご報告申し上げますわ。幸い、私は生徒会の一員ですから」
不正は糺しませんとね、と不遜に微笑むアンジェリカ。ミリアムの手が、震え始める。
「……その必要はありませんわ」
サッと身を翻して、ミリアムと取り巻きは立ち去った。その姿を見ることもなく、アンジェリカはプリントを拾い上げる。
「さあ、戻りましょう」
と声をかけて、2人は教室に向かう。リリアンは喜びと興奮で、胸が一杯だった。
5日目。
何故か先生に呼び出され、長々と話をされた。ようやく解放されたのは、人気もない夕方であった。
急いで帰ろうと、早足で教室に戻ると、突然ドアが閉まる音がした。
驚いて振り向くと、下卑た笑いを浮かべる男子生徒が3人近づいてくる。
ーーしまった……
こうなることを危惧したから、徹底的にひとりきりにならない様にしていたのに……!
「平民のくせに、案外可愛い顔じゃねーか」
「アソコが良かったら、愛人にしてやるよ」
「へへ、大人しくしていれば、可愛いがってやるよ」
好き勝手言ってくれて!平民は、貴族の玩具じゃない!
リリアンは虚勢を張ってにらみつける。どうせ退学になるなら、こっちだって反撃してやる!
机やイスを投げつけて、逃げ回るリリアン。数と力で圧倒しようとする男たち。リリアンの必死の抵抗もむなしく、ついに男たちに摑まった。
両手を押さえられ、胸をまさぐられる。
ーーナンデ……
リリアンから、とうとう大粒の涙がこぼれ落ちた。
ーーコンナ、理不尽ナ目ニ遭ウナンテ…私ハドウシテ生マレテ来タノ……?
「解錠」
美しい声とともに、麗しい姫君が闖入してきた。
男たちは驚いて一斉に振り返る。
「……下種ね……」
心底軽蔑した瞳を男たちに向けて、アンジェリカは叫ぶ。
「セバス!」
ガシャン!と派手な音が上がる。セバスチャンが教室の窓をぶち破ったのだ。
男たちは、闖入者を呆然と眺める。そのスキにリリアンは男たちの拘束を逃れ、アンジェリカのもとへ向かった。
「捕縛」
セバスチャンの放つ闇魔法で、男たちは呆気なく拘束された。魔法を解除しようともがくが、ビクともしない。
セバスチャンの闇魔法は、あまりに高度で、あまりに完璧だった。
「ふふ、今日も完璧ですわね、セバス」
「お褒めに与りまして」
優雅に微笑む主従。すると、リリアンがアンジェリカに抱きついてきた。
ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も繰り返し、ブルブル震えながらアンジェリカにしがみつくリリアン。
アンジェリカはそっと労うように、リリアンの頭を撫ぜた。




