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熟成チーズの秘密

昔は白が好きだったけど、最近は断然赤だ。ワインの話。20代の頃は、甘口の白ワインを2杯も飲めば、ほろ酔いで楽しい気分になれた。だけど、今はそんな流ちょうなことを言ってられない。ガブガブ飲むことを自分の課している。パンチのある赤を1本。時には2本。特に、仕事を家に持ち帰った夜は必須・・・と言っても、ほぼ毎晩持ち帰ってるから結局毎晩飲んでるんだけど。一番嫌いな会議の資料を作らなくちゃいけない今夜は、赤が絶対必要だ。2本目があっという間に胃の中に流し込まれ、躊躇なく3本目を開ける。なんたって、嫌いな仕事をしているのだ。自分に褒美をあげてなにが悪い。

こんなに大量に飲んでも酔わなくなった。脳の半分はふわっとするんだけど、もう半分はピンと張りつめている。緊張がほどけない。転職して半年。ずっとこんな感じだ。以前よりも、だいぶんランクが上の大手に入れたんだから、このくらいこと当たり前だ。同僚も先輩もみんな頑張ってる。一番新人のわたしが弱気でどうする? わたしゃ、こんなことでへこたれねえぜ。あぁ。グラスに注ぐのも面倒になってきた。ラッパ飲みする。キーボードを打つ。ラッパ。打つ。ラッパ。ラッパ。

あーお腹空いてきた。昼、コンビニのおにぎりを食べた切り、固形物を口に入れていない。立ち上がるのも面倒で、ほふく前進で冷蔵庫に向かう。ワンルームだからあっと言う間に到着。チーズがあった。握りこぶしくらいの大きさの、ちょっと値の張るいいやつ。いつ買ったっけ? 1か月くらい前? まだ、ワイン1本で満足していた頃だ。たぶん。

未開封のチーズを手に取り、ビニールを歯で引きちぎる。ころんと転がり出てきた中身を手の平でキャッチ。そのまま真っ二つに割り、片方を引きちぎったビニールの中に放り込み冷蔵庫に戻し、もう片方は手づかみのままかじりつく。ハード系のチーズ、うまい。ものすごくうまい。こりゃワインがすすむわい。リスみたいに口いっぱいチーズをほおばりながら、手づかみのチーズを床につけないように気をつけつつ、またほふく前進でパソコンの前に戻る。左手はチーズ担当、右手はキーボードとワイン担当。交互に動かし、資料作りを続ける。手の中のチーズと3本目のワインがなくなる頃、資料は完成している。はずだ。3時にはベッドに入りたい。それが今一番の望みだ。


また何日か経った。

限界を超えた疲れは、気力を根こそぎはぎ取っていく。何もする気が起きない。仕事以外は。というか、休むという選択肢がない。上司が許してくれない。「休みを取るな」と口に出しては言わないが、無言の圧で「休めるわけねーよな。察しろ」と言っている。ここは軍隊か、と思うほど、わたしの上司は絶対王者だった。外資系なのに、日本的な暗黙の了解のごり押し。矛盾してるだろ。

そうなるとすべて日常生活にしわ寄せがくる。部屋はぐちゃぐちゃ。おしゃれは皆無。不潔に見せないためだけの年増リクルートスーツ。申し訳ない程度のメイク。買い物もしないから食べるものもない。なのに、ワインは飲むのです。買い置きも十分あるのです。でもそれは仕事をするためなのです。持ち帰った仕事をするため、くたくたな上半身を、ワインというニンジンで釣って起き上がらせ、またキーボードを打つ。打つ飲む打つ打つ。これは明日の朝イチで絶対王者に提出しないといけないので、どうしても仕上げないといけない。誤字脱字も許されない。今日もベッドで寝ることはできないだろう。いつからテーブルで突っ伏して寝ることが普通になったのか覚えていない。もうどうでもいい。とにかく仕事を終わらせなければ。苦痛を麻痺させるためにがぶ飲みしなければ。あ、そうだ。ワインのお供があったことを思い出す。チーズ。硬い食べ物だったら、噛むのさえ面倒だけど、チーズを食すくらいの咀嚼体力はある。久しぶりのほふく前進で冷蔵庫へ出動し、扉を開けた。チーズが鎮座していた。歯で引きちぎったビニールの中に、真っ二つに割った状態でそのまんまあった。腹ばいのままビニールごとつかみ、ほふく前進、ならぬ、ほふく後進でノーパソに戻る。このチーズ、確かうまかった気がする。でもそんなのどうでもいい。ワインをたくさん飲むためのただの塩分だ。ビニールから手づかみでチーズを取り出す。あれ? なんだこれ・・・。チーズ全体が、ふわっとした泡みたいなものにおおわれている。


「・・・カビ?」


うん、おそらく。いや、確実にカビだ。最初からはえていたものではない。前はこんなのなかった。明らかにうちの冷蔵庫でできたカビだった。


ぱくっ


食べた。カビだと認めて、わたしは食べた。疲れがマックスを過ぎると、奇行がまかり通る。さらに二口、三口・・・。自家製カビチーズ、普通においしかった。しょっぱくてすっぱくて、ワインがすすんだ。半分くらい食べて、また冷蔵庫につっこんだ。お腹壊すかもしれない。でもそうなったらしょうがない。食中毒になったら、会社を休む理由になる・・・、カビがはえたチーズを躊躇なく食べたのは、本心がそう望んでいたからかもしれない。


自家製カビチーズの体への影響は・・・なにもなかった。食中毒も体調不良も、腹を下すことさえもなかった。むしろ、いつもより元気だった。上司の理不尽な指示も、笑顔で受け入れられた。引きつったスマイルだったけど、いつもは引きつりのみだ。

残っていたチーズも全部食べてしまい、在庫ゼロになったので、チーズを買い込み帰宅した。すべてのチーズの封を開け、冷蔵庫に放置。自家製カビチーズの培養だ。

でも、新たに買ってきたチーズにカビははえなかった。同じ状態で放置したのに、きれいなままだ。前のはどうしてはえたのか、新しい方のチーズと何が違うのか・・・考えて思い当たったのが、“手づかみ”だった。新しい方は、ビニールを開けただけで触っておらず、前のはわしづかみにした。わたしは、ビニールに手を突っ込み、チーズを触った。まんべんなく接触するように、チーズの表面を、初めて買ってもらったぬいぐるみのように撫でた。

すべてのチーズを撫で終わった時、あほらしくなって笑った。何やってんだろ、わたし。手がチーズくさいよ。今夜はこのにおいだけでワインを飲もう。そして、仕事をしよう・・・。


ちょうど3日後だった。カビがはえた。笑ってしまうくらい手で触りまくったチーズに、あの白い綿あめみたいなカビが見事にできていた。

食べる。うまい。自家製カビチーズ、普通にうまい。

これは、わたしの手にチーズを熟成させる菌があって、それが見事に開花したということだろうか? いやそれしか考えられない。でも、そんなことがあり得るのか? 調べてみたけど、そんな事例は見つけられなかった。そりゃそうだろう。じゃあなんなんだ? 答えが見つからないまま、ふと肝心なことをまだ調べていないことに気が付いた。

『自宅でカビはえたチーズを食べていいのか?』

だ。もう食べてしまっているけど。一応。

『カビの部分を取り除き、おいしいと感じられればOK』

と、書いてあった。

取り除いてないよ~。カビ、思い切り食べちゃってるよ~。こんなこと書いてるんだったら、調べなきゃよかったよ~と後悔もしたが、思い返せば私の体、なんともない。むしろ元気だ。自家製カビチーズ、他の食べ物がいらないくらいのパワーフードと言っても過言ではない。だから、もういいや。明日またチーズを買ってこよう。どんどん作って食べるぞ、自家製カビチーズ。


チーズを食べて、パワーがみなぎったおかげで、仕事がはかどり、日曜日は家で仕事をする必要がなくなった。完全なるオフは半年ぶり・・・つまり、転職して初めてということ。なんてこった。

スマホが鳴った。

会社か? とビビったけど、幼馴染のあみちゃんだった。転職のために引っ越してきた、一人暮らしのこの家が、偶然にも近所だとわかったのが転職先に出勤する直前。その時飲みに行って以来、連絡さえ取っていなかった。


「急に思い出して、電話しちゃった」


電話の向こうのあみちゃんの声はカラカラと明るかった。わたしはおもわず、


「うちに来ない?」


と、誘ってしまった。突然の電話が心底うれしかったのだ。あみちゃんも二つ返事で「行く!」と答えてくれた。この家に友達を呼ぶのは初めてだ。てか、親以外入ったことがない。もちろん彼氏なんて皆無。この半年、本当に仕事しかしてこなかった。今日くらいは仕事のことは忘れて、あみちゃんと楽しい時間を過ごしたい。わたしは、散らかりまくっている部屋の真ん中で仁王立ちして、


「そうじすっか」


と、腕まくりをした。


あみちゃんは、半年前と全く変わらず元気そうだった。でもあみちゃんはわたしを見ると、


「痩せたねえ」


と少し心配そうな顔をした。


「3日徹夜した時の先生みたいな顔してる」


あみちゃんは、漫画家のアシスタントをしている。


「有名な漫画家さんと同じで誇らしいわ」

「褒めてないから」


あみちゃんは、買ってきてくれたたくさんの食糧を、食べろ食べろとすすめた。わたしたちはなんやかんやとおしゃべりをして、たくさん食べてたくさん笑った。

食べるものが尽きてきて、ワインでも飲むか、となった。


「なんかアテないの?」

「・・・あるよ」


わたしは、冷蔵庫から例のものを出した。自家製カビチーズ。もちろん食べるんじゃなく、「なんだよ、これ!」って、笑ってもらおうと出してみた。そしたら・・・


「なにこれ・・・カビ?」

「そう。冷蔵庫に置いてたら、はえてきた」

「やば・・・引くわ・・・」


全くウケなかった。シンプルにドン引きされた。


「調べたら、カビの部分を取り除けば食べれるらしいけどね」

「いやいや。これ全体的にカビってるって。ムリムリ」

「だよね」

「早く捨てな。まじでやばいって」

「わかった捨てる捨てる」


これ以上あみちゃんに引かれたくはなかったので、咄嗟にああ答えたけど、捨てる気は全くなかった。せっかく培養したのに、もったいない。


「ちょ、冷蔵庫に入れんなよ! ゴミ箱に入れなさいよ」

「あ・・・後で捨てるから・・・」


ごめんあみちゃん。捨てないの。わたしはカビだらけのチーズをうまいうまいっつって食ってんの。仕事のし過ぎで頭も味覚もバグってるんだよ。わたし、もう仕事いやなんだよ。逃げたいんだよ。あみちゃん、わたし、つらいんだよ。


こんな本音が吐しゃ物みたいにのど元までこみ上げたけど、ぐっと飲みこんだ。転職したのは、自分だ。自分が決めて進んだ道だから、たった半年で逃げ出すなんてことはあってはいけない。絶対に。

あみちゃんはもう何も言わなかった。おつまみなしで、ワインを飲んだ。



「なんで、こんな簡単なことができないんだっ!」


上司が怒鳴っている。どうやらわたしが何かミスをしたらしい。でも、わたしは悪いことはしていない。あり得ないくらい高い目標を勝手に設定し、絶対にできない期限で達成しろと命令したのは上司で、わたしはもちろんできなくて、その結果怒鳴っている。あほな上司の出来レースに、巻き込まれているだけだ。被害者はわたしだけではない。わたしの前にも、同僚がこれをやられていた。その前は先輩が・・・。この人、何やってんだろう? 一番の無能は自分だってこと、全然気づいてないんだな。

そう客観視することで精神を保とうとしていたのだけれど、怒鳴られているという現実からは逃れられない。敵意や悪意がこもった言葉の弾丸が、マシンガンのようにわたしの体を撃ち抜く。穴だらけになったわたしの心から、血と内臓が飛び出て、わたしは会社のフロアにぶっ倒れる。そんな想像をしながら、怒鳴り終わるまで耐え忍んだ。


抜け殻になりながら、その日の仕事を終え、なんとか帰宅したわたしは、服を着替えることもなく、ワインを開けた。ラッパ飲みする。ワインが精神安定剤。喉を鳴らして飲むと、ちょっと落ち着いた。

わたしは、置いてあったコピー用紙に、ペンを走らせた。上司殺害計画。

包丁で刺す。ネクタイで首を絞める。ビルの窓から突き落とす。娘を誘拐し、身代金の受け渡しの時に殺す。飲み物に洗剤を混ぜる。車のブレーキに細工する。崖に呼び出し、ドロップキックをかます。悪霊にとりつかせ、高速道路をブリッジで爆走させる、などなど。思いつく限り書きなぐった。楽しかった。自分がこんなに発想力があるとは知らなかった。こんなことをしても、なんの解決にもならないと理解していたが、上司を物理的に傷つけること以外に納得できる反撃は思いつかなかった。

用紙に余白がなくなり、別の紙を取ろうとした時、床に何かが落ちているのに気がついた。小石くらいの大きさの、黒い塊だった。テーブルの下にコロンと転がっている。そっと指で触れると、表面がぱさぱさと崩れた。指先についたそれを匂ってみる。


「チーズだ・・・」


食べ残したやつが床に転がって放置されていたってこと? でもなんであんなに黒い? 今度は黒いカビがはえたの?

わたしは床のチーズを手に取り、眺めた。石炭みたいに真っ黒だ。割ってみる。全部黒い。中の中まで浸透している。自家製カビチーズの進化系か? わたしはかじりつこうとチーズを口に近づけた・・・が、口に入れることはできなかった。この石炭チーズを食べる勇気をもっていなかった。でもだって、これ、床に落ちてたんじゃん。カビが食べれないんじゃなくて、汚いから食べないんだよ。勇気とかそんな話じゃないんだよ。

わたしは、誰を相手に言い訳してるのかわからないまま、石炭をゴミ箱に捨て、冷蔵庫にある、安心自家製カビチーズを取りに行った。


・・・。


言葉をなくす。冷気に包まれていたのは、白い綿あめカビに覆われたチーズではなく、ついさっき見た、石炭チーズだった。なぜか、冷蔵庫の中に保管していたチーズも真っ黒になっていた。なんだよこれ。わたしの唯一の楽しみまで、奪ってしまうのかよ。自家製カビチーズとワインだけが、わたしの味方だったのに。

わたしは、冷蔵庫の扉を乱暴に閉めると、2本目のワインを握りしめ、テーブルに戻った。そしてまた上司殺害計画のアイデア出しを再開し、コピー用紙に書きなぐった。


わたしは、次の日から会社に行かなかった。体が動かないのだ。トイレのような生理現象の時はなんとか動かせられるが、いざ出勤準備をしようとすると、体がガチガチになって停止してしまう。電話する、という行為もできなかった。人生初の無断欠勤。そのままベッドで布団にくるまっていた。

しばらくすると、スマホが鳴った。画面に『地獄』という表示。会社だ。ガチガチな体が一層固まる。時計を見ると、もう昼前だった。床の上でブルブル震える『地獄』をただ眺める。やっと止まってホッとすると、そのまま眠ってしまった。


次の日もまた次の日も会社には行かなかった。家に閉じこもり、ベッドで眠るか、起きている間は紙に上司殺害計画を書きまくった。余白がなくなるまで書ききると、別の紙を取り出して書く。仕事用のコピー用紙が山のようにあるから、いくらでも書きまくることができた。その間にもたびたび『地獄』からの電話が鳴ったが、放置していると、そのうち充電がなくなり静寂を取り戻した。


何日が経っただろう。インターホンが鳴った。当然のごとく無視した。また鳴った。無視。鳴る。布団をかぶった。鳴る鳴る鳴る。次にノックがドンドンドンドン。


あーうるせー!!


わたしは、台所で包丁を握って、ドアに向かった。上司なら、そのまま刺せばいい。

ドアを開ける。

立っていたのは、あみちゃんだった。今にも泣きだしそうな怒りだしそうな顔をして、わたしをにらみつけていた。


「ふざけんなよっ本当にまじで。こっちが心配で死にそうになったわ」


あみちゃんは一気にそう言うと、生きててよかった、とつぶやいて、呆然としているわたしを抱きしめた。握りしめていた包丁は、するりと落ちて床に刺さった。


「くっせー。あんたチーズの腐った匂いするんだけどまじで最悪」


と言ってあみちゃんが泣いた。わたしもつられて泣いた。憎悪以外の感情が生まれたのは、久しぶりだった。


この後、風呂に入り、あみちゃんと一緒に部屋を掃除した。わたしは一人冷蔵庫に正座し、取っ手をつかむと、恐る恐る扉を開けた。以前あった石炭チーズは、液状化して、イカ墨みたいになっていた。プラスチックの棚板に流れて黒く光っている。わたしの背後から見ていたあみちゃんが絶望的な声をもらす。


「うわぁ。なにこれ」

「これは・・・さっきまでのわたし」


わたしは、黒い液体をきれいにふき取り、ついでに冷蔵庫の中も磨いた。そして、パワハラに詳しい弁護士事務所に電話をかけ、アポを取った。

これからのことは、その後考えよう。でも、これだけははっきり決めている。心が真っ黒になる道は、もう歩かない。それだけは絶対。


おわり


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


次回は12月18日頃の投稿予定です。


よかったら、感想もお待ちしています。

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