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折しも、今アーシャが居るのはエデンバッハ邸の大階段であった。日課の階段昇降をしている最中であった。
ディックから声を掛けられたのは、アーシャが階段を登り始めて8段目に足を掛けた直後のことだった。
「あっ、うっ、うえぇぇえぇ」
クールデンでの生活の中で慣れ親しみつつあるディックの声に、アーシャは思わず反応してしまったのだ。久しぶりに聞く美声と言えるテノールボイスに、身体が嬉しいとばかりに反射的に振り返ってしまったのだ。
バランスを崩したアーシャの身体は、大階段からディックの方へ向かって落ちていく。
(死、死ぬ……)
一瞬のうちにディックは手荷物を床に置くなり、アーシャを受け止めるべく動いた。
――パシッ
――ドシッ、ドスッ
落ちていくアーシャの手をディックはグイと引き、反対の手で身体を抱き留める。勢いよく引き寄せられたアーシャはディックにしがみつこうとした。アーシャの身体はディックの身体の周りをくるりと一回転して、最後は抱きかかえられるようにして守られた。遠心力の勢いで、二人は振り飛ばされた形のまま、最後は床に滑り込むようにして座り込んでいた。
(……生きてる……)
ディックの腕の中で、アーシャは固く瞑った目をおそるおそる見ひらいた。心臓がバクバクと脈打っているのを感じる。
アーシャの目の前、驚くほど近くには、しかめ面したディックの顔があった。覗き込むようにしてアーシャの全身をサッと視線で確認していく。
「ケガはないか?」
「あ、ありません。あ、あのう、助けていただきありがとうございました」
アーシャは身動きが取りにくいなか、頭をを下げるや否や、ディックから素早く離れた。あまりの近さにお互い何となく気まずい。
二人にレイヤードが近寄って来た。
「二人とも無事のようだねえぇ。いやぁ、すごいな二人とも。良いものを見せてもらったよぉ。うん、閃いた。今のクルリと一回転したのをダンスの振り付けにとりいれよう。うん、うん。アーシャ嬢は妖精みたいで素敵だったねぇ」
ギョッとした顔でアーシャはレイヤードを見た。彼は無我夢中で何やらメモを取っている。
アーシャの心臓は2重の意味でまだドキドキしていた。階段から落ちたとき、「死ぬ」と本気で思ったのだ。ディックに助けられるとは思わなかった。まだ、わずかながら手が震えている。足首をひねっていないか、そっと確認をした。
「様子を見に来てみたら、こんな有様とはな。いつもこんな様子なのか?」
エデンバッハ邸にアーシャを一人残して去って行ったディックだったが、気にはしていたのだ。丁度今日は仕事が早めに終わったので、再び訪問したのだった。
ディックはめんどり亭に泊まって王宮へ通って仕事をしていることをアーシャに伝えた。
「『アーシャも仕事で王都に来ているが、訳あってめんどり亭には泊まれない』ってエイダに言ったら、『またロベルトに使われているの?』だとさ。あいつは鋭いなぁ」
「踊りの名手として国賓をお迎えする役目は、名誉なことだと思いますよ。なんで私がって思いますけど。あー、私もめんどり亭に泊まりながら、ダンスの練習に通いたいです。このお屋敷の皆さんは親切だし、食事も美味しいです。だけどキレイな仕草やマナーを気にしながら生活するのは今更って感じで、居心地悪いんです」
ここぞとばかりにアーシャはレイヤードとディックに訴えた。
「まあ、頑張れ。それと、あぁ、雰囲気というか仕草って言うか、結構良い感じだぞ。あー、すごくキレイだ」
「ほらほら、アーシャ嬢、褒められているよ。貴方の努力はちゃんと形になっている」
「努力しているんですから、結果が出て来なくちゃ私が可哀想です」
ディックはしばらくアーシャがダンスのレッスンをする様を見て、ものすごく褒めた後、めんどり亭へと帰って行った。
入れ替わるようにしてロベルトが帰宅した。
「客が来たそうだな」
動きやすい服装に着替えたロベルトはアーシャと共にダンスホールへと向かう。夕食の前に踊ろうというのだ。
(えー、まだ私、踊るの?)
心の中では、もう踊りたくないと思いつつ、断ることの出来ないアーシャはロベルトに従った。
自らにも他人にも厳しいロベルトのダンスは、正確無比と言えるほど規則正しいリズムを刻む。仕事を一日こなした後とは思えないほど、スムーズにアーシャをリードし、サポートする。心なしかロベルトの眼差しは優しい。
(ちゃんと動きやすいようにリードしてくれるのよね)
普段と違って、ダンスを踊るときは気配り上手なロベルトに対して「敵わないな」と思うアーシャであった。