第九話
そのまま乱入してくるかと思ったのだが、千賀さんは入口とは反対の方に移動した。
それでひとまず安心していたら、店の奥から千賀さんが現れ、また紅茶をこぼしてしまった。
千賀さんは、カウンターの丸椅子にこちら向きに座って足を組んだ。
「雪菜、仕事しないんなら引っ込んでろ」
カウンターの奥からマスターの声。彼女はここの子だったのか。
「えー? いいじゃんよ。お客さんいないんだし」
俺たちは無視かよ。
「「いるだろうが」」
思わずマスターとハモる。
千賀さんはけらけら笑うと、
「じゃあ、今はあたしもお客さんになるからさ。あたしにも紅茶一杯お願いね」
そういうとこっちに移動して来て、ずうずうしく俺の隣に座り込んだ。せめて小笠原さんの隣にしろよ。
「お前なぁ……」
ぶつぶつ言いつつも、マスターは紅茶を入れて席まで持ってきた。
「すみませんねぇ、うちの娘がお邪魔してしまって」
馴れ馴れしく俺の隣にぴったりくっついて座っている娘を見て、反対側で涙を拭っている小笠原さんを見て、マスターはため息を吐いた。
「お客さんの前でため息吐くんじゃねぇ!」
「お前のせいだろうが!」
マスターは娘の頭を引っぱたいて、奥に戻っていった。
「それで、柊はなんで小笠原さんを泣かしてんだ?」
紅茶を飲んで一息ついて。千賀さんはそんなことを言い出した。
どう言おうか思案していると、先に小笠原さんが口を開いた。
「千賀さん……もう柊君のことを、からかわないで……」
おそらく同情心が溢れ出ているのだろう。
「あらあら。もう小笠原さんまですっかり落とされちゃってるのね」
千賀さんは悪びれるでもなく。
小笠原さんの目付きが険しくなる。
「まぁいいけどさ、私には。九重さんが知ったらどう思うかは知らないけどね」
小笠原さんはいきなり立ち上がり、千賀さんを見下すように睨みつけた。
「そう……。では、私も、あなたの過去を調べさせてもらうわ」
「……なん……だと!?」
小笠原さんの言葉に、千賀さんがいきり立つ。日高さんが言っていた、『手痛い目』のことを指しているのか。小笠原さんも、噂話くらいは聞いているのだろう。
「やめろ!!」
怒鳴りつけると、二人の動きが止まった。
「……二人ともやめてくれ。小笠原さん、俺のことはいいから、千賀さんの挑発に乗らないで。千賀さん、からかいたいのなら、俺だけにしてくれよ。……たのむから」
どうしてこんなことになるのか。
千賀さんは俯いて、唇を噛みしめていた。
「……なんなんだよ、お前は……」
苦しげに言葉を漏らす。
文句を言い返そうとも思わず、黙っていると。
「……何か言い返せよ」
言い捨てて、店の奥に戻っていってしまった。
俺に何か言いたいことがあったのだろう。ただ、彼女が何に対して怒っているのか、俺には判らなかった。
翌日。どうなることかと思っていたが、千賀さんは静かにしていた。
いつものようにニヤニヤ笑うでもなく。時折冷たい視線を俺に向けるだけで、騒ぐこともなかった。
「逆に不気味だね」
誰かが俺の心を読んだかのように呟く。
楠田さんだった。
「楠田さん……」
大丈夫なのか?
俺の言いたいことが判ったのか、楠田さんはため息を吐いた。
「あれからさ。誰とも話さないことを止めようとしても、今更用もなく話しかけられる相手なんて、柊君くらいしかいないことに気付いてね」
彼女は自嘲気味に笑った。
「目立ち過ぎない程度にだけど、私とも会話してくれないかな?」
「ああ。──加減が難しいかもしれないけどな」
俺も自嘲気味に笑って返す。俺も、話が出来る男子はいない。逆に、楠田さんが男子の俺と話をしても、今では大して目立たないのだ。その事実に笑ってしまう。
俺と楠田さんが話をしているのを見て、千賀さんが行動に移した。遙ちゃんのところに行き、何やら話をしている。おそらく、俺についてあることないこと吹聴しているのだろう。
俺の何が、彼女をそうまでさせるのだろうか。俺のことを見ていると、日高さんが言っていた、千賀さんが負った『手痛い目』を連想させるのかもしれない。だが、その『手痛い目』が何か判らないので、俺にはどうすることも出来なかった。
遙ちゃんが、俺の方を見て。俺と、まだ傍に居る楠田さんを交互に見て。その後、自分の席に座っている小笠原さんの方を見た。釣られて小笠原さんの方に目を向けると、彼女と目が合った。彼女は、また俺に哀れみの目を向けていた。
思わず俯いて、ため息が漏れる。
気がつくと、遙ちゃんが俺の傍まで来ていた。楠田さんの反対側に。
「柊君……どうしてなの?」
どうやら怒っているらしい。
「九重さん?」
楠田さんが、何事かと問う。
だが、遙ちゃんは楠田さんには一瞬目を向けただけで、質問は無視した。
「柊君は、姉さんとお付き合いするんでしょう?」
ああ。彼女は、翠さんの代わりに、嫉妬してくれているのか。
彼女の中では、俺は翠さんと付き合う一歩手前、ということになっていたっけ。
「それなのに、昨日は美貴とデートしてたって? 今も楠田さんと親しげに話をしているし」
「「親しげ……?」」
楠田さんと顔を見合わせ、同時に漏らす。
「ほら、やっぱり」
「これは、親しげと言うんじゃなくて、息が合ってるって言うんだよ」
思わず突っ込む。
「口数が少ない日高さんともよく話をしているみたいだし。その日高さんよりもっと会話が無い楠田さんと息が合うほど仲がいいのね」
興奮している遙ちゃんを宥めようと、小笠原さんが近づくのが見えて、手で制した。今の小笠原さんでは、火に油な気がしたのだ。それに、あの事件のことまで言い出しかねない。
「あの、は……こ、九重さん」
思わず名前で呼んでしまいそうになる。どうにか彼女の気を静めないと。
傍から見れば、まるで遙ちゃんが俺の女性関係に嫉妬しているかの様に見えただろう。いくらなんでも目立ちすぎだし、遙ちゃんを激高させるのも色々と良くない。
どういえばいいかと思案していると、楠田さんが割り込んだ。
「九重さん。あなた、柊君の彼女じゃないんでしょう?」
窘めるように、だが柔らかく話しかけている。
遙ちゃんは、楠田さんを睨み付けた。
「それに、誰かと付き合っていたら、クラスメイトとすら話をしてはいけないの?」
「そっ、それは……」
一般論での展開。興奮している彼女に通じるか心配だったが、案外彼女は冷静だった。
「正式にお付き合いしている状態でなら、他の女の子とデートするのは確かにどうかと思うけど。柊君とあなたのお姉さんは、まだ付き合っている訳でもないのでしょう?」
理詰めで優しく押され、遙ちゃんの興奮は次第に治まって。
「……ご、ごめんなさい……」
遙ちゃんは消沈して、自分の席に戻っていった。
「すまん」
楠田さんに謝る。
「いいさ」
気にするな、と彼女も自分の席に戻った。
男前だな、お前。
遙ちゃんへの嗾けが不発に終わった千賀さんだったが、自分から俺に近寄ることは無かった。その機会というか隙を窺っているのかもしれないが。
そんな中、追加の燃料が投下されそうになった。翠さんが俺を尋ねてきたのだ。昨日のことはメールで報告していた。俺の素性に気付いた人物は、小笠原さんだったと。
先に気付いた俺は、呼び出される前に自分から廊下に出たのだが、俺のことを注視している連中にはバレバレだった。だから、廊下から小笠原さんを手だけで呼び出すのも簡単だったが。
だが、これだと千賀さんにも丸見えな訳で。遙ちゃんをまた嗾けようとしているのが見えた。
思わずため息が漏れる。
そんな俺たちの様子を見て、翠さんの目付きが険しくなる。そして、教室の中に入っていった。
慌てて後を追う。
「姉さん……」
嗾けられた遙ちゃんはこっちに向かっていたのだが、翠さんは遙ちゃんを無視して彼女の目の前を通り過ぎた。
遙ちゃんの机に腰を掛けた千賀さんの前まで行き、睨みつける。
「おやおや。何か御用ですか?」
千賀さんは上目使いでしれっと言ってのける。
「……文句があるなら、直接私に言えばいいじゃない」
翠さんは、静かに、怒りを顕にしていた。
「え~? 何のことかわかんなーい」
千賀さんは煽るようにすっ呆けてみせる。
そのまま暫く無言で睨み合う。
俺は、どう声を掛けていいものか逡巡していたが、答えは出ず。
やがて、再び翠さんが動き出す。
徐に千賀さんの襟首を両手で掴んで引き寄せ、頭突きでもしそうな勢いで顔を近づけた。
「直人君のことが気になって仕方が無いのでしょう!? 遠まわしに邪魔ばっかりしないで、好きなら告白でもなんでもすればいいじゃない!!」
とんでもないことを言い出したので一瞬固まってしまったが、止めなければ。
「翠さん、止めて下さい!」
翠さんの手を掴み、千賀さんの服から離させる。
それでも、二人は睨み合ったまま、視線を逸らさない。
緊迫した空気の中、呟き声が聞こえた。
「……なおと……くん?」
翠さんに無視され、後を付いて来ていた遙ちゃんの呟き。その、少し幼げな呟きに、戦慄した。
慌てて振り返ると、遙ちゃんは呆然として、俺たちを見ていた。
「……あれ? なんだか判らないけど……なにか……忘れてしまって……」
記憶が混乱しているのだろうか。まずいな。
俺も動揺してしまい、声が出ない。翠さんも同じく、青ざめた顔で遙ちゃんを心配そうにして見ていたが何も言えずにいた。
「だめ……思い出せない……ああっ」
遙ちゃんは苦しそうに悶え、そして糸が切れたようにこっちに倒れこんだ。慌てて彼女を支えようとしたが気を失ったらしく、全体重を俺に預けてきたため、俺は抱きかかえるように受け止めた。
うまく支えられず、一旦しゃがんで彼女の姿勢を整え、お姫様抱っこの状態にした。
「ひゅ~」
おどけたような、千賀さんの声。
こんな状況になってもまだ千賀さんは俺たちをからかうのか。
ギリ、と歯軋りのような音がした。何のことは無い、俺が歯を食いしばって音が漏れたのだった。
無言で遙ちゃんを抱えたまま立ち上がり、千賀さんを睨みつける。
千賀さんは俺を見て少し怯んだ。俺は今どんな顔をしているのだろうか。
このまま遙ちゃんを抱えている訳にも行かず、俺は無言で保健室に向かった。
保健室のベッドに遙ちゃんを寝かせると、俺たちは校医に追い出された。
翠さんだけは、身内ということもあり遙ちゃんの傍で見守ることを許されたが、俺と小笠原さんは追い出されたのだった。
保健室の前で、俺は上を見上げて呆然と立ち尽くしてしまう。
そんな俺を見て、小笠原さんはまた悲しげに俯いて鼻をすすった。彼女は俺に対して感情移入しすぎだ。
「──戻ろう」
そろそろ次の授業が始まる。小笠原さんまで俺につき合わせている訳にはいかない。
小笠原さんは、俯いたまま俺に従った。
「こんな風になるから……あなたは秘密を守ろうとしていたのね……」
俺たちが戻ると、ざわついていた教室がとたんに静かになる。
だが、事情を聞きに来るやつはいなかった。
千賀さんは、自分の席で俯いて微動だにもしない。俺たちがいない間に、日高さんに諌められたのだろう。
自分の席で不機嫌さを顕にして黙っている俺に、日高さんすら声を掛けてはこなかった。
結局、遙ちゃんは放課後まで教室に戻ることは無かった。
まだ保健室にいるのだろう、俺は遙ちゃんの鞄も持って保健室に向かう。
途中まで小笠原さんも一緒に来て、
「柊君がOKを出すまでは、私から遙には何も言わないから、安心して」
そういい残して、帰っていった。
「失礼します」
保健室に入ると、翠さんが窓の外を眺めていた。奥のベッドはカーテンに隠されており、まだ遙ちゃんはそこで休んでいるのだろう。
「翠さん……」
彼女の傍まで行き、小声で呼びかける。
「後で……連絡します」
彼女はそれだけ言って、目を伏せた。俺は、今は居ない方がいいのだろう。
俺は無言で頷き、遙ちゃんの鞄を翠さんの足元に置いて保健室を後にした。
その日の夜。翠さんからメールが届いた。
『また迷惑を掛けてしまいましたね。ごめんなさい。遙は、まだ呆然としているけれど、今のところ記憶が戻った様子はありません。これも最近、私が調子にのって直人君と親しくさせてもらった罰なんでしょう。だから、当分の間、直人君に近づくことも、名前で呼び合うことも封印させてください』