第八話
入学した頃に比べると、随分と回復したように思う。
病院でのリハビリでも、関節の可動域も十分に広がり、筋力もそれなりに付いたことを確認している。もうそろそろリハビリ治療も終了しそうだ。後は、時々発作の様に動かなくなることが無くなれば、完治と考えて差し支えなさそうなのだが。
リハビリの運動をやりながらそんなことを考えていると。
ふと、誰かに見られているような気がした。
リハビリ室の入り口に人影。今はこちらを見てはいなかったが、一人は去り、もう一人はそのままドアの影にいた。
気になってそちらに向かうと、ドアの影にいたのは神田さんだった。
「よう」
「こんにちわ」
神田さんが俺に気付き、挨拶を交わす。
誰かが去っていった方向を見ると、その人物が角を曲がるところが見えた。一瞬だったが、うちの高校の、女子の制服に見えた。
「今……、ここに誰かいましたか?」
尋ねると、神田さんは鼻で笑った。
「柊よう。男気も甲斐性もあるのはいいことなんだが、無分別に誰彼助けてっと、そのうちに面倒なことになるぜ」
神田さんが訳の判らないことを言う。
話が見えず、首を傾げていると、
「あれ、違ったか? 俺の勘違いだったか」
神田さんは一人ごちた。
「いやな。お前んとこの女子が、お前のことを心配した様子で見てたんだよ」
うちの女子生徒。やはり、先ほどのは見間違いではなかったか。
嫌な予感がする。
翠さんだったら、神田さんはそう言う筈。だから、来た人物は翠さんでは無い。
たまたま居合わせた人物なんだろうか。俺も制服だったから、同じ学校の生徒がいる、と気にしただけとか。いや、うちの男子の制服はどこにでもある汎用のものがベースになっているから殆ど区別は付かないだろう。だが──
「それで、何か話をしたんですか?」
「ああ。いや、俺がやったのは相槌を打つことだけだったんだけどな。向こうは、お前のことを、お前がケガを負った事件のことを知っていたよ。よくは判らんが、そのことを再確認しているみたいだったな」
ショックで硬直してしまう。
あの事件のことを知っている人物?
俺が知る限り、あのことを正しく把握しているのは翠さんだけだ。遙ちゃんが俺のことに気付き、思い出したのであれば……。
「……っと、まずかったか?」
俺が難しい顔をしているのを見て、神田さんは神妙な顔をする。
「あ、いえ。誰だったのかな、と」
「名前は聞かなかったが、とりあえずお前のケガに関わってはいないみたいだったぜ」
──ケガに関わってはいない。つまり、遙ちゃんでは無い、ということ。中途半端に記憶が戻ったとかでなければ、だが。
では誰が? 当時の同級生であれば、経緯くらいは聞いているかもしれない。だが、風貌も苗字も変わった今の俺に気付く人などそうそう居まい。翠さんですら、全然気付かなかったのだ。
いくら考えても、該当の人物が誰なのか、俺には判らなかった。
メールで翠さんに聞いて見たが、やはり心当たりは無いらしい。翠さんがわざわざ吹聴する筈もなく。千賀さんみたいに俺たちを嗅ぎ回っている人物でもいたとしても、漏れ聞こえる会話から推察は出来ないだろう。何故なら、俺が事件の話題に直接触れることは翠さん相手でも無かったから。
俺が現状全く認識していない相手であれば、いくら考えても判る筈も無いのでその考えは除外して。これまでの交友関係の中で、俺と遙ちゃんの両方に言及している発言があれば俺も気付いているだろうとそれは無いと考えて。どちらか一方でも知っている人物。その可能性として、一人だけ思い当たった。それを推察できるかもしれない人物に。
***
暫くの間、この前の件で何らかのアクションがあるものと覚悟していたのだが、見当違いだったのか、誰もそれに触れることは無かった。
ただ、病院の件よりも前から、関わろうとしてこなくなっている人物がいたことに思い当たる。といっても、それ自体は不自然とまでは言えなかったが。
今日は、遙ちゃんが俺に翠さんのことをどうするのか聞いてきて。千賀さんがからかって。それを日高さんが諌めていた。
以前ならもう一人、ここに来ていた。遙ちゃんのことを心配して、一緒に話を聞きに来ていた人物。
その人物の方に顔を向けると、悲しげな視線をこちらに向けていた彼女と目が合った。彼女は、俺から目を逸らすことなく、じっと見ていた。
「おやおや? ジゴロ柊がまた新たな獲物を捕らえたか?」
俺の視線に気付いたのか、千賀さんは最早隠すこともなく自らつけたあだ名で俺をからかう。
千賀さんの発言を受けて、遙ちゃんも彼女の方を見た。
「……美貴?」
遙ちゃんが小笠原さんの名前を呼ぶ。
そう。俺が思い当たった人物は、小笠原さんだった。彼女は、俺のことは知らないはずだが、遙ちゃんの心の傷を翠さんから聞いている。そして、翠さんが、俺と出会って暫く様子がおかしかったことも彼女は見ていた。その彼女が、どうやってかは判らないが、俺のケガについて知ってしまったら。全部繋がってしまうだろう。ひょっとしたら、先日の翠さんの様に、俺が病院に行くバスに乗り合わせたのかもしれないし、病院周辺で俺を見かけたのかもしれない。彼女は本の虫だったから、病院傍の大きな書店を利用していても不思議じゃなかった。
俺から目を離さない小笠原さんを見て、新たな獲物とでも思ったのだろう。千賀さんが小笠原さんの方に向かう。
「──千賀!」
咄嗟に止めようとして、呼び捨てで叫んでしまう。
普段、さん付けして呼んでいるから、千賀さんはそれはそれでからかうネタになると思ったのか、
「いや~ん。呼び捨てにするなら下の名前にしてぇ」
などと体をくねらせながら俺をからかった。
「──雪菜」
「ひぃっ!」
リクエストに通り名前で呼んでやると、千賀さんは背中を指先でなぞられたみたいに仰け反って悲鳴を上げた。
「雪菜」
「ひええ」
「雪菜?」
「ぎゃーっ!」
俺に名前で呼ばれることが気持ち良いのか悪いのか、呼ばれる毎にリアクションを返しやがる。まぁ、気持ち悪いんだろうな。
「雪菜雪菜雪菜雪菜雪──」
「も、もうやめてー! これ以上正気度を削らないで……」
千賀さんはがっくりと床に膝を着いて降参のポーズをした。
「なんで俺が名前呼ぶ度にSANチェックなんだよ……」
小笠原さんはそんな俺たちを見てため息を吐くと、教室から出て行ってしまった。後を追いたかったが、そうすると遙ちゃんも一緒に来てしまうだろう。もどかしく思いながらも、今は自分の席で大人しくしているのだった。
放課後。放って置くわけにもいかず、俺はあえて虎の尾を踏むことにした。
自ら虎穴に入る。と言っても、図書室のことだが。図書委員の彼女は、おそらくここにいるだろう。
カウンターに彼女はいた。他の図書委員とともに、貸し出し手続きやら書類の整理やらをしている。
俺がカウンターに近づくと、初めは他の委員が俺の応対に出てきたが、俺が真っ直ぐ小笠原さんを見ていることと、その小笠原さんも俺を見返しているところを見て、奥に引っ込んでいった。
暫くそのまま見つめ合っていたが、彼女は急に照れたように俯いた。ひょっとして、今自分が何をやっていたかも意識していなかったのか。彼女は立ち上がって、俺の傍まで来て囁いた。
「この後、少し付き合って貰えるかしら」
一旦教室に戻る。まだ数人の生徒が残っていた。
暫く待っていると、小笠原さんが戻って来た。
小笠原さんに促され、連れ立って学校を出た。学校でそのことを話すことを躊躇したのだろうか。
何も言わずに付いて行くと、喫茶店に辿り着いた。以前、母と待ち合わせをした、あの喫茶店だった。どうやら、一部の生徒には穴場的に有名らしい。
一番奥の席に行き、向かい合わせに座る。他に客はいなかった。今日はこの前いたバイトらしい店員もいないらしく、マスター一人だけだった。
注文した紅茶を一口飲むと、彼女は一息吐いた様子で俺の方を伺う。
俺が見ていた範囲での話しだが、普段の小笠原さんは、あまり男子とは話さず、ましてやこんな風に男子とどこかに行くような感じではなかった。今は、何か思いつめたような印象を受ける。
「柊君……その……」
言い難そうな、内緒話を告白するような。元々大人しい感じの彼女だったが、この前話をしたときは、遙ちゃんだけのことであり、俺が当事者とは思っていなかったからまだ普通に話せていたのだろう。今は、俺がその当事者であることを知って、そのことで話をすることに躊躇しているのか。
「あなたは……私が知ってしまったことに気付いているのね」
俺の様子も、いつもと違うのだろう。まぁ、普段なら彼女と見つめ合ったりしない。
俺は、黙って頷く。
「どうして、なの?」
何を指しての言葉なのか。
俺が首を傾げていると、
「……彼女、事件のことだけではなく、あなたのことも忘れてしまっているの……?」
遙ちゃんの様子に納得がいかないのだろう。
「……そうだろうね」
今更の話だ。そしてそれは当時の俺も望んだこと。
「あなたは……どうして平気なの?」
彼女は悲しげに俺を見つめる。彼女が感情移入しているのは、遙ちゃんなのか、それとも俺なのか。
「やむを得ない状況だから。小笠原さんも、彼女の心の傷を知っているのでしょう? 事件当時、彼女はショックで普通には生活できない状態だったらしい。だから、忘れることが出来たのだと聞いて、俺は寧ろホッとしている。俺のことも、あの事件に繋がってしまうから一緒に忘れてしまっているのだろうけど、それでいいんだよ」
「あなたは……本当にそれでいいの?」
もちろん、と頷いてみせるが、彼女は納得していない様子。
彼女は涙を浮かべていた。彼女は俺のことに感情移入しているのか。
「それでは、……あなたが何も報われないじゃないの……」
俺に同情して、泣いてくれるのか。優しい人だな。
「彼女が無事でいること。そして、俺はその彼女と今は普通に話が出来ている。それで十分報われていると思っているんだけどな」
努めて明るく振舞う。実際、俺はそう思っていたのだ。
「……そんな……」
やはり納得がいかないみたいだ。
「……だって、あなたには一切責任が無いことじゃない! ただあなただけが、彼女を守ってケガまでして。こういう言い方は好きじゃないけど、それじゃあなたがあまりにもかわいそうで、見ていられない……」
同情されるのも、結構辛いんだけどな。それでも、彼女の気持ちは嬉しかった。
「好きな人を守れたんだ。十分報われているだろう?」
「どこがよ!? 守った上で、その守った相手の気持ちがあなたから離れたどころか、守ったこともあなたの存在すらも忘れられて……それのどこが報われていると言うのよ!?」
「元々、俺が一方的に好きだっただけの話だから。向こうも当時、多少の好意くらいは持ってくれていたかもしれないけど。小さい頃の話だから、付き合うとかそういう関係じゃなかったんだし」
そこで、彼女はハッと息を呑んで、俺を見つめた。
「……今でも、遙のこと好きなの?」
「……どうだろ? 彼女が俺のことを忘れていると知って、俺の気持ちも一旦リセットされた気分かな。だから、今でも彼女のことを心配しているのは、当時好きだった俺の気持ちの残滓かもしれない。だけど、俺はその気持ちも無視する心算は無い」
「……ということは、遙が忘れていると知るまでは、遙のことを思い続けていたのね……」
何が悲しかったのだろうか。彼女はハンカチで目を押さえて、嗚咽を我慢するような仕草を見せた。
思わず黙り込んでしまう。
気分を落ち着けようと少し冷めてしまった紅茶に口をつけながら、ふと窓の外を見て──紅茶を噴きこぼしてしまった。
千賀さんが、ニヤニヤしながら覗き込んで居たのだ。