第四話
登校中、学校の手前で急に体が重くなった。
随分回復した今でも、時々こうなることがあった。だから今はまだ自転車とかには乗れない。このままだと、将来的にも車などの運転にも支障が出るだろう。自分で運転するような物には当分乗れそうになかった。
足の力が抜ける。
倒れそうになったが、辛うじて傍にあったバス停のベンチに辿り着く。投げ出すようにベンチに座った。
まだ登校には早い時間。こういう事態を懸念して、俺はいつも早めに登校していた。そのおかげで、こういった醜態を誰かに見られることは殆どなかった。今日もその筈だったのだが。
バスが停まり、生徒が一人降りてきた。バスは座っている俺のことを少し待っていた様だったが、俺が動かないからそのまま発車して行った。
「どうしたの?」
降りて来たのは、翠さんだった。いくらなんでも出会い過ぎだろうと苦笑した。
「……まだ時々、体がいうことを利かなくなることがあるんですよ」
正直に話す。
「大丈夫なの?」
翠さんは俺の傍らに立ち、俺を覗き込んだ。
「ええ。少し休めば、回復しますから心配しなくても大丈夫ですよ」
「でも……。そんなに具合が悪くなるのだったら、無理して学校に通うよりまだ療養していた方がいいんじゃないの?」
恐らくは、俺のことを心配して言ってくれているのだろう。だが、俺にはそれが悲しかった。
「折角自分の足で学校に通えるようになったんです。可能な限り、がんばりますよ」
俺の言葉に、翠さんが黙る。
暫く気まずい空気になるが、翠さんが再び沈黙を破った。
「──ごめんなさい。無神経だったわね……」
また、謝らせてしまった。どうして俺はこうなんだよ。
「肩、貸そうか?」
罪悪感からか、彼女は男の俺にそんなことを言い出す。だが、さすがにそれはあんまりだろう。
***
放課後、俺は学校の近くにある喫茶店を目指した。
今日は、久しぶりに母と会うのだ。
ケガで動けなくなった俺を母は実家に託し、より一層仕事に励んだ。俺の入院費など医療費が嵩んだこともあるのだろう。俺が日常生活を送れるようになるまで回復するかどうかも判らなかった状況。いつまでも祖父母に頼るわけにはいかないとばかりに、仕事をがんばれるうちに稼げるだけ稼いでしまおうとしている様だった。以前は、俺の世話もあったから勤務時間もそれほど長くは無く、出張なども断っていたみたいだったが、今では他の同僚たちと同じように働き、より重要な仕事を任されるまでになったらしい。今回も、PMとして長期の出張に行っていたのだ。
今日は少し休みが取れたらしく、久しぶりに一緒に外食でもと待ち合わせをしていたのだった。
待ち合わせ場所に指定した喫茶店は、学校からは直線距離では結構近い場所にあるのだが、結構入り組んだところにある。変に目立つことを避けたかったのだ。ひょっとしたら、翠さんは母のことを覚えているかもしれない。あの事件の後、翠さんは俺が転院するまで毎日見舞いに来ていたのだ。彼女が俺の家に遊びに来たことは無かったが、入院中に何度か母と会っていた。だから、顔を合わせるような事態は避けたかった。
角を五回ほど曲がり、目当ての喫茶店まで辿り着く。少し遅くなってしまったから、母は先に着いて待っているだろう。
中に入ると、バイトらしい店員に声を掛けられたが、待ち合わせしているからと案内を断り、店内を見回す。一番奥の席で、母が手を振っているのが見えた。
だが、何か様子がおかしい。
近づくと、違和感の原因に気付いた。母の正面に、誰かが座っていたのだ。
「──母さん、いったい誰と……?」
その相手は、うちの学校の女子生徒みたいだった。その後ろ姿は──
彼女の横まで歩き、彼女を見下ろす。やはり、勘違いじゃなかった。
「九重先輩──」
何故?
彼女には、俺の素性を知る彼女にだけは、会うことを避けて欲しかったのに。
「柊君……」
翠さんは俺の姿を認め、息を呑む。
「……どうして……?」
彼女は、俺の母のことは覚えていたのだろう。だが、俺のこととはまだ繋がってはいなかったのか。ここに現れたのが俺であることにショックを受けている様子。
「あら? 既に逢っていたのね。苗字が違ったから気付かなかったのかな?」
母は、彼女の反応から察したのだろう。
「退院した後も暫くリハビリを続けなければいけなかったんだけど、私は仕事があったから。リハビリ中の世話がちゃんと出来ないって判断して、実家に戻ることにしたのよ。だけど、元々私の結婚に反対だった両親から、家に戻るなら旧姓に戻せって条件を出されてね。仕方なく旧姓に戻したのよ」
母は寂しそうに、彼女に事情を打ち明けた。
俺はというと。自分から何も言わなかった後ろめたさが先に立って、何も言えずにいた。
その俺の様子にまたショックを受けたのだろうか。
「──私は……」
彼女は苦しそうに顔を歪ませ、立ち上がって、店のトイレに駆け込んだ。
行き先がトイレでは後を追うわけにもいかず。母を見ると、難しい顔をしていた。俺が、わざと彼女に素性を隠していたことを察したのだろう。ため息を吐くと、トイレに向かった。
中から、激しく咳き込むような音が聞こえてきた。
「大丈夫?」
母がドア越しに声を掛ける。
翠さんの返事は俺には聞こえなかったが、母と会話は出来ている様だった。
暫くして、彼女が出てきた。ハンカチで口元を押さえ、涙目になっていた。
こんな風になるから、俺は彼女に素性を明かしたくはなかったのだ。普通に、気兼ねすることなく接して欲しかった。ここ最近の彼女たちとの会話は、俺にあの事件以前のことを思い出させてくれて嬉しかったのだ。なのに──
「──っ……うぅ……」
俺の様子を見てか、彼女は必死に泣くのを堪えるようにして俯いた。堪えきれてはいなかったのだが。声を上げることだけは堪えていたが、涙は止められない様子。
「感涙、というわけじゃなさそうね。直人、この子に何かしたの?」
彼女の様子がおかしいのを見て、母は俺に原因があるものと思ったのだろう。
俺は何も答えられずにいた。
「……ち、違うんです……私が……私が……」
彼女は必死に何か言おうとしているが、うまく言葉が出て来ない。
「ふむ。直人が何かしたんじゃないけど、関係はあるんだね。──今日はもういいから、彼女を介抱してあげなさい。事情がありそうだから、私じゃない方がいいんでしょう?」
そういい残して、母は伝票を持ってレジに向かい、会計を済ませてそのまま出て行った。
翠さんは、まだ立ち尽くしていた。放っておく訳にはいかない。
「まだ保健の先生がいる時間だから、学校の保健室に行きましょう」
とりあえず、どこかで落ち着かせる必要がある。
彼女の手をとり、店の外まで連れ出す。彼女は大人しくそれに従った。
外に出たところで、彼女が崩れ落ちそうになる。俺は咄嗟に両肩を抱いて彼女を支えた。
「あ、ありがとう……」
彼女はまともに俺を見てくれない。
気まずく思い、
「ちゃんと目を見て話せ、じゃなかったんですか?」
と彼女の言葉をなぞる。だが、余計に気まずくさせてしまったらしい。
「ごめん、意地悪だったね」
どうしたらいいのか、俺には判らなかった。だから、とりあえず彼女を抱きしめた。泣き顔を見られたくは無いだろう、と思ったから。
彼女はそれに抵抗しなかった。
「……ううん……私自信の言葉だから……」
彼女も俺にしがみついた。
「……ぅ……うあぁ……」
彼女はまた泣き出した。どういう意味での涙なのか、俺には判らなかった。だから、慰めの言葉など何も思い浮かばず。落ち着くまで泣かせるままにしておくしかなかった。
天下の往来で、しかも学校の近くでのこと、誰かに見られそうだ。
入り組んだ場所ではあったが、全く誰も通らないことなど望むべくも無く。一人、女子生徒が目の前を通り過ぎた。間の悪いことに、うちのクラスの誰かな気がした。俺は俯いて顔を隠したので、はっきりとは見えなかったが、多分、うちのクラスの千賀さん。俺、このところ悪目立ちし過ぎだろ。
「ご、ごめんなさい……」
一頻り泣いて落ち着いたのか、翠さんが顔を上げる。
手を離そうとしたが、彼女は体に力が入らないのか、膝から崩れ落ちそうになり、俺は慌ててまた捕まえた。
彼女を支えながら、学校まで戻る。保健室まで辿り着く間、放課後で時間も経っていたので残っている生徒は少なく、部活をしている連中も各々の持ち場にいたため出会う生徒は少なかったのだが、それでも幾人か彼女の知り合いらしい人に見咎められた。様子を聞かれ、だが彼女は答える元気が無く。代わりに俺が「気分が悪くなったみたいなので、保健室に連れて行くところです」と説明した。皆何か事情があると察してか、それ以上は何も聞かれなかった。多分、色々と誤解されていそうではあったが。
校医は不在だったが、鍵は掛かっていなかったので勝手に休ませて貰うことにした。
人目が無いところに入った安堵からか、彼女はまた涙を目に浮かべた。だが、それ以上泣き出すことは無かった。
「……大丈夫ですか?」
尋ねるも、彼女は顔を向けてはくれなかった。
仕方がないので、俺はベッドで横になる彼女の傍らで、パイプ椅子に腰を下ろして彼女が回復するのを待った。俺がいることが逆に彼女を打ちのめしている気がしないでもなかったが、放って置く訳にもいかなかった。
「──姉さんっ!?」
ドアが勢いよく開き、誰かが飛び込んで来た。
すれ違った翠さんの知り合いの誰かが伝えたのだろう。入ってきたのは遙ちゃんだった。
翠さんはハンカチで顔を隠しながら、上体を起こした。
「……柊君……?」
遙ちゃんは傍らで座っている俺に気付き、驚いた様子。
「柊君、──姉さんに何かしたの?」
翠さんが泣きはらしていることに気付いたのだろう。それを、そのまま俺と関連付けたのだろうか。ちょっと短絡過ぎると思ったが、それだけ翠さんのことが心配なのだろう。
「遙、違うの。柊君は、気分が悪くなった私を介抱してくれてたの……」
翠さんは、遙ちゃんに俺のことを明かす心算は無いらしい。正直、助かる。彼女にしても、わざわざ遙ちゃんの心の傷を穿り出す気はないのだろう。
「そう、それならいいけど。柊君、変なこと言ってごめんなさい」
彼女は素直にペコリと頭を下げて謝った。
俺は、気にしなくていい、と首を振った。