第三話
数日後。放課後、俺は病院へ向かうバスに乗っていた。
数人が座席からあぶれる程度の混雑具合だったのだが、一番後ろの長い席は、チンピラ風の男が横に寝そべって一人で占有していた。
なんだかなぁと思いつつも、あえてそれを注意しようとは思わなかった。今の自分に、何が出来ようか。まぁ、あの事件がなくて、俺がケガをしていなかったとして。今みたいに捻くれることなく、当時のまま育っていたら、俺はあれを注意しようと思うのだろうか。
などと思案していると。
それを実行する人が現れた。うちの高校の女子生徒だった。
「気分でも悪いのですか?」
彼女はそのチンピラの前まで行き、嫌味を言う。まぁ、心配している風にも見えなくもない。
「……あん? 文句でもあんのか!?」
案の定。チンピラに事情がある風ではなく、絡まれている。
「普通に座れるのであれば、ちゃんと座ってください。他の人が座れないでしょう?」
彼女は、妊婦らしき人やお年寄りがバスに乗ってきたのを見て行動に移したのだろうが、ちょっと無謀な気がした。言っていることはしごく当たり前のことだが、通じる相手には見えない。
「ってめぇ、ふっざけてんのかぁ!?」
チンピラは上体を起こし、彼女に食って掛かる。やばそうだな、と彼女に近づく。自分がどうこう出来るか判らないが、誰かを助けることに躊躇したくない。そうでなければ、俺は誰にもあのときのケガを誇れない。別に自慢する気も無かったが。
「当たり前のことを当たり前に言っているだけですよ。聞こえませんでしたか?」
彼女は怯むことなく、毅然としている。
周囲の人たちがおろおろしている中、気丈なことだ。
「ぶっ殺されてぇのかぁ!」
チンピラがキレて彼女に殴りかかる。
俺は慌てて、背後から彼女を抱き寄せるようにして、そのままくるりと体を入れ替えた。
「──うっ……」
肩のあたりを殴られ、思わず声が漏れる。
「……柊君!?」
それは、翠さんだった。
「……大丈夫ですか?」
彼女に危害が及んではいないことに安堵した。
「ぁんだてめぇ!? そいつの男か!?」
チンピラは勘違いしたのか、今度は俺の方に絡み出した。
「てめぇら──ぐあっ」
唐突に、誰かがそのチンピラを殴り倒した。
「うるせぇ。公共の場では静かにしてやがれ。なぁ?」
強面の顔で笑顔を向けられる。知っている人だった。病院でリハビリ中に知り合った、任侠の人。
「神田さん、助けていただき、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げる。
神田さんは、なんでもない風に片手を振って見せた。
「って、柊じゃねぇか。大丈夫だったか?」
助けた相手が俺だと気付いてなかったのか。まぁ、俺も人のことは言えないが。チンピラに絡まれていたのが翠さんだと気付いたのは、殴られる直前だった。
「ええ。ご存知の通り、上半身は鍛えているので大丈夫ですよ」
軽く腕を回し、問題ないアピール。
「そっちの嬢ちゃん、誰彼構わず説教かましてると、そのうち痛い目を見るぜ?」
神田さんが翠さんを諌める。既に痛い目を見る寸前だったしね。
だが、翠さんはブレない。
「それでも、誰かが注意するべきことでしょう? 誰もしないから、たまたま私がやっただけです」
強面の神田さん相手でも、彼女は臆することなく自分の主義を主張していた。
神田さんは、俺の方を見る。
俺は肩をすくめ、頭を振って見せた。
神田さんはあきれた様子でため息を吐いた。
「……ひょっとしてこの子が、修一が言っていた嬢ちゃんか?」
「えっ?」
翠さんが驚く。初対面の人が、噂話にでも自分のことを知っていたら誰でも驚くか。
「──おそらく。あ、修一さんっていうのは、科学教師の松浦先生のことですよ」
翠さんの担任の、と思わず自然に言いそうになる。
やばい。つい、以前の感覚で話をしてしまいそうになる。
翠さんはというと、意外な人物の名前が出てきて驚いた様子。
「神田さんは、松浦先生の叔父さんらしいです」
「えーっ!?」
まぁ、驚くのも無理はない。優男風の松浦先生と、強面の神田さんは、全然似ていなかった。
「神田さんも、いつものやつですよね?」
なし崩し的に、伸びているチンピラを後部座席の隅に押し込め、並んで三人で座る。本当なら、彼女は後から乗車してきた人たちのために席を空けようとしたのだろうが、このチンピラの隣に座りたがる人はいなさそうだ。
「ああ。お前もだろ?」
神田さんの返事に、俺も頷く。
翠さんは、不思議そうに俺たちを見ていた。
『──次は市民病院前、市民病院前。お降りの方は停車ボタンを押してお知らせください』
アナウンスを聞いて、俺は停車ボタンを押した。
そう。神田さんも俺も、ケガの経過観察とリハビリのために病院に向かっていたのだ。彼とは、リハビリ中に知り合った。もう五年ほど前のことだ。
神田さんは、どこから聞きつけてきたのか俺のケガの原因を知っており、俺のことを気に入ってくれているみたいだった。神田さんのケガも、似たような原因だったからだろう。
市民病院が見えてきたので立とうとしたら、先に翠さんが立ち上がった。彼女もここで降りるみたいだが、彼女も病院に用があるのだろうかと思わず心配してしまう。
「九重先輩はどちらに?」
バスを降り、気になったので一応尋ねてみる。
「私は、すぐそこの書店に買い物に来ただけよ。あなたは?」
ああ。病院の傍に、大きな書店があった。そこはこの辺りで一番品揃えがよかったから、わざわざ足を運んだのだろう。彼女の家は、引っ越していないのなら別方向だったのだ。
「俺は、病院に来ただけですよ」
親指で背後の病院を指す。神田さんは既に病院に足を向けていた。
「どこか具合悪いの?」
この前のことを気にしているのか。心配してくれている様だ。
「この前、病み上がりだって話をしたでしょう。経過観察とリハビリですよ」
リハビリ、という単語は言わない方がよかったか。
「では、俺は神田さんと病院に行きますのでこれで」
会釈をして、神田さんの後を追った。
「柊君、さっきは助けてくれてありがとう」
背後から声を掛けられる。
俺は、振り向くことなく、掌をひらひらと振って見せた。
翌日。
「柊」
昼食を終え机に突っ伏していると、また名前を呼ばれる。
日高さんだった。また教室に翠さんが尋ねてきたらしく、たまたま通りかかった日高さんがお願いされたらしい。
昨日の件だろうか。今日は遙ちゃんを介さず、俺だけが呼び出された様子。
日高さんは別に変な風には俺を見なかったのだが、間を空けず上級生の女子に呼び出される俺に、好奇の目が集まるのが判った。あまり目立ちたくは無いのだが。
「昨日は、ごめんなさい」
翠さんが頭を下げる。
「移動しませんか」
なんだか、俺が上級生に何かしているように思われそうだ。
図書室までは行かなかったが、階段の踊り場まで移動した。
「昨日は、本当にごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」
また、頭を下げられる。俺のことは別にいいのに。
「神田さん、だったかしら? 私ったら、あの方にもちゃんとお礼も言わずに。どうかしていたわ」
「ああ。あの人なら、気にするような人じゃないから大丈夫ですよ。今度会った時に伝えておきます」
昨日は動転していたのだろう。
「あの人は、この界隈では割と有名な人なんです。任侠の人ですが、気さくで話し易い人ですよ」
任侠の人、のくだりで彼女は得心した様子を見せた。あの人相であの行動だからね。
「あの人もケガで市民病院に入院していて、リハビリの時に知り合ったんですよ」
思わず余計なことまで言ってしまう。
「柊君は、どうして入院を?」
やはり、突っ込まれたか。
「俺も──その、事故で入院してたんですよ。そのときのリハビリで一緒になったのがきっかけで知り合って。そこで色々話をしていて、なんだか俺のことを気に入ってくれたみたいで」
核心については暈して話す。完全に嘘を言っても、おそらく気取られる。ならばと、一部を暈してごまかすことにしたのだ。
翠さんは、何かを言いかけて、止めた。もっと詳しく知りたかったのかもしれない。だが、プライベートな事柄、聞いていいものか憚られたのだろう。
翠さんは、ごめんなさい、と言い残して自分の教室に戻っていった。