第十一話
「柊」
ある日の昼休み。トイレから教室に戻ったところで日高さんに呼び止められた。
振り向くと、遙ちゃんと千賀さんが一緒だった。
「ちょっと話がしたい。いいか?」
その様子のおかしさから無言で頷き、日高さんに付いて行く。
俺たちが連れ立って行くのを見て、小笠原さんが追ってきた。
「小笠原さんは関係ないから」
千賀さんが追い立てるように言うが、
「遙のことだったら、私も聞きたい」
と頑として聞かなかった。
彼女らは顔を見合わせ、仕方ないと頷いた。
行き先は、図書室だった。他の生徒も少なく、静かに話が出来ると期待してのことか。
「それで、話って?」
促すが、遙ちゃんは胸に手を当てて逡巡している様子。言い難い事柄なのか、どう話せばいいのか迷っているのか。
「彼女、思い出したことがあるらしいんだ」
代わりに日高さんが発言した。
俺は、思わずビクッと反応してしまう。
「へぇ、思い当たる節はあるんだ」
千賀さんが冷めた声を出す。
俺は、何も言えずに遙ちゃんの言葉を待った。
遙ちゃんは、俯きながら、それでも鋭い視線を俺に向けた。
「小さい頃……私たち、会ったことあった?」
「……!」
声こそ出さなかったものの、顔には出てしまっただろう。
「やっぱり……でも、私の思い出した通りだとしたら……どうして姉さんがあなたと仲良くしていたのか判らないのだけど……」
遙ちゃんの言っていることが理解できず、思わず小笠原さんの方を見た。彼女も眉を顰めている。
「私……小さい頃から、時々夢に見ていたことがあるの」
遙ちゃんの声が震える。ひょっとして、あの事件のことをずっと夢では見ていたのか。
「思い出したのは……それが事実に基づいているということ。完全に思い出した訳では無いのだけど、そのとき姉さんも居合わせていたんだと思う。……私が小さい頃、ナイフを持った人に襲われたってことを!」
やはり、事件について断片的ながらも思い出しているのか。日高さんと千賀さんが険しい表情を浮かべているのは、その物騒な話を聞いてのことだろう。だが、何故それが、俺をそんな目で見ることに繋がる?
「初めはどうしてか判らなかったのだけど……柊君を見ていると、私、不安になって。そして、ナイフを持った人に襲われるイメージが頭を過ぎったの。そのことを私なりに考えて……信じたくは無いのだけど、一つの結論を導き出したの」
ここまで言われて。なんとなく、想像できたことが一つだけある。だけど、まさか──
「ナイフで私に襲い掛かってきたのは、──柊君だったのではないかと」
やはり、どこで間違えたのか、そういう結論に至ったのだ。
「ええっ!?」
予想できなかったのか、小笠原さんが驚愕の声を上げる。そして、
「遙──本気でそんなこと思ってるの!?」
小笠原さんはものすごい形相で遙ちゃんに食って掛かった。
その様子に当惑する遙ちゃんとの間に日高さんが入り、小笠原さんを止めようとするが、彼女さんは引かなかった。彼女は、俺の代わりに怒ってくれているのだろう。
俺はというと。
「はっ……あははははは」
思わず笑い出してしまっていた。
遙ちゃんたちは憮然として俺の醜態を眺め、小笠原さんはショックを受けているみたいだった。
「ははっ……どうしてそうなるのか知らないけど、──面白いよ、それ」
乾いた声を上げ、遙ちゃんを指差す。
遙ちゃんはビクッと震え、両肩を抱いて日高さんたちの後ろに隠れるように下がった。
「それ、いいね。もうそれでいいよ」
投げやりに言い捨てる。
小笠原さんは見ていられなくなったのか、図書室を飛び出して行った。
「柊、九重は真剣なんだ! ちゃんと答えてくれ!」
俺の様子に日高さんが声を荒げる。
「いや、だからそれでいいって言ってるだろう? 遙ちゃんがそう言うんだったら、そう思い出したのならそれでいいじゃないか」
「ひっ……」
俺に名前を呼ばれ、遙ちゃんが短く悲鳴を上げた。
「柊!」
千賀さんが俺に掴みかかってきた。
「お前、ふざけんな──」
無抵抗な俺が壁に押し付けられたところで、図書室のドアが勢いよく開いた。
現れたのは、憤怒の表情を浮かべた翠さんと小笠原さんだった。さっき小笠原さんが飛び出していったのは翠さんを呼びに行ったのか。
その表情に驚いたのか、千賀さんの動きが止まる。
翠さんは、つかつかと遙ちゃんの前まで歩いて行き、──いきなり張り倒した。
突然のことに、傍にいた日高さんも彼女を庇えなかった様子。
「……姉さん……なんで……?」
床に転がった遙ちゃんは、上体だけ起こして、翠さんに問う。
だが、翠さんはそれを無視して、俺の方に来た。気押された千賀さんは、俺から手を離す。俺は、そのまま壁を背にずるずると床に崩れ落ち、座り込んでしまった。体を支える気力も湧かなかったのだ。
翠さんは、ふらふらと俺の目の前まで来て、──いきなり土下座した。
唐突のことに、俺は止めることも出来ずに居た。
「直人君、ごめんなさい」
額を床につけ、彼女は謝罪を始めた。
「私たちは、あなたの好意に甘え過ぎでした。あなたの庇護に甘んじて、遙のことだけを気に掛けて。それなのに、そのあなたに対してあんな暴言を!」
後半はもう涙声になっていた。
突然の成り行きに、遙ちゃんたちはただ呆然とそれを見ていた。
「許して、なんておこがましいことは言いません……それでも、謝罪させてくだ……さ……うああああああああぁ……」
そこで、彼女は泣き出してしまった。
「……どうして……どうしてこんなことになるのよ……」
搾り出すような声。彼女は土下座したまま、拳で何度も床を叩く。
混乱していた俺だったが、そこでようやく正気に戻った。
翠さんの傍まで這って行き、ぐずる彼女を強引に起こす。号泣する彼女から、小さい頃の面影を感じた。
「もういいですから、翠さんが気に病むことは何もありませんから」
俺は皆が見てる前だったが構わず彼女を抱きしめた。
翠さんは、俺にしがみ付いて、顔を埋めて泣き続けたのだった。
遙ちゃんたちは、気まずそうに、ただそれを見ていた。自分たちが何かをやらかしてしまったのだろうと気付いた様子で。
「どうしてそういう結論になったのよ」
小笠原さんが、床に座り込んだままの遙ちゃんを見下ろして、軽蔑の眼差しを向けた。
遙ちゃんは、不安そうに友達を見上げる。
「小笠原さん、止めてください!」
俺は慌てて止めようとするが、
「いやよ。もう私、我慢できない!」
彼女も興奮している様子。
「遙……ナイフを持った人に襲われて。あなた、どこかケガをした痕でもあるの?」
「えっ……いいえ、無いけど……」
何を言われているのか判らない模様。
「じゃあなんで、ナイフで襲われたあなたが無傷だったのか。その理由を考えなかったの?」
小笠原さんの説明に、日高さんが息を呑んだ。事情を察したのか。だが、遙ちゃんはまだ思い至らない様子。
「ちゃんと思い出してよ。それであなたが、ショックで寝込むことになったとしても、あなたはそのことを思い出さなければいけないわ」
「なぁ、思い出せないみたいなんだから、ちゃんと教えてやれよ」
千賀さんが横から割り込む。彼女にもまだ判っていないのだろう。日高さんが千賀さんの肩を掴み、首を振ってみせた。
「駄目よ。遙は、自分で思い出さなければいけないわ。これは、彼女の責任よ。でなければ、私は遙を許せない」
俺の代わりに怒ってくれている小笠原さんだったが、彼女なりに落としどころを決めている様子。まだ泣き続けている翠さんを抱いている俺は、見ていることしか出来なかった。
だけど遙ちゃんは。何も言えず、小笠原さんから目を逸らし、俯いてしまった。本当に思い出せないのか、それとも心がブレーキを掛けているのか。俺としては、ああいうとんでもない誤解は御免蒙るが、彼女が思い出せないままでいてもいいと、今でも思っているのだが。
予鈴が鳴っても、翠さんは泣き止まなかった。他の皆には教室に戻ってもらって、俺はこのまま図書室に彼女と残った。泣き続ける彼女を保健室まで運ぶのも憚られたのだ。
さすがに、堂々と居座るのも憚られたので、彼女を連れて書架の奥に姿を隠した。まるで授業をさぼって逢引きしているような状況だなと想像してしまう。それを彼女に告げると、彼女も泣きながらだったが笑ってくれた。