フォックス卿の優雅な休日
俗にいうあやかしとか妖怪とかの化物界にも縄張りはある。
そう考えると、人の方がよっぽど自由に行き来してるのだ。
そもそも、イギリス生まれの赤狐の一族だったのだ。
従兄弟が貰った嫁の生家を、継ぐ者がなくて、わたくし、サー・レヴィアン・M・ジュリアム家の三男坊、H・D・ルシファンに、白羽の矢がささったのだ。
好奇心の塊だったので、遥か彼方、東方の黄金の国に、やって来て、北条家ゆかりの眷属の端に加わったのだ。
こちらの狐の眷属たちとは、かなり外見が違っていたので、いつの間にかフォックス卿と、呼ばれて246年が、過ぎていた。
我が1人娘も嫁ぎ、妻の鳴也姫と、夫婦でのんびり暮らしだして、111年が過ぎていた。
化物とはいえ、世の理から完全に外れている訳ではない。
喰うし寝るし、ゆっくりだが老ける。
だいたい、位が高いと、ガツガツしない。
ほんの少し、水分を所望する。
食べるのは、香りだ。
まあ、匂いだな。
魂を喰らうより、その芳香に惹きつけられてしまうのだ。
その上、理解してない人間のいう様な事は起こらない。
大抵の魂は、時間と共に立ち消えてしまうのだ。
それゆえ、魂を追いかけても、それからの飢えは、満たされる事はないのだ。
我が支配地にも、人の手が伸び、開発という名のもとに、山はハゲ、川は地下に追いやれた。
野山が消え、野生の動物達が消えてから、あわてて緑地保護地区が、出来たので、住宅地の真ん中なんてところに、我が支配地が残ったのだ。
いくら、生き物の理の外にいても、走り回れる土地がないと、惨めだ。
その上、ここは芳香の山になったのだ。
わかりやすく言えば、歳と共に、身体から、魂の匂いが漏れやすくなる。
そんな人間達が、こぞって緑地保護地区を、歩き回るのだから、余計なモノも、現れるのだ。
低俗なモノ達なら、問題はない。
ゴミの臭いたかる蝿みたいなもんだからな。
問題は、魂を引き出し喰らう力を使う輩だ。
何百魂を引き寄せても、所詮立ち昇る匂いなのだが、そんな奴等は貪欲で食い意地がはっている。
このフォックス卿の領地で、好き勝手に、させはしない。
柔らかな下生えを踏む、脚の下から、嫌な匂いが混ざっている。
病の人間を追うモノがあるのだ。
匂いというものを優しく香る、などど、思っていたらとんでもない。
棘だらけの鞭で、鼻面をビシャンと打ってきたり、身体中を針金でグルグル巻きにされ、苦しさに、全部の毛を逆立てる事もある。
これは、ネットリしたベタベタの脂がついた、塩化ビニールの様な香りだった。
いじましく、グニグニしてから、とろけて消えるのだが、甘辛い匂いに、ひきつけられる。
それを所々食い散らしながら、追うモノを、鼻は教えてくれる。
追うなんてのは、下品の極み。
来る匂いを、喰らうのが気品と位を表す。
その輩は、ガサガサした落ち着きのない臭いを残していた。
人の住む場所に向かっている。
ひとまず、館に帰り、鳴也姫に留守を頼む事にした。
由緒ある神社から、我が館は直ぐだが、人の眼には、決して見えないだろう。
察しの良い鳴也姫は、自分の一族にも、報せますと、席を立った。
わたくしは、身支度を整える為に、余分な手は、いらない、気楽な三男坊なので、サッサと、自室に向かう。
「フォックス卿、お帽子は、どれを。」
長年、鳴也姫に使えている沙羅織のひとりが、布から生まれた化物とはいえ美しい少女の姿をして、身支度の手伝いに来るが、わたくしは、もうお気に入りのハンチングを手に取っていた。
「ここは良いから、姫と館を頼みますよ。」
深々と頭を下げる、螺鈿の様に輝く沙羅織を残し、左の牙を1本の杖に変え、正体のわからない化物を、追うため館を後にした。
わたくしが来てから、西洋風の別棟を、脇に建てたが、日本の文化が漂う元の館が気に入っていた。
鳴也姫は、元々神事の鐘だったので、優雅で嫋やかだが、いざとなると素早く的確に動いてるところを見たら、とても深淵のお姫様とは思えない力を感じる。
人の姿に変化して、牙の杖を右手に握り、我が領地の中なれど、人の住処に足を入れた。
かなり赤かった毛並みも歳と共に色が薄くなり、金茶に落ち着いていたし、伊達眼鏡は、色付きなので、銀に光る瞳を、やらわげてくれる。
どうしても、英国紳士的な風貌にしか変化出来ないが、かえってそれで面倒ごとから逃れられるのを知ってから、堂々と歩ける様になったのだ。
まず、お爺ちゃんとは、声をかけられた事は無い。
匂いを追うのも、テクニックがいる。
赤狐は、長年猟犬に追われたものが多かったから、根気強いし、誘惑に負けない。
そもそも、気に入った匂いの元に向かっては、いけないのだ。
ジックリと、追う。
この辺りには、年寄りが多く、最近は長生きで、魂の芳香が千の桜が咲き誇る、春の吉野のお山のようなのだ。
機械の中の何百という線を辿る電子の揺らぎのような、追走であった。
必要以上に足を速めて、人目を引きたくなかった。
あくまで、散歩してる、おじ様なのだから。
つけられていた人間の家は直ぐにわかった。
病の甘い匂いが、充満している。
もう少ししたら、その辺の犬や猫達にも、感じられ、その匂いに酔うようになるだろうが、不治の病なのがわかった。
知らせても、もう無理だろう。
作り物の薔薇花にも似て、拡がった匂いに死があればあるほど、美しく残酷なのだ。
散々病人の匂いを喰い荒らした挙句、その化物は、ツイと方向を変え、西に向かっていた。
杖を握りなおすと、わたくしはそちらへ向かった。
時々、窓越しに、小さな室内犬が、キャンキャン吠えたが、ジロッと見てやると、首を引っ込め鳴き止む。
かまったり、からかったりしてる暇はない。
そのうち、住宅地の中でも、古い家が多い場所に出た。
このまま行くと、崖にぶち当たり、行き止まりになる。
追いかけ始めて、小一時間ほどが、たっていた。
もう、家もないような所に、うっそうとした樹々に囲まれて、木造の平屋が現れた。
細い煙突が、ひん曲がってくっついている。
道を見ると、生き物が歩いてる形跡が見当たらない。
ソッと、あやかしの眼で見ると、雑な結界があるのがわかった。
遠くの匂いを嗅ぐ力は、狗神の方が強いが、こと、嗅ぎ分けるとなると、狐の右に出る化物は、いない。
人の姿を消し、結界のほころびから、中に入ったが、地面を歩くなんて、馬鹿なまねはしない。
長い尻尾に包まり、フワリと浮く。
狐火の亜流の術だ。
そこから耳と眼と鼻をだし、ソッと近く。
結界のほころびが、罠だった場合に備えて、杖の牙をハンチングの側に置いてきている。
水の音がする。
あのひん曲がった煙突の下にいるようだ。
割れてる曇りガラスの隙間から覗くと、蜘蛛だ。
直ぐに、取って返し、杖の牙を手にして、フォックス卿として、曇りガラスをぶち破る。
余りに哀れだった。
そこに居たのは、石炭のように黒々として、内なる炎に、中から焼かれ、ヒューヒューと、煙と火を出して水風呂に浸かっている化物蜘蛛だった。
最早その腹は、喰いすぎ魂を入れておけず、溶鉱炉の炉のような有様だった。
魂の匂いの喜びに、心奪われ、中からとろけていくのを、とめられないのだ。
「無残。」
我が牙を打ち下ろし、黒い塊から、熱射の塊を叩き潰す。
雷が落ちたような音と振動を残し、水風呂の中には、1本の毛深い蜘蛛の足が残ったきりだった。
水風呂の水は、沸々と湯立ち、輝きながら、湯気と魂を空に放出し、何も残らなかった。
わたくしは、あらゆる匂いを浴び、眼も鼻もくらんでいた。
酒樽に入って、滝から落ちた気分だ。
わずかな蜘蛛の足も、狐火で焼き、その廃屋を後にした。
自分の腹より多く、喰らうものには、こんな運命が待っているのだ。
とばっちりは、この時着ていた服もお気に入りのハンチングも、始末しなければならなかった事だ。
あらゆる匂いが染み付き、とても鳴也姫の側に置いてはおかれなかったのだ。
我が領地に、平和が訪れ、午後の紅茶の時間は、夫婦水入らずで、楽しめるようになった。
お気に入りのオレンジペコにタップリの乳脂肪分入りミルクとアカシヤの蜂蜜を入れ、スコーンに、バターとジャムを乗せ、桜餅と焙じ茶も、用意する。
きゅうりのサンドイッチとカッパ巻きも。
最初は、お付き合いしてくれていたが、今では鳴也姫の方が、いそいそとお茶を用意して、和洋折衷で楽しむのだ。
お付きの者が何でもしてくれる中、この午後のお茶の支度だけは、夫婦だけでして、それぞれ、ケーキを作ったり、カップを用意したりして、楽しんでいる。
「さあ、香りを召し上がれ。」
と、すすめてもらうのは、何とも気持ちの休まる良いものだ。
こちらも、ジャムやクリームを取り分けてあげたりして、香りを楽しむのだ。
神社には、参拝客が、引きも切らず訪れ、魂の匂いには事欠かない。
正月の三が日には、沙羅織達が、特別に巫女になって、来るものをもてなすので、鳴也姫も、舞を披露する。
もちろん、そこにいる人間に憑依しているので、外からはわからない。
わたくしは、気ままにブラブラと境内を歩き、新年を喜ぶ人々の匂いを嗅ぐ。
病がわかれば、ソッとおみくじにそれらしき神託が乗ったのを握らせるが、ちゃんと読む者は少ない。
それでも、ここのおみくじは、当たると評判なのだ。
ひと仕事終えたら、のんびりと休日を過ごそう。
鳴也姫が、優雅です事と、そばで微笑み、お茶にミルクを落としてくれるのだった。
今は、ここまで。