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食事も済み、いよいよメンバーそろって市内観光へ。
戦勝記念碑、街の中心部など、ウラジオストック大学の日本語学科学生であるオレークさんが流ちょうな日本語で案内してくれる。
中央の広場に立った彼は、淡々とした口調で私たちに
「あちらに石づくりのビル、ありますね。あれ、本当は秘密ですけど、昔戦争で捕虜になった日本の人たちが、建てました」
と説明した。
のどかな夏の日、食べ物に目のくらんでいた私はその言葉にはっとして彼の指さす方を見た。建物は今ではすっかり古びて、周りの他の建物に混ざり、目立った様子もないのだが、テレビや新聞が他人事のように騒ぎ立てている(と思いこんでいた)『戦争』が単なる歴史ではなくて、ここでまた一つ、私の生きている空間に確かな音をたてて結びついたような思いだった。
また、ロシア人のオレークさんの口調から、ますます、ロシア人は言いたいこと、言うべきことをはっきりと口に出して言えるようになったのだなあ、とえらく感心してしまった。
ロシア人というのは、私が見た限りでは、素朴で人情味にあふれている。炭酸水の自動販売機の手前で、小銭がなくてウロウロしていると決まって誰かが三コペイカコインを出して一杯おごってくれる。道も親切に教えてくれるし、私のルームメイトなどは道に迷った時、見ず知らずの人が手をひいて目的の場所まで連れて行ってくれたそうだ。まあ、子どもと間違えられていたという可能性も無きにしも非ずだが。
また、一般的に議論好きで、街なかでも何かあるとすぐ三、四人集まってけんけんごうごう、議論に花を咲かせている。
どの顔も真剣そのものだが、決して暴力や感情に走ることがなかった。日本人の場合、多くが『議論=ケンカ』の要素に発展しやすいし、街角で会った他人どうしともなれば、議論の果てには「やるかてめえ」「何をそっちこそ」となる確率も高そうな気がする。
すべてがこうと言えるわけではなかろうが、私にとってロシア人は見ればみるほど味わいを増す、愛すべき人々ばかりだった。彼らは今まで政策のためとは言え、思想や言論の自由を束縛され、長い間抑圧され続けてきたため、一見するととっつきにくい印象を持つが、基本的には私たちと同じ、ふつうの人々なのだ。
オレークさんと同じく、日本語ガイドのイーゴリさんという人もはにかみながら
「日本の作家では阿部公房と赤川次郎が好き」
ときれいな日本語で話す、ごく普通の若者だった(フツーじゃないか)。
その、私たちとほとんど違うことのない、愛すべき人々が今、自由に語り、考え、表現できるというのは私にとっても大きな喜びだ。
とまあエラいことを言いながら、すっかり胃袋の方はお客さまを迎える準備ができている。
広場を離れ、バスはいよいよ市場に到着した。