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語学研修ツアーの後半はバスによる移動が多かった。
ある朝、私は食後に小さな梨を一つ食べ、ちゃんとトイレも済ませてバスに乗り込んだ。
その日はあいにくの小雨。
二時間と経たぬうちに、私は窓の外、広大なロシアの大地を眺めながら、必死で尿意と闘っていた。通り過ぎる林や畑などに、ついトイレにふさわしい茂みを探してしまう有様だった。
あいにく、バスにはトイレなど気のきいたものはない。途中の休憩も三時間か四時間に一回かそこらだ。
どうやら大人の分別を守り通し、尿毒症にもならずに済んだが、それからというもの、ロシア唯一の美味と認定した梨もつい控えがちになってしまった。
そして、ついにここハバロフスクにたどり着くまでに、食べ物での楽しい思い出というものにさっぱり縁がなかった。
さあ、ロシア旅行終点のこの地に、果たしてワガママ日本人の満足できる食べ物はあるや否や!
「北洋、といったら、サケマスですよねぇ」
誰かがぽつりとつぶやいた。
ここはハバロフスク、ホテルの食堂。
向かい合う皿に、一応見た目よろしく並べられているのは、スモークサーモンの切り身。
しかし、これが恐ろしく塩辛い。イライラした高血圧の人が口に入れたら脳卒中間違いなしという代物だ。
私は、しかしくじけなかった。
食後、市内観光で自由市場に行くと聞いたからだ。
どうせ、ルーブルは日本に持ち帰れない(という事になっている、一応。それに持ち帰っても以後の使い道がない)。
モスクワなどでは、つい値段が高くてあまり手が出せなかった新鮮な果物おいしそうなお菓子を、これが最後とばかり金を湯水のように使って買って買って買いまくってやる。
誤解のないように説明しておくが、モスクワでも、自由市場で梨やぶどうなど、ふつうの果物を買うには一キロ三~五ルーブルあれば十分だ。一ルーブルはその時のレートでは二十五円程度なので、なんとおいしい梨でもプラムでも百円も出せば腹いっぱい食べられる訳だ。
それがおかしなことに、はじめは物価の安さに大喜びで買い物しまくっていた私たち日本人観光客が、一週間もたつと、すっかり揃いもそろって一コペイカ(百分の一ループル)さえも惜しむしっかり者へと変わっていったのだった。
それと言うのも、ロシア人の生活を間近で見、実際に一緒に過ごすにつれて
「市場の果物? たかがリンゴに三ルーブルも払うの? 国営ストアでこの前たまたま三十分並んだだけでキロ一ルーブル二〇だったわ」(並ぶ、とはこの国によく見られる買い物のための大切な儀式「行列」のことである。)
「タバコ一箱でキュウリ五キロと交換したよ」
などという彼らの『生活の知恵』を幾度となく見せつけられ、次第にそのスタイルに染まっていったためだ。
ちなみに、ツアー仲間のうちでも
「マルボロ一箱、封切ってないからカップラーメンと交換しない?」
などの会話も通常化していた。
だから、ハバロフスクの自由市場に、雄大とは言いかねるがぜいたくな夢を求めてしまうのも、無理もない事だった。
補足です。'93年春にまたロシア(今度は正式に『ロシア』)・モスクワに行ってみたのですが、その時には経済状況は大きく変容しつつあり、外国の物品も比較的容易に手に入るようになっていました。
通貨代わりに大量のマルボロを買っていた私でしたが、結局はあまり役にたたず、ほとんど自身で消費してしまいました……