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朝のすがすがしい空気の中、私は一人、特にあてもなく街の中を歩いていた。
昼に、バスはホテルを出発し空港へ向かう。それまで残された時間は、ほんの三時間かそこらだ。
うまい物は特に見つけ出すことができなかったが、せめて少しでも多くこの街を見ておきたいと思っての散策だった。
町なかとは言え、一歩大通りを外れると緑濃き公園に囲まれた閑静な住宅街がどこまでも続き、白樺の葉影と雀のほか動くものがないといったような、のどかな場所である。
私は崩れかけた建物と小さな林のわきを、少々感傷的な気分で歩いていた。
「ちょいと待ってぇ」
後ろで元気のいい声がした。ぱっとふり向くと、同室だったエルが全力疾走で近づいてくる。
「ねえねえ、今からさ、探し物にいくんだけど、付き合ってくんない?」
「何の」
「カ・ニ・カ・ンよ、カニ缶。ここのカニって有名らしいよ。缶詰も、すごい安いらしいし」
「よし、行く行く!」
私の中で消えかかっていた炎が再び燃え上がった。日本人ならば、あの太くて身がびっしり入ったカニ足に豊かな食の象徴を見るのもなんら不思議はない。
それに、今まで同室とは言え、あまりいっしょに行動できなかったエルと、もうすぐお別れというこの時、カニ缶をめぐる冒険に出てもいいじゃないか、そんな気持ちもあった。
エルとは、この旅で初めて知り合い、長い旅の間ずっと同室だった。たまたま同い年で、胸のすくほどの行動派で、まるで昔からの友人のようにお互い気が合った。ただ、二人とも極端なマイペース人間で、ほとんどといっていいほど、自由時間に二人きりで歩きまわったことがなかった。
だから、この三時間が私にとって、二重の意味で最後のチャンスだった。
私たちは足音も高く、商店の多い大通りへと向かった。
食料品店を探しながら、私は即興の『カニ缶のうた』を知らず知らずのうちに小声で口ずさんでいた。
カニカン・カニカン
オーチン・ハラショー
カニカン・カニカン……(飽きるまでくり返し)
「オーチン・ハラショー」は「ベリー・グッド」みたいな意味である。ロシアの民族音楽風行進曲のノリで、これを何度か繰り返すうちに偶然私たちは大きな魚介類専門の食料品店に行き当たった。
まさに、オーチン・ハラショー。弾む心で大きく重い扉を開け、中に入る。
相変わらずの、暗い、殺風景な店内だがモスクワとは比べものにならないくらい、品数も量も多い。店内は買い物客、特に主婦でごったがえしているが、行列にはなっていない。
ますますラッキーだ。あとはカニを探すのみ。
海とアムール川の近くとあって、魚があふれんばかりに並べられている。ロシア人の金銭感覚で換算してみると(一ルーブル二百五十円ほどの価値をもつ。われわれ日本人には一ルーブル二十五円程度の価値しかないが、彼らには、やはりルーブルしかないのである)、イカの胴(冷凍)がキロ三百二十円、足もおなじく、タラがキロ二百二十円、ヒラメが百二十円ほど。くんせいの魚はキロ二百五十~三百円くらいだ。
大きな魚のフライは一切れ三百円くらい、どれも手ごろな値段と言える。市場のくだものがキロ七百五十~千円の価値だったから、魚は、大衆の人気商品であると言えそうだ。
うれしいことに、ゆでたカニ足も売っている。キロ三ルーブル五十、住民レートで換算して八百七十五円、他と比べてやはり高い。
もちろん、カニ足の前で私たちの心は大きく揺れ動いた。キロ千円もしないなんて……しかも、旅行者レートだと十分の一の価値に下がるので、なんとこの立派なカニ足がキロ百円もせずに手に入るのだ。
しかし、これからすぐホテルに帰り荷造りせねばならない私たちにとって、ゆでたカニ足ほど始末におえないものはない。
「いいの、ここは涙をのんで、カニ缶のみを目標にしましょ」
エルの言葉に、私も気を取り直し、缶詰のコーナーに向かった。