正体
次に、恭介が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
上半身だけをベッドから起こし、周りを見渡す。一瞬、頭がクラッとしたが、何とか堪えた。
改めて見渡すと、ベッドの横にいるのは成長期に入ったばかりの、まだ幼い雰囲気が残る少年と、心配そうにこちらを見る中年男に気難しそうな老人と秘書らしき人物。
「だ、大丈夫か?生きてるか、恭介!」
最初に声を掛けてきたのは、中年男だった。
(‥‥え~、と。誰だっけ?)
頭が朦朧としてる為か、一体誰なのかわからなかった。そういえば、手が痛いな~と思ったら右手に白い包帯が巻かれている。
「お父さんの友達の多田さんだよ。分かる?」
多田さん。と呼ばれた男の隣の少年も、見覚えはあるのだが‥‥‥
その時、病室に白衣を着た男と、スーツにヨレヨレのコートを羽織った男が入って来た。
白衣の男は、恭介の担当医だった。
医者は、カルテを見ながら、恭介に話し始めた。
「一時的な記憶喪失ですね。吸い込んだ煙りも人体に悪影響を及ぼしてませんが、今日もう一日様子を見ましょう。明日、念の為に精密検査を受けましょうか」
それでは、お大事に‥‥‥それだけを告げると、医者は病室を出ていった。
「よかったな、恭介。目が覚めて」
中年男は、ホッとして胸を撫で下ろした。
だが、ベッドの正面に立っていた老人は恭介に不平不満を漏らす。
「全く、恭介の役立たずめ。たかだか暴漢に襲われたくらいで!」
恥を知れ! 怒りにまかせて、ベッドのパイプ部分を、持ってる杖でガンッと叩いた。秘書らしき男は、老人を宥めながらも申し訳なさそうに頭をさげる。
帰るぞ! そう言い残すと、老人は秘書らしき男と部屋を出て行ってしまった。
「爺ちゃん、酷すぎるよ。お父さんは何も心配しなくてもいいからね、メルも無事だったし」
(メル‥‥そうだメル、確か誰かに)
メル。と聞いた途端に、急に何かスイッチが入ったかのように、徐々に記憶が戻ってゆく。
メルとは、あの日に一緒に事件に巻き込まれてしまった、妻のペットであるジャイアント・シュナウザーのことだ。
「そうだ、メルだ。アイツは大丈夫なのか?」
ガバッと体をのめり出す父親に、息子は驚きつつも冷静に答えた。
「大丈夫だよ、少し怪我をしてたみたいだけど、今は麻酔でグッスリ眠ってる」
その言葉に、恭介はホッとした。
何とか記憶が蘇った恭介に、友人の多田聡は大喜びだ。
「よかった‥‥よかったよ。バンザイだ、バンザ〜イ!」
いきなり多田は両手を上に挙げ、1人で万歳三唱をし始めてしまった。
「あの‥‥今、何が起こってるのか教えてくれないか?」
戸惑う恭介に、浩紀は何かを喋ろうとするが、ヨレヨレのコートを着た男に止められた。
「それは、俺から話そう。悪いが、君たちは外で待っててくれ」
そういうと、出口の方を指差した。
渋々ながらも、多田は浩紀を連れて病室の外へと出て行った。
さてと‥‥‥男は近くにあったスツールに腰掛けると、神妙な面持ちで恭介を見た。
「古賀、俺のことを覚えているのか?刑事の犬居だ。おまえが吸い込んだ気体の鑑識が出たぞ」
恭介はゆっくりと頷くと、犬居は1枚の〝鑑識結果〟と書かれた紙を見せる。
「あの気体は、揮発性のクロロホルムだったらしい、あのランプは人間の体温を感知したらスイッチが入るタイプだというのだ。そのランプを買った店はどこだ?調べる必要がありそうだな」
それから、これはどうだ?
犬居は、コートの内ポケットから2枚の写真を取り出した。
‥‥‥? 2枚とも、見知らぬ顔の青年だった。
犬居の右手に持った写真は、眼つきの鋭い青年が写り、左手の写真には気弱そうな青年が写っている。
一目見ただけでは、共通点などなさそうだが?
「右手の写真の男は、お前は知ってる筈だ。なぜなら、そいつは《涼介》だからな」
「‥‥嘘だ、だって顔が全然違うじゃないか」
動揺する恭介に、犬居は言った。顔は、いくらでも変えれるさ。と‥‥‥
「まさか‥‥」
だが、よくよく考えれば多田聡の言葉が思い出される。
『顔をイジった跡がある』と‥‥‥じゃあ、もう一枚の青年は?
「本物の木下涼介だ、顔はあまり留美子に似てないが好青年だったらしい。今は病院だがな」
(なんだって? じゃあ、留美子の息子は本当に生きてたんだ!)
恭介がホッとしたのも束の間、次の言葉で残酷な現実を突きつけられる。
「古賀、安心するのはまだ早い。俺は、生きているとは言ったが、平穏無事だとは一言も言ってないぞ。今は病院いるって言っただろ」
「どういうことなんだ‥‥?」
犬居は、今まで涼介に起こった事を全て話した。
昔、赤ん坊の涼介を助け出したのは犬居本人だということ。その後、孤児院に預けたこと。
「その孤児院は俺も昔、世話になったんだ。だからじゃないが、そこのシスターは信頼できるから預けた。だが、誤算が生じた。それがこの右の写真の男、栗栖要だ」
この男は普通の家庭で育ったんだが、どうも素行があまり良くなかったらしい。
しょっちゅう仲間数人と補導されたが、今度は何らかの傷害事件を起こして警察に捕まったんだ。
その時に担当したのが、久保田だ。
「久保田は、密かに俺と涼介のことを調べ上げていた。木下の家が、涼介の里親になったこと。涼介の背格好のことまで」
それを踏まえて、久保田は今回の件に栗栖を言いくるめて誘い込んだ。
途端に、犬居は眉間に皺を寄せた。
「あんな奴こそ、幸せにならなきゃいけねぇのに、なんで神様はいねぇんだよ。本当は、小倉家に返すことも考えたさ」
でも、できなかった。
お前には分からないだろうが、これっぽっちも疑う事のなかった部下に、ある日突然、裏切られるということを!
もう、誰が味方で誰が敵なのかも分からない。
犬居の悲痛の叫びを目のあたりにし、恭介は返せる言葉もなかった。それは恭介が後者の人間だからだ。
「久保田の狙いは、古賀家の転覆だ。今の内閣は、古賀グループの金で動いているといって過言ないんだ。そこで久保田の雇い主の闇のフィクサーは古賀家の内側に栗栖を潜らせ、解体させる気だ」
そんなことをして万が一、本当に古賀が破滅でもしてみろ、奴らは全員トンズラして責任は全部、本物の涼介のせいになるぞ!
「俺を脅すつもりか!」
怒鳴る恭介に、犬居は罵声を浴びさせた。
「お前がやらなければ、誰がやるんだ!」
はっきり言って、警察はこの件には関わり合う事は出来ない。俺は、分かっていながら指を咥えて見ることしかできないんだ。
「頼む、俺の力になってくれ」
頭を下げて頼む犬居に、恭介は戸惑うことしかできなかった。
それから一週間後、妻の麗華と娘の沙織がグアム旅行から無事帰って来た。
それは《涼介》こと栗栖要に自宅を襲撃されたことから丁度、一週間経ったともいえる。
妻の書斎も襲撃前の状態に戻っており、まるで何事もなかったかのような雰囲気だが、変わったところといえば、恭介の痛々しい右手の包帯くらいなものだろうか?
「アナタ。その右手の包帯、どうしたの?」
抱えきれない程の旅行土産を、テーブルに広げるのに夢中になっていた妻が、何気に尋ねてきた。
「ああ、コケて怪我したんだ」
そう、気を付けてね。それだけ言うと、事件の事を何も知らない妻は、また土産の仕分けに戻った。
包帯巻いてるのがもし、恭介じゃなくてペットのメルだとしたら、妻の性格を考えたら、凄い剣幕ですぐ犯人探しを始める事だろう。
幸い、メルの傷口は浅かったので、完治とまではいかないが、メルのフサフサの毛で隠れるので何ら問題なかった。
ちょっと寂しい気もするが、あまり干渉されない方が助かる。今回の件は、古賀家では秘密にするつもりらしいし、恭介本人としても《涼介》を好いていた沙織に哀しい顔をされるのだけは御免だ。
それだけは、浩紀に強く口止めしといた。
恭介は結局、病院に三日間も拘束されていた。三日間もベッドの上にいると流石に体が鈍るが仕方がない。
しかし検査結果は異常ないし、十数年間わだかまっていた浩紀との親子関係も修復されつつあるし、これ程喜ばしいことはない。
ただし、和解したのは恭介だけだが‥‥今日も一日、屋根裏部屋に籠もっている。
恭介は、数日前に犬居に言われたことを思い出していた。
(一体、犬居は俺に何を頼むつもりだったんだ?時が経つまで待ってくれ、と言ってたが)
恭介は渇いた喉を潤す為に、台所に向かっていた時、階段の踊り場で沙織が誰かと揉めている声がした。
(なんだ、また浩紀と何か揉めているのか?)
悪いとは思ったが、大事になっては大変だ。と、止めに入ろうとした瞬間、間違いに気が付く。
なぜなら、沙織が怒りをぶつけている相手は、浩紀ではなく‥‥‥
「そんなこと言わないで、涼介くん」
どうやら揉めてる相手は、電話の向こうの《涼介》こと栗栖要のようだった。
(なんだって? そいつは駄目だ、沙織)
名前を聞いた途端、恭介は凍り付いた。どうやら2人は、別れる・別れないの話で揉めていた。
「沙織、彼は駄目だ。付いて行っちゃいけない」
恭介の言葉に気が付いた沙織は、愕然とした顔をした。
「酷い、私の話を盜み聞きしたの?」
恭介に話を聞かれたのが悔しかったのか、眉をひそめ露骨に嫌な顔をした。
「そいつは、沙織を騙して利用しようとしてるだけなんだ」
だが、恭介の話は一向に聞こうともせず、ただ彼女は首を横に振るだけだった。
そして彼女は、虚ろな目を下に向け叫んだ。
「うるさい! 本当の父親じゃないくせに父親ヅラするな!」
その言葉に、恭介は固まってしまった。まさか、娘の口から直接聞くとは思っていなかったからだ。
「さ‥‥沙織」
口がワナワナと振るえ、冷めた目でこちらを見下す沙織に、恭介は心臓が止まりそうな気がした。
「父さん。姉ちゃん、どうしたの?」
あまりの声の大きさに、さすがに浩紀も驚いて屋根裏部屋から出てきた。
「姉ちゃん、一体どうしたんだよ? 喧嘩なんかしちゃあ駄目だ!」
‥‥‥だが、もう彼女の耳は、誰の声も届かなかった。