騙し愛
自宅に帰ると、部屋の明かりは点いてはなく、今日は来てないのかと、ホッとする。
急にとは言え、いきなり他の女性と結婚するから別れてくれ、とは言いづらい。
しかも、会ったことのない女性との政略結婚だ。
自分でさえ納得がいかないのに、しかも数ヶ月後には相手のお腹の子供の父親になる。
相手の情報もない、愛情もないのないない尽くしの上に勝手に責任だけを押し付けようとする父親に対して開いた口が塞がらない。
おもむろに冷蔵庫から缶ビールを取り出すとプシッと缶のフタを開け、ゴクゴクッと喉を鳴らして飲む。こんな風にイヤな思いをしながら飲む酒は初めてだった。
冷蔵庫には、いつもビールとツマミくらいしかなかったが、友達を読んで酒盛りをするか、留美子が部屋に来て料理を作ってくれたりした。
(留美子がいる朝は炊きたてのご飯に食欲をそそる味噌汁の匂い、俺の好きな甘めな卵焼き‥‥‥)
台所を仕切っていた主を思い浮かべ、目頭が熱くなっていくのが分かった。
留美子のことを思い出す度に、前までは別れたいと思うことは一度や二度じゃない。だけど、今は‥‥‥ただ彼女に会って抱きしめたかった。どんなに謝っても許される筈などないだろうが‥‥
(もう俺には逃げる場所なんかない)
今は、自宅にいるのかもしれない。恭介は彼女のアパートに直接行こうと、玄関の下駄箱から履き慣れたスニーカーを取り出し、履きかけたその時、リビングの方からトゥルルルトゥルルル、と鳴り響いた。
「はい、曽根です」
『‥‥‥』
しかし、受話器の向こうはウンともスンとも言わない。イタズラ電話か‥‥そう思い、電話を切ろうとしたその時、受話器の向こうで野太い男の声がした。
この女は諦めろと‥‥
「!!」
イヤな予感がした。恭介は、車のキーをズボンのポケットに突っ込み、財布に部屋の鍵を手に掴むと慌てて部屋を飛び出した。
留美子の住むアパートは、恭介のマンションから10分程離れた場所にあった。看護婦をしていた留美子が、病院に一番近いからと借りていた場所である。
恭介は、アパートの駐車場の隅に車を停めると、階段を駆け上り、《本田》と書かれた表札の前で、何度チャイムを鳴らしても応答しない。
だが、部屋の中は明々と電気が点いていないし、もしかしたら今回の件で何か怒ってるのかもしれない。仕方なく合鍵を使って中に入ろうとする。
だが‥‥‥どんなにやっても、恭介の持っている合鍵ではその鍵穴には入らなかった。
「どうして?」
おかしい。俺が前に来たのはいつだ?頭の中が色々な出来事でごちゃ混ぜになってる。
グチャグチャになった感情は、恭介の心根を掻き乱す。
誰かに今から起こる行動を、操作されているにしか思えなかった。
しかし、誰が何の目的の為に?
ガチャッ!ふいに隣の部屋の扉が開く音がした。その扉の向こうにはオドオドした感じのボサボサ頭の男がこちらを覗きこんでいる。
「あの‥‥本田さんは数日前からいないみたいですよ」
男はボソボソッと喋ると、すぐに自分の部屋へ引き下がった。
どういうことだ?
疑問に感じた恭介は、アパートの大家に掛け合うことにした。
一度、留美子が風邪を引いて寝込んだ時、彼女の代わりに家賃を払いに行ったことがあるので場所は知っていた。
大家は、このアパートからさほど離れてないところにある平屋建ての一軒屋に住んでいる。
ピンポンと、チャイムの音を鳴らすと同時に出てきたのは恰幅のよい五十代の男だった。
「そうや、ウチかて心配してるんや。急におらんようになったさかい、あんな小さい子もおるのに」
大家の話はこうだ。何日か前に、近所を歩く留美子を見掛けたとのこと。しかもここら辺では見た事のない男女数人もいたというのだ。
(‥‥しかし、子どもというのは一体?、まさか俺の子どもではないだろうな。聞いた事なんて一度もないが)
これ以上、ここにいたって仕方がない。今日のところは出直すことに決め、恭介は踵を返した。
大家の家から出る頃には、空は晴れてるのに雨がザーザー降っている。
「狐の嫁入りか‥‥‥」
恭介は、止みそうにない空を睨みながら、自分の車へと駆け足で走っていった。
‥‥‥本田留美子の訃報が耳に入ったのは、あの日から三日が経ってからだった。
その日恭介は、父親の手伝いで得意先の挨拶周りに一緒に出掛けていた。
その日は無性に暑くて、ハンカチで何度拭っても汗が流れた。
「大丈夫か?」
ふいに父親がそんな事を聞いてくるので、なんだか嬉しかった。
だが、それも束の間。和やかな雰囲気はその後、一転する。
招かざれる客が来たからである。
「曽根恭介さんですね」
黒のスーツにヨレヨレのコートを羽織った男とビシッと真新しい紺色のスーツを着た男が、こちらに向かってくる。
知り合いでは無さそうだし、ここら辺では見掛けない顔だ。
「知り合いか?」と聞く父親に、頭を横に振る。見た事むない二人だ、知り合いではなさそうだが?
「本田留美子さんを知ってますね?」
「はい、知ってますが‥‥」
ますます言っている意味が分からす、不可解な顔つきで、前の二人を覗き込んだ。
すると若い方が、スーツの内ポケットから警察手帳を見せた。
「今日、本田留美子さんのご遺体が見つかりました。本田さんかどうか、ご確認して貰いたいのでご同行願えますか?」
「!?」
あまりの出来事に、絶句して立ち尽くす恭介。その後ろで、父親の顔が強ばっているのに誰も気付かなかった。
久しぶりに恭介が留美子に対面したのは、病院の霊安室だった。
「本田留美子さんに間違いありませんか?」
刑事の問いに恭介の唇はブルブルと震え、瞳からは溢れんばかりの涙が頬を伝って床へと零れ落ちていく。
胸が押さえつけられるくらい苦しかった。
「うわぁぁぁ〜!」
ベッドに横たわる留美子の顔は、まるで眠ってるかのような穏やかな表情で、死んだのが嘘のようだった。
「本田留美子さんに間違いありませんか?」
刑事の問いに、ただ頷くだけだけだった。死因は、溺死だったという。
彼らは言う、彼女の生い立ちを。
留美子は片田舎の資産家の生まれだったが、両親が早くに亡くなり、まだ未成年だった彼女には後継人がついた。
母方の叔父夫婦である。
彼らは最初から遺産目当てだったらしく、金目の物や家屋敷の全てを取り上げると、邪魔になった彼女を孤児院などの施設に追いやった。
留美子は苦渋を呑みながら、高校卒業までを孤児院で生活したという。彼女の孤児院での生活態度はすこぶる良かったらしく、年下にとても慕われたらしい。
その後、彼女は施設で会った女性を頼って上京したらしい。
「その後は、看護学校に入って卒業後に今勤めていた病院に入ったそうです」
恭介は知らなかった。そんな苦労をしてたなんて、会う時はいつも明るかったから‥‥
ここで疑問が湧いてきた。
「あの‥‥留美子さん、お子さんがいるって聞いたんですけど」
すると、段々と二人の顔色が変わっていくのが分かった。
「どうして、その事を聞かれるのですか?」
二人の反応に驚きつつも、話を進める。
「先日、留美子さんのアパートに訪ねた時に、大家さんにお聞きしたんです。小さい子どもがいるって、僕と付き合い始めたのは、そんなに古くないんで、僕の子供ではないと思うんですけど」
刑事二人はお互いの顔を見合せ、相槌を打った。
「大家の坂木氏にお会いしたんですか?」
何やら意味深な受け答えに、戸惑う。
「坂木氏と本田さんの間で、何か揉め事があったらしいですが‥‥‥すみませんが、これ以上はお話しできません」
そう言い残すと、刑事らはその場を後にした。
恭介の中で、変なわだかまりが残った。
恭介は仕方なく、留美子の友人の家を訪ねた。以前に留美子から乾物屋に嫁に行った後輩がいる事を聞いていたからだ。
留美子の友人である小倉小夜子の家は、留美子の自宅から車で20分のところにある、大きな門構えの邸宅がそうだった。
家から出てきたのは、上品そうな雰囲気の和装の女性だった。
「留美子さんのお知り合い?もしかして恭介さんってお名前かしら」
怪訝そうな目で、見てくるので居心地は悪い。
「はい、そうです。曽根恭介です。」
そう答えると、女性はすぐに屋敷の中に入れてくれた。
廊下を歩いていると、奥の部屋からキャッキャッと赤ちゃんの笑い声が聞こえてきた。
フッと先程まで険しかった表情が、赤ちゃんの声で一瞬和らいだ。
「あの‥‥お子さんですか?」
その問いに答えは返ってこなかったが、少しずつ話始めた。この扉の向こうにいるのは留美子の息子です。と‥‥‥
「留美子は言ったわ。この子が恭介さんの子だったら、どんなに良かったかしら。せめて、名前だけでも1字貰いたいの。ってね」
冷めた目で見てくる小夜子にゾッとした。
‥‥‥ということは、俺の子じゃない?
「1週間前です、留美子が涼介を連れて来たのは。その時すごく慌ててたみたいで、涼介を私に預けると、留美子は家を飛び出してしまいました」
死ぬ、という自覚があったのだろうか?
「お分かりになったら、お帰り下さい」
そういうと女中を呼び、玄関まで送るよう言いつけ、自分は赤ん坊の声がした方にへと向かった。その時ドアが少し開き、そこから赤ちゃんの顔が見えた。
(あの顔は、確かに留美子に似てる)
特に目元と口元辺りが‥‥俺の子じゃないのか。なぜか、寂しく感じてしまった。
それから小夜子からの電話で、涼介が誰かに連れ去られたとの連絡があった。
‥‥東京湾で箱詰めになった、赤ん坊の衣服と骨らしき物がみつかったのは、小夜子の家に訪れた1ヶ月後であった。