聖母観音
江戸時代の実在の僧侶、円空を主人公にしたフィクション作品。
元々サイトに掲載していたものの転載です。
美濃の国(現在の岐阜県)の冬は雪深い。
それゆえに、多少なりとも寒さには堪え性が利くほうであると思っていたのだが、それは少しばかり思い違いだったようである。
確かに彼は美濃の国の生まれであり、冬場の雪中歩行は慣れていると言えるのだが、あいにくとここは美濃の国ではなかった。
ここは、陸州弘前藩。津軽氏が治める最果ての地。
ぼろぼろの法衣は、容易く寒風の運ぶ冷気を体にしみこませ、脚絆も旅もそれを履いている人間以上にくたびれ果てて、冷気も湿気もその足元にまとわりつかせ、ただでさえ重い足取りに疲れが容赦なく絡み付いてくる。
山中にあるその身は、津軽の地のうわさ聞く激しい海風を浴びるまでもなく、もはや朽ちてしまいそうでさえある。
「やれやれ……」
いつ果てるとも知れぬ山道を睨みながら、彼はひとりごちた。
「このままでは、海を見ることもなく果ててしまいそうだわい」
そうして、彼はその場において目に付いた大岩に腰を下ろす。
尻の下から伝わる岩の冷たさも、足を叩くシダの葉の湿気も、それぞれ体にしみこんでは来るものの、立ち続け、歩き続けから来る疲労、その誘惑には勝てなかったし、そうした不快感も体を動かし続けることに比べれば何ということもない。
ただ……。
山間をぬけるこの強風だけはどうしようもなかった。
寒さに対し、多少は耐性のあると自負する円空にしても、ついつい目を閉じてしまいがちである。
「こりゃたまらんわい」
時は寛永五年(1665年)、円空三四歳。
この時代にあっては、もはや壮年の入り口にさしかかっていると言って良く、その身からは若さというものが削り取られてしまっている。
しかし、彼はいま北の地に身を置いている。
どうして、命を削るがごとき旅を重ねてこのような地に身を置くのか。つい一年ほど前には、生まれ育った美濃の地にて神像建立に立ち会ったばかりだというのに。
「神さんは彫るわ、お狐さんは彫るわでは、心ある僧籍の方々とはうまく行きゃせんわね」
実のところ、彼の場合、一所に留まれないのには、そうした堅苦しい教義第一主義との軋轢もあった。彼が彫るモノはあくまでも、そこにいる者達が望むモノである。この時代においては、寺社という言葉にあるとおり、神仏というものは決して相対するものではなく(寺が神社を管理するケースもあったほど)、現代以上に民衆の間に緩やかに混在した状況であったのだが、いつの時代にも教条主義者というものはいる。ことに、僧侶が知識人代表の一角だった時代であるだけに、力のある僧侶の中には、円空のように緩やかな民間信仰をそのまま受け入れた仏師は例え僧籍を持っていようとも、疎まれやすい存在でもあったのだ。
「大体、わしゃ、お坊様だのというほどの者じゃないわな」
円空のように旅から旅の暮らしをし、その道すがら世話になった家の者の求めに応じて仏を彫る僧侶は、いわゆる「造仏聖」と呼ばれており、僧籍を持つ者達の中でも比較的に軽く見られがちである。しかし、彼自身はそれでいいと思っている。だからこそ、民衆と同じ目の高さで接することが出来るし、彼の彫るものに接することで少しでも人が仏を感じてくれるのならそれでいいとも。時には、童たちが寝床の友とし、戯れに放られることもあるが、それもまた自分の望むに叶うであろうという思いが漠然とではあったが持っていた。
「そうか、坊主、おめえ、ええやつじゃなぁ……」
円空しかいない筈の山中、不意に人の声が聞こえたような気がした。
はっとして振り向いた円空の目に映るのは、ただ草木が風に揺られる様のみ。
「はて、空耳か……」
ここに人がいるはずがない。
山には入る前に、そのことはさんざん麓の村の衆から聞いた話である。
しかし……。
「頼めば、誰にでも彫ってくれるのけ?」
空耳ではない。
それは見知らぬ女の声。
もう一度振り返るが、やはりそこには誰もいない
「はて、これは幽鬼か、それとも狐狸妖怪の類か?」
円空の心の内を読んでいるかのようなその言い様に、彼は少し薄ら寒いものを感じはしたが……。
「おうよ、この円空、手慰みに御仏を彫って進ぜよう。身分の上下、貴賤などは問いはせぬ。例え、狐狸妖怪の類であろうとも、無下に断りはせぬぞ」
返事はなく、代わりにざわざわと草同士がこすれるような音がした。
何か期するモノを感じ、再度振り向いた円空の視線の先、そこには……。
「ほう、これはこれは、なかなか器量よしのあやかしよな」
顔こそは多少薄汚れてはいるものの、そこにはまだ若い娘が一人立っていた。年の頃は、円空の見立てでは二十歳に届くか届かないかというところか。
「何だ、坊主。こんなとこで何してる?」
「行き倒れかけておる」
「行き倒れの割には、口はへらねえだな」
「口先で説法するのと、仏様を彫るのが仕事じゃでな」
「ふ〜ん……」
娘は、興味深そうに円空をひとしきり見た後
「行き倒れかけでも、もう少しだけ歩けるだか?」
と聞いてくる。
(行き倒れなら、歩くことも叶わぬだろうに)
円空は、内心苦笑しつつも
「飯と寝るところがあるのなら、歩いてやらぬでもないぞ」
と憎まれ口を叩く。
「何じゃあ、口の悪い坊主だなや。でもまぁええ。動けん言われても、オレにはあます(手に余る)げな。」
憎まれ口を叩かれた側の娘の方も、あまりいい口の利き方とはいえない。
「とりあえず、オレのあとさ、あべしておけじゃ(ついてこい)」
そう言いつつ、娘は草木の茂る道外れへと消えていく。
円空は、というと、
(やれやれ、御仏のお導きか、それとも狐狸妖怪の戯れか、幽鬼の誘いかは知らぬが、ついていってみようかの)
そのようなことを思いつつ、重い腰をあげ、娘の後を追う。
娘の足は、山歩きに慣れているからか、びっしりと生えた草に足を取られ、足取りの重くなった円空を置き去りにせんばかりにすたすたと前を歩いていく。振り向くこともしようとはしない。
「何じゃ、全く親切なのか不親切なのか分らん娘じゃわい」
円空がそう毒づいても
「口の悪い坊主だな……もうちょっと辛抱しろじゃ。こんなとこまで登ってきたんじゃ、もうちょっと元気出せ。それとオレの名前は、おせんだ。娘、娘、言うな」
と軽くいなされるばかり。
これには、円空も苦笑しつつ、そして息を切らせながらもついて行かざるを得ない。
そうした辛抱を乗り越えた先、草深い視界が急に晴れ、そこには一軒の古びた小屋。
「ついたぞ、坊主。ここがオレの家だ」
どこか誇らしげにおせんという娘は、その小屋を指す。
「うむ、ええ家じゃ」
円空も、それを受けて感心してみせる。
別におせんに気を使って、そうした態度を取っているのではない。確かにおせんという娘の住むという家は、まるで廃材を組み合わせたような小汚い小屋でしかなかったが、およそ野外で寝ることも少なくない円空にとっては、屋根があるというだけでもありがたいことであったのだ。
「ええ家じゃろ?」
円空に言われて、おせんも気を良くしたらしい。自分が、山中の小屋に住んでいることに対して何の引け目も感じていないらしい。
「オレのおど(父親)が作ってくれたんだ」
笑顔を浮かべるおせん。日に焼け、泥に汚れているのか、その顔は黒ずんでいるが、笑うと案外と器量よしのようである。
「まぁ、遠慮しねえで入れ」
ぎしぎしと音のする煤けた色の戸を開けて、娘が先に小屋に入っていく。途端に中からドタンバタンという音が聞こえてくる。採光のためか、空気の入れ換えの為か、戸張を開けているようだ。
「うむ、ではご厄介になるとしよう」
中に入ると、最初に目に入ったのは観音菩薩の絵。
ひどく拙い絵であるし、描線はところどころ墨が滲んでいるものの、全体から受ける印象は柔らかく、この絵を描いた人物が絵の対象たる観音菩薩に対して並々ならぬ信仰心を抱いていたであろうことが分る。
「ほう、これはいいものだわい」
円空が手を合わせると、おせんと名乗った女はその様子に感心して
「へぇ、坊主、この絵がわかるのけ?」
「おお、これでも坊主の端くれよ。よき観音様じゃの。描いた者のこころがよう現われておる。よい絵には、仏様の方から寄ってくださりよる」
「坊主、おめ、何言ってんだ?」
絵に対して頭を垂れ手を合わせる円空に、おせんは呆れたように言い放つ。
「これ、マリア様だ。おどが昔描いてくれたんだ。観音様なんかじゃねえ」
「マリア様とは……ぬし……。」
おせんは分っていないようだが、円空は彼女の発した言葉に戦慄する。
「だども、いい絵って言ってくれたのは嬉しいべ。坊主、ありがとな」
やはり、おせんは分っていないようだ。円空はおそるおそるおせんに尋ねる。
「ぬしゃ、まさかとは思うが……隠れか?」
隠れ、今で言う隠れキリシタンのことである。隠れキリシタンといえば、九州地方、島原の乱のこともあり、いまで言う長崎県周辺の者達がよく知られているが、東北地方にもそうした勢力は小規模ながらある。円空とて、旅から旅の暮らしゆえにそうした噂を耳にしないでもないが、この陸奥(東北地方太平洋海岸周辺)ならば南部藩(岩手県)のあたりにそうした集落がひっそりとある程度にしか思っていなかった彼にすれば、最果ての地であるこの津軽において隠れを目にすることになるとは思ってもいなかった。
「隠れ?」おせんは首をかしげる。
「ああ、何かそんなこと、村の衆からも言われたことあるっぺな。だから、どした?」
「どした、とはぬし……」
あまりにもあっけらかんと言い放つおせんに、円空は心底呆れていた。
「ええい!隠れなら隠れらしく、もうちょいひっそりとしておこうと思わんのか?」
「何でだ?」
「隠れ……切支丹はな、御法度なのじゃ。知らぬのか?」
「それくらい知ってる……バカにするでね!」
「知っているのなら、なおのこと……。」
「だども、何で御法度なんだ?オレにはそれが分んね」
円空、答えに詰まりながらも、はたと考える。
切支丹が御法度……この当たり前のことを、実に当たり前のこととして自身生きてきて、さてそれはなにゆえにか?となると、とんと良い答えを思いつかぬ自分に気づく。
「何だ、お上か?お上って言うのは、けちくさいもんべな」
(こやつ、言いおるわ!)
おせんの言っていることは、本当に率直ではあるのだが、その率直さは世間では罪とされる。
(そういえば、麓ではこの山の中には人は住んでおらんと言っておったな……この娘が隠れならば、それも道理よな。)
江戸時代、現代における戸籍、庶民の住民台帳は、幕府或いは藩というよりも、寺社の預かりであった。「宗門人別帳」、俗に人別帳ともいうが、これは誰それはどこそこの寺の門徒であるという記録であり、この時代においてはこれが戸籍の役割を果たしていた。寺社が戸籍を管理しているということは、寺の門徒になれぬ者は必然的に人別帳からは外れることとなる。故にこの制度自体が切支丹弾圧の機能を果たしているとも言える。
おせんの場合、隠れ切支丹であるがゆえに、当然人別帳には載っていない。いわば、戸籍という部分から見れば、存在しない人間である。また、おせんの存在を知っている者にしても、自分たちの近くに隠れ切支丹がいることなど公には出来ない。故に、おせんという娘は、二重の意味で存在しない人間なのであろう。だから、円空のような外部の人間に対しては、「この山の中に住んでいる者などいない」という話になる。
(惨い話と言えんこともないが、さて……)
ここで、円空ははたと考える。
しかし、村から大きく外れたところに住んでいるとはいえ、役人に狩り出されることもなく、ここにこうして暮らしているということは、村の衆なりの情けあってのことということか。それに、おせんの先ほどからの話を聞く限りにおいては、どうやら村の住人ともそれなりに交流らしきものはあるように思える。
(人の情けとは、何ともややこしいものよな)
円空は、そうも思うのだが、さりとて何が正解か、などということは思い至らない。曲りなりにも僧侶である自分の立場としては、この異端の宗徒を何とか仏門に帰依させることが仕事なのだろうと思いはするが、彼にはその気がない。第一、そのような気があるのなら、とっくにそうした話を始めている。
(結局のところ、人の心など、格式通りには囲めやせん)
それが、円空の結論だった。
何しろ、円空自身、寺にとどまることなく、流浪の身。いまのこの暮らしも、円空なりのこだわり有ればこそだった。
(わし自身が、型にはまらんことをしておるんじゃもの)
だから、おせんが切支丹というのなら、それはそれでよい。
いささか乱暴ではあるが、それが円空の出した答えだった。
「まぁ、よいわ。たまには耶蘇の神さんのお世話にもなろうかの。今夜一晩、お世話になりますわい」
円空は、そう頭を下げ、再度手を合わせる。
その動作は、あくまでも仏門の流儀に則ったものではあるのだが、おせんはいたく感じるものがあったらしい。
「坊主、おめ、やっぱ、いいやつだわ」
そうして、またにこりと笑う。
(やはり、こやつ、笑うといい顔になりよるわい)
円空、御年三十四歳。まだ、身のうちの熱いものは冷め切っていない。
その夜の食事は、山中にふさわしく質素なものであった。
おせん曰く、村の衆に分けてもらったという雑穀と味噌、それに山菜を煮込んだ雑炊のようなもの。津軽の地において、「けの汁」(根菜と豆を煮込んだもの)と呼ばれる汁ものに近い。
実に素朴な味であったが、このような山中で食すには、いや円空のような流浪の身にとっては、実に贅沢な味わいであった。
やがて、腹が朽ちて、円空とおせんの話も一段落し、お互い手持ち無沙汰になる。
囲炉裏に炊かれた火が、いささか弱々しい光を放つ中、円空は行李とつながれた振り分け荷物の風呂敷をほどく。中からは、いささか小振りな鉈。そして、行李からはこれまた小振りな小刀。
「何だ、何だ、坊主。物騒なモン出すんだな」
急におせんが身を乗り出して、円空の道具に目をはる。
「わしの仕事道具よ。まぁ、黙って見ておればよい。」
言うなり、円空は積み上げられた薪をひとつ手に取り、無造作に鉈を振り下ろす。
ざくざくと荒っぽく削ると、手数が増える毎にただの薪に過ぎなかったそれが、人らしき形を作っていく。
世に言う、円空の鉈彫りの妙技である。また、薪を材料にしていることからすれば、いま彫っているそれは、「木っ端仏」とも言われるものでもあろう。
「はぁー、大したもんだでな」
おせんはそう言ってくれるが、円空にはこれが「技」であるなどという意識はない。
(わしにはこれしかないけんの)
それだけである。
曲がりなりにも僧籍はあるものの、円空のような「造仏聖」は高位の僧たちとはおのずと立ち位置が違う。
農民を含めた庶民にとって、円空は実に親しみやすい「坊主」であるが、裏を返せばそれは地位の低さも意味しているのだ。
円空も、己のその地位を理解している。己を卑下することはないが、胸を張って生きているというのとも違う。。
自分のような人間も必要なのだという自負はあるが、自分にはこの程度のことしか出来ないのだとも思う忸怩たる思いもある。
そうした相反する意識が、常に彼の中にはある。
しかし、木を彫っている間だけは、それを忘れることが出来た。
一心に木を掘り続けていると、その木片に過ぎなかったものが徐々に形を成し、その顔形が顕になっていく。そうすると、その木の中に宿り始めた何かが円空に微笑みかけているかのように思えてくるのだ。
全てを許す慈愛の笑み。
その慈愛は、もしかしたら「自愛」に過ぎないのかもしれないが、円空にはそうしたものが必要だったし、その笑みを円空と同じかそれ以上に必要とする人々が世には多いのだ。
円空の生み出す彫像に笑顔が多いのも、彼がそれを必要なものだと思っているからだった。
そうして形作られた微笑は、いちように「仏」或いはもっと具体的に「観音」などとも皆から言われるが、これは円空の「造仏聖」という立場ゆえにそう皆思い込んでいるだけともいえる。彼自身は、己の求めるものをただ求めて彫り続けているだけである。それゆえに、造ったものに対して人により解釈の違いが生じる割合が高い。今夜もそうであった。
「ああ、マリア様だなや」
おせんが円空の手にあるものを指して言う。
色々と人が勝手な解釈で、円空の掘ったものを呼ぶことには彼自身なれてもいたが、よりにもよって耶蘇(キリスト教)の神に間違われたのは初めてだった。
正確には、聖母マリアは、耶蘇(イエス・キリスト自身を指す場合もある)の生みの親というべきなのだが、円空にはキリスト教の知識はない。マリアもキリストも、彼から見ればいわゆる「異教の神々」の一柱という程度の認識しかない。
「マリア様、ええ顔してるだね」
「……一応、観音様のつもりだったんじゃがな」
「何言っているぅ?おめ、オレが田舎もんだからって、馬鹿にしてるだか?これ、マリア様だ。観音さまでねっ(観音様ではない)」
円空は知らないことではあるのだが、いわゆる隠れキリシタンの場合、秀吉以来のキリシタン弾圧の歴史の為、その信仰形態は本来のキリスト教とは異なるものと化してしまっている。また、家光治世以来の鎖国政策も、そうした傾向に拍車をかけていた。
多くは、元々あった土着的な信仰と融合。また、祖先崇拝や仏教的な世界観などもとも融合していた。
「おお、一宿一飯の恩義というやつじゃ。わしにはこれくらいしか出来はせん」
「恩にきるべ……坊様、おめ、いいやつじゃな。」 ことに、観音信仰などは、その「慈悲」にすがる土着信仰ともあいまって、地域によっては観音菩薩と聖母マリアが同一化してしまったところもある。
おせんもまたそうした土着化した信仰を受け継いだ者の一人なのだろう。
「まぁ、よい……ぬしが大事にしてくれるなら、観音様も人間違いのことくらい大目に見てくれるじゃろうよ。そんなにケチくさいお方でもあるまい」
「なんじゃ、坊様、それ、オラにくれるのけ?」
「坊主から坊様か。わしも出世したな。これも観音様のおかげかの」
苦笑交じりに言う円空に対し、おせんは
「観音様じゃねぇ。マリア様だ。」
と反論。
「そうじゃったな」
これには円空も大笑い。
「ほれ、大事にせい」
彫り上げた観音像、おせん言うところのマリア像を無造作に渡す。
「なんだぁ〜、もうちょっと大事に扱え、くそ坊主」
「何じゃ、また坊主に格下げか。」
その分りやすいおせんの悪態に、円空、破顔一笑。
「坊主、オレ、これ大事にするど……いい顔だぁ……おが(母親)もこんな顔だったべかな?」
おせんの言葉は、円空の胸をちくりと刺す。
おせんの母親は、彼女を産んで間もなく産後のひだちが悪かったせいか亡くなったという。だから、おせんは母親の顔を知らない。
一方、円空は十九歳の折に母親を水害でなくしていた。
(わしは、まだ幸せな方なのかもしれんな……)
そこで、ふと思う。
いや、以前から思っていたことでもあるのだが、円空の彫る仏が皆一様に微笑んでいるのは、彼が無意識にそこに母親の笑顔を求めていたからではないかと。そして、だからこそ、円空はおせんの笑顔に好感を抱いているのだろう。
彼女の笑みは、亡くなった母親を思い出させるのだ。
(全く、こんな小娘にのう……)
円空は、苦笑しつつ自らの頭をはたく。長く旅を続けてきたその頭は、僧侶というにはいささか伸びすぎた頭髪に覆われている。以前に剃髪したのは、果たしていつの頃だったか。
「どうした、坊主、頭かゆいのけ?」
心配しているのか、それとも単に気になっただけなのか、おせんが尋ねる。
「いや、何でも……。もう、寝ようかの」
「そうか」
おせんは、うなずき
「寝るか。」
そうして、奥に畳まれた布団と言うにはあまりにも雑な布のひとかたまりを、円空に投げ与えた。
「寝るべ」
果たして、横になってどれくらいの時が経ったか。
囲炉裏の火はとうに落ち、小屋の中は闇とともに山中の冷気に包まれていた。
長らく旅を続け、夜の寒さにも慣れた筈の円空にもいささか堪える寒さであった。
その寒い闇の中、円空は板の張られた小屋の床のすれる音と人の気配を感じ取っていた。
(おせんか?)
そう思っていると、ふわりと人肌のぬくもりが彼の顔を包み込む。
「な、なんじゃ」
慌てて飛び起きると、暗がりの中、微かにおせんの肢体が見える。
「ぬし、何をしておるのじゃ」
「何って……。寒いべ?」
悪びれることなくおせんが答える。
「寒いのは分っておるわ。ここは津軽じゃ。最果てよ。ましてや山中じゃ。ぬしが何をしておるのかと、わしは聞いておるのじゃ」
「寒いから一緒に寝るべ。もう、薪もねえべしな。」
そうして、また円空を虜にするがごとくにこりと笑うのが、暗闇の中でも微かに見える。
「ぬう……。」
ここで円空は考える。
(こやつと一緒におると、色々考えるわしの方が阿呆のようだわい……)
円空は、ふて腐れたようにおせんに背を向けると、ごろりと再び横になる。
「一緒に寝たいのなら寝たいで、好きにせい」
その態度は、多少は強がりもこもっていたのかもしれないが……。
「わかったべ、好きにするべ」
おせんには、悪びれた様子はない。
「坊主も、服脱げばもっと暖めあえるのにな……。」
(そのようなこと出来るかい!!)
心中悪態をつきながらも、じわりじわりと寄ってくるおせんの肌の温もりは円空の中の忘れかけていた熱いものを思い出させる。
「まぁいいべ。こうしていれば、オレもちっとはあったけえ」
そうして、おせんの暖かい息が円空の耳から首筋にかけて吹き抜ける。
「ええい、勝手にせい!」
ここまで来ると、もはや強がりである。
「勝手にするべ」
おせんは、というと全く悪びれることなく、さらに身を寄せる。
円空が、その身のうちにあるオスの種火を抑え込んでいる中、おせんはふと呟く。
「坊主は、オレを抱かねえべな。やっぱ、村の衆とは違うべや」
その声が、円空の意識を再び呼び戻す。
「何じゃと」
「村の男衆は、オレをよく抱くべ。その代わりに味噌だの米だのくれるだよ。たまにえらくへたくそなのが来るが、まぁ大概わらし(童)みたいなやつべな。」
暗闇の中、円空はまじまじとおせんの顔を見る。
その表情には悪びれた様子など、微塵もない。
「ぬし……男衆に身を売って、米だの何だのもらっていたか」
「いつもじゃねえべ。何もしなくても、くれるモンもいたな」
(何ともはや……まこと、人の情けとはややこしいことよ……)
しかし、こうした村の男衆とおせんとの関係性こそが、彼女が隠れ切支丹でありながら、この地において生を長らえている秘密の一端なのだろう。おせんの言うわらし(童)とは、恐らくは初めての女としても、村では重宝しているということを指してもいるのだろう。おせんが、果たしていつからそのような暮らしを営んでいるのかは分らないが、多分父親が亡くなってからのことことではないか。
「ぬし、いつからこのようなことをしておる?いや、父親はいつからおらんのか?」
「おどは、そうだな……六年ばかり前かな」
となると、いまの見た目すれば、十代半ばにはこうした暮らしを始めていたことになる。
ここに至るまでの暮らしは、おせんにとっていかなるものだったのか?円空がそのようなことに思いを馳せていると、まるでその円空の思考を読み取ったかのように、おせんは話を始める。これまでのこと……。
「おどが死んでから村の男衆が、やたらここに来るようになったじゃ。ちょっといやな時もあったけど、でもみんな色々言っても優しいべ。ちょっと、荒っぽい奴もいるけどな。」
「荒っぽいとは……何か、乱暴されたのか?」
「うんにゃ、下手くそだっぺ。」
これには、円空の方が顔を赤くする。
「わらし(童)みたいなやつならまだええだが、たまにええ歳こいたようなのでも、下手なのがおるべ」
「知らんわ!」
しかし、この娘、人の悪意には無頓着なのか?円空は自問する。皆が皆、親切でいい人などということもあるまい。いや、最終的に優しいとは言っても、行為に及んでいる以上、そこには間違いなく「下心」はあったはずだ。
「でも、オレ、一度だけ、この山から出て行こうと思ったんだ」
「ほう……。」
「この山越えたなら、海が見えるんだって、おどが言っていた。だから、オレもこの山越えようと思ったんだ。思ったんだども……」
「思ったが、どうした?」
「山の上さ、行ったら、周りはどこも真っ白だで……海なんか見えね。怖くなって、また降りただよ。オレ、やっぱり、ここにいるしかねえのかなって」
真っ白とは、霧に包まれていたのか、それとも冬の出来事だったからなのか。
「雪じゃねぇ……あったかい時だったからな。」
とすると、霧か?実際には、この山をこれから越えようとする円空にとっては、想像するしかない光景だった。
「だども、坊主、坊主はいろんなところ行っただか?」
「おお、生まれたところは美濃じゃがな」
「美濃……どこだ?」
「ここからずっと南、そうじゃな。この山のようなところを、いくつもいくつも越えたところにある。」
「山をいくつも越えるのか?」
おせんは、心底感心しているようだった。
「坊主、おめ、すげえなぁ……」
「凄くはありゃせん。ひとところに落ち着くことが出来んだけじゃ。それに、願掛けしていることもあるでな」
「願掛け?何だ、そりゃ……。」
「十二万……十二万体の仏を彫ることよ」
「十二万、十二万って、いっぱいってことか?」
「まぁ、そういうことじゃ」
そうおせんに語りながらも、それを成し遂げることが出来るかという点に関しては、円空自身が疑わしく思っている。いや、近頃は特に不安の方が先にあるというべきか。
「大丈夫だあよ。」
すると、おせんがまたもや円空の心中を見透かしたように、優しく言葉を紡ぎ出す。
「大丈夫だあよ……坊主は凄いやつだから、きっと出来るだあよ」
「そうかの?」
「そうだあよ。オレみたいなやつにまで、マリア様彫ってくれるだから……。いろんなところのオレみたいなやつに、いっぱい彫ってたらすぐ出来るだよ」
「それでも、すぐに出来はせんわい」
「大丈夫だあよ」
おせんと円空の距離が、さらに縮まる。いや、おせんが円空を引き寄せたと言うべきか。
「大丈夫だあよ……」
いつしか、円空の頭はおせんの腕の中に。
「坊主なら、大丈夫だあよ……」
円空もまた抗うことはやめ、されるがままに。ただ、繰り返されるおせんの言葉とその腕が生み出す安らぎに身を委ね始めていた。
そうして、その柔らかで懐かしい感触と匂いに包まれて、円空は眠りの中に落ちていった。
「坊様……もし、坊様……」
眠りに落ちていた円空を、大柄な手が揺さぶっていた。
「ぬ……何じゃ、何じゃ……」
眠い目をこすりつつ、起き上がった円空の目の前には、猟で山に入ったのであろうか、大柄な男が三人彼を取り囲むように立っていた。
「何じゃ、何じゃ……ぬしらは」
「何じゃとは、こっちの話だべ。坊様こそ、何だ。」
「わし……わしは、見ての通り、旅の坊主だ」
「そんなこと、見れば分るべよ」
「この家にて、一晩世話になっただけじゃ」
「あー、昨日は誰もいなかったからな」
「ぬし、何を言うておる」
「何を言うておるとは、何がだ?」
円空、男達、双方がお互いの話に要領を得ていないようだった。両者は、しばしお互いを見合う。
「ええい、あの者に話をさせれば良い。おせんは、どこに行ったのかの?姿が見えぬようじゃが」
円空がおせんの名を出した途端、男達の表情がこわばった。
「坊様、いま、何言った?」
「何とは面妖な……ここの女主人のおせんのことじゃが……ははぁ、ぬしら、あれじゃな。おせんを抱きに来たのかの?だったら、わしはすぐに出て行くゆえ、安心するがよい」
そこまで言うと、男衆の顔色はもう真っ青になっていた。
「坊様……その話、誰に聞いた?」
「誰とはまたおかしなことを……心配せずとも、他言はせん。安心せい。話なら、ここのおせんという娘に、の」
「おせんは……いねえ……。」
男衆の中の一人、とりわけヒゲの濃い男が絞り出すような声で答える。
「いねえ……いないとは、どういうことだ。山菜でも摘みに出かけたのかの?」
「おせんは……おせんは、去年の冬、死んだだよ」
「何を言うておる?」
瞬間、円空は、男の言うことが理解できなかった。呆然とする円空の目の前で、そのヒゲの濃い男は涙をボロボロと流す。
「死んだだよ……オレが見つけたんだ……間違いねぇ……」
「ぬし……」
男は、泣きながらも円空に語った。
「おせんは、ええおなごだっただよ。ちいと頭の足らんところもあっただが、オレはおせんが好きだった。こんなところで、独りで暮らして大変なこともあったろし、村のモンからも冷たくされることもあっただが、オレだって、酷いことしたって言うのに、人のことをあしく言うこともなかった。それに笑うとこれがええ顔になるんだ」
「そうじゃろうな……」
「オレはそんなおせんが好きだった……。でも、おせんは死んだだよ。オレがここに顔を覗かせた時はもう冷たくなっていた……でも、不思議でな……おせん、笑っていただよ」
村の者達は、ひっそりとではあるが、おせんを弔って以来、この小屋を山仕事の折の休憩小屋として利用しているのだという。だから、昨日は誰もいなかった筈だと。
「ふむ……何とも面妖なことよ……。では、昨日のあれは幽鬼の類かそれとも狐狸妖怪の類だったのか」
そう言いながらも、円空にはまだ昨夜のおせんの生々しい暖かさとその感触が残っていた。円空は苦笑しつつも、己の頭を軽く叩く。
「わしも、まだまだ修行が足りぬか……。して、そのおせんが亡くなっていたというのは、どのあたりかの?」
問われた男は、小屋の一角、囲炉裏の脇、円空の座す横を指さす。そこは、奇しくも昨夜おせんが円空の横で寝ていた場所だった。
「これはまた奇縁な……。」
円空は、座を正し、読経をひとつ。
男達も、頭をたれ、手を合わせ神妙な顔。
ひとしきり読経を終え、顔を上げた円空の目にあるものが止まった。
円空は立ち上がると、囲炉裏を挟んで自分が座っているのとは反対側の壁にかかる棚に向かう。板きれを組み合わせて作ったと思われる質素な棚であるが、そこにあるものが気になったのだ。
「これは……。」
それは小振りな彫り物。月日が経ち、色などはくすんでいるが、そこに彫られた顔には覚えがあった。
「ああ、それ、多分観音様だと思うだが、死んだおせんが握りしめていたもんだ。いつから持っていたのか知らねえが、大事にしていただな……旅の坊様が作ってくれてたって言っていただ。」
「そうか、大事にしていたか。」
「おせんと一緒に埋めようかと思ったが、何だか忍びなくてな……その観音様、ええ顔してるだで」
「観音様でねえ。マリア様だ」
円空が昨夜のおせんの口調をまねてそう言うと、男達はぎょっとした顔で円空を見る。
「坊様、何で……」
「隠さずとも良い。隠れだったのじゃろう、おせんさんは」
そうして、円空は昨夜のことを男達に話して聞かせた。そして、いま手にした彫り物が、円空の手になることも……。
「はぁー、不思議な話だな……でも、坊様が作ったというなら、暦があわねえ……何でだ?」
「知るか、わしが教えて欲しいわい」
その話の間にも、男衆の一人が小屋に取っておいた米と味噌、醤油、それに近場から取ってきた山菜を鍋に入れ、何やら煮込んでいた。美味そうな匂いが鼻をつく。
「御仏の導きか、狐狸妖怪か悪神の戯れか、それとも耶蘇の神さんの気まぐれか、それは知らん」
平然という円空に、男達の方が顔色を変える。
「耶蘇って……坊様、滅多なこと、言うもんじゃねえ……」
「何じゃ、けちくさいこと言うな」
笑いながら、円空は差し出された椀に手をつける。
「おかげで、こうして朝餉(朝食)も口に出来る。耶蘇の神さんのおかげというなら、素直に礼を言いたいわい。」
言いつつ、はふはふと息をかけながら、椀の中の熱い雑炊をすする。
「はぁ……坊様、変わっているな」
「当たり前じゃ、変わっているからこそ、こうしてふらふら諸国を回っておる」
もの凄い勢いで椀をすすり終えると、食した椀と箸を置き、手を合わせ一礼。そして、立ち上がると再び棚にある観音像、いやおせんにとってはマリア象に手を合わせる
「マリアさんか……。わしは耶蘇の神さんのやり方は知らんでな、坊主のやることじゃ。仏さんの流儀になるが、まぁあまりケチくさいことは言わんでくれや。ただ、礼を言いたいだけじゃ」
そうして、また読経。
読経を終えた円空は、今度は荷をほどき、昨夜したように仕事道具を広げる。そして、三体の仏を手早く彫って見せた。
「はぁ、大したもんだな……」
男衆の一人が、その円空の手際の良さに感心してみせる。
「ほれ。朝餉の礼じゃ」
手早く彫り終えた木仏を、男達に渡すと、円空は道具を片付け、再び荷をまとめる。
「坊様、ありがとうございます。でも、これ、何の仏様だ?」
「それは……」と言いかけ、円空はふと考えてから言い直す。
「何でも……好きなように思えばええ」
「結構、いい加減だな……。でも、これうちの坊主が見たら喜ぶかもな」
「何だ、おめ、わらし(童)のおもちゃにするつもりか……罰があたっぞ」
男衆が、互いに言い合うのを横に円空はもう荷をまとめ終え、その手には編み笠があった。
「構わんよ、童子とともにあるのなら、仏さんも本望だろうて。そんなにケチくさい方ではないわ」
そう言う円空の顔は、ある種の確信に満ちていた。
(そう、そうやって、粛々と作っていけば、いつか宿願も叶うわい)
その時、ふと耳元で、おせんの声がしたような気がした。
勿論、振り向いたところでそこには誰もいない。
円空は、まるでそこに誰かがいるかのごとく微笑むと、男達に改めて礼を言い、小屋を後にした。
耳元には、昨夜の言葉の温もりと余韻。
「坊主なら、大丈夫だあよ」
円空が宿願を果たし、入定となるのは、これより三十年後の元禄八年(1695年)七月のことである。