軽い「好き」なら必要ないわ。
「好きだよ、アンリエット」
私の婚約者、エドモン・ド・ルクレールの口癖はそれだった。
彼は顔を合わせる度に何度も私に愛を囁いた。
純粋だった私は彼のその言葉一つ一つに心を躍らせたものだ。
政略的な婚約ではあったけれど、そこから始まる恋もあるのだ、と信じて疑わなかった。
「アンリエット・ド・バラデュール。お前との婚約を破棄する」
――この時までは。
王立学園。その、生徒が多く行き交う場所でエドモンは声を上げた。
彼の側には伯爵令嬢のオリーヴ・ド・コルディエが立っている。
「お前は同級生であるオリーヴを虐めた挙句、学園で孤立させようとした。その様な卑しい女と共に在ることなど、俺には出来ない!」
「え、エドモン……何を言って」
「気やすく俺の名を呼ぶな。お前には家の都合で仕方なく接していただけだ。お前の事を好きだと思った事など、一度もない!」
私は何度も彼からの「好き」という言葉を聞いてきた。
しかし彼の言葉を聞く限り、それは全て偽りであったと……婚約者だから仕方なく吐いていた言葉だったと言った。
その後、私は彼に散々罵られ、周囲の奇異の目に晒される中で涙を流した。
……それから数ヶ月が経った頃。
私は学園ですっかり孤立していた。
幸い、オリーヴを虐めたという噂を信じている者は多くなかった。
ただ皆、『公の場で婚約を破棄された可哀想な女』として、半ば面白がって私を見ているようで、そんな笑い者の私と深く関わろうとする者は多くなかった。
それと、エドモンと別れてわかった事がある。
彼はとんだ女好きのようだった。
私との婚約破棄後、すぐにオリーヴと婚約した彼は彼女を愛しているようだった。
けれど同時に彼は、他の女性へも積極的にアプローチを仕掛けて親しくなっては満足しているようで……傍から見ていれば彼が如何に浮気性かがよくわかった。
婚約中、これに気付くことが出来なかったのだから、恋とは恐ろしいものなのだろう。
そんなこんなで、虐められはせずとも珍獣のような扱いから周囲の生徒に避けられるようになった私。
昼休憩になると、私は人目を避けるべく裏庭へと足を運んでいた。
今日も今日とて同じ様に裏庭へ足を運んだ私だが……そこで「ニャー」という声を聞く。
「あら」
猫でもいるのだろう。
そう思った私は声が聞こえた方へ足を運ぶ。
するとそこには――
「おい、こっちじゃない。飯はそこだ」
三匹の子猫によじ登られたまま座り込む男子生徒の姿が。
黒く艶やかな髪に赤い瞳を持つ美しい顔立ちの彼の名はレオナール・リヴァロル。
公爵家の嫡男に当たる人物だった。
彼は学園内でも一人で行動している事が多く、全く変化しない冷たい表情とぶっきらぼうな物言い、また元々の美しい容姿も相まって『氷の貴公子』と呼ばれていた。
……のだが。
目の前の彼は学園ですれ違う時の彼とは明らかに別人だ。
ミルクが用意された器。それを無視して自分の体によじ登っては好き勝手動き回る子猫たち。それに翻弄されて顔を顰めるレオナール様。
子猫を雑に扱うことが出来ないのか、自分から子猫を引き離そうとする彼の手は優しい。
それ故に抵抗する子猫を上手く捕まえることが出来ずにいるようだった。
その時、困り果てているレオナール様の視線が私の方へと向いた。
「……あ」
「あっ」
日頃の振る舞いと乖離している彼の様子。
見てはいけないものを見てしまったような気持になった私は怒られる前にとその場を去ろうと背を向けた。
「待て待て!」
そんな私に声が掛かる。
恐る恐る振り返れば、レオナール様は気まずそうに睫毛を伏せながら顎で子猫たちを示した。
「……助けてくれないか」
「すまない。迷惑を掛けた」
「い、いいえ」
ミルクの器に顔を突っ込む子猫たちを見下ろしながら私達は言葉を交わす。
私が子猫を引きはがした事で無事解放されたレオナール様は乱れた息を整えながら溜息を吐いた。
「猫、お好きなんですか」
私が問えば、怪訝そうに顔を顰められる。
質問を間違えただろうか、と気まずくなった。
「別に。ただ最近やけにここをほっつき回っているからな。母親も見つからず、痩せ細っていてはすぐにでも死にかねないだろう。動物の死骸を見るなんて御免だ」
「そ、そうですか」
その後。続いた沈黙に耐え切れず、私はその場を離れる事に決める。
「で、では今度こそこの辺りで」
レオナール様は何も言わず、視線すらこちらには投げなかった。
なので私は勝手にその場を離れる。
その時。
「そこ」
「え?」
声がして振り返るも、彼の視線はやはり子猫に向けられたままだ。
「足元をよく見て歩け。こちらに泥を散らされてはたまらない」
言われて足元を見れば、確かにぬかるんでいる。
今朝降った雨のせいだろう。雨の後の裏庭は足場が悪くなりやすかった。
「か、畏まりました……わっ!!」
頷いたのも束の間。
レオナール様相手に緊張をしていたのか、私は足を慎重に下ろしたにもかかわらず滑らせてしまった。
「っ、おい」
このまま転んでしまうと思ったのも束の間。
私の体はぐいと持ち上げられる。
驚いて顔を上げれば、相も変わらず顔を顰めているレオナール様の姿。
「話を聞いていたか」
「も、申し訳ありません」
「もういい」
レオナール様は長い溜息と共に私を立たせると、私の前まで回り込んだ。
そして彼は無言で手を差し伸べて来る。
「え?」
「早くしろ」
「あ、はい」
恐る恐る手を伸ばすと、しっかりと握られた。
レオナール様はそのまま私を校舎までエスコートする。
ぶっきらぼうな口調に、険しい表情。
その反面、私を導く彼の仕草は優しいもので。
(……もしかして、気遣ってくれたのかしら)
私はこの時、言外にある彼の優しさに初めて気付いたのだった。
それから私達は裏庭で顔を合わせるようになった。
私はここで昼食をとる事が日課となっていたし、そうすれば必然と近くにいるかもしれない子猫の事が気になってしまう。
一方のレオナール様も裏庭で偶然子猫を見かけてからは毎日足を運んでいるようで、そんな私たちが顔を合わせるのは至って自然な流れだった。
「中々現れませんね、お母さん」
「この調子だともう現れないかもしれないな」
「でもこのまま学園で飼い続ける事も出来ないでしょうし」
ミルクを飲む猫を見つめながら私達は言葉を交わす。
するとレオナール様が面倒だと言わんばかりの溜息を吐いた。
「使用人に押し付けるか」
「え?」
「これ以上世話を続けるのも面倒だし、我が家の使用人に押し付ければいいだろう」
「それは……レオナール様がお家で飼われると?」
「客観的に見ればそうなるだろう」
元気に食事をとる猫を見下ろすレオナール様の眼差しが真剣そのもので、私は小さく吹き出してしまう。
「心配なんですね。子猫の事が」
「は? 話を聞いていたのか」
「はい、聞いておりました」
レオナール様と顔を合わせる回数が重なるにつれて、私は彼の不器用な優しさに気付きつつあった。
鋭い視線を向けられているのに笑っている私は、彼からすればおかしな女に見えたとは思う。
それから数日後。
子猫たちはレオナール様に引き取られた。
子猫がいなくなったので、レオナール様はもう裏庭にはやって来ないだろう。
ならば私たちの交友もここまでだ……と私は思っていた。
けれど。
「アンリエット嬢」
彼はすれ違う度に私へ声を掛けるようになった。
レオナール様の言い分としては『ともに面倒を見ていた猫の近況を報告してやるのは当然』との事だったが。それだけが理由ではない事を私は悟っていた。
それからというもの。私達が裏庭以外の場所で言葉を交わす事が増え……気が付けば二人でいる事が多くなった。
「私の為ですよね」
ある日の事。
裏庭で共にお昼を食べている中で、私はそう切り出した。
レオナール様は相変わらずのかたい表情のまま私を見ている。
「私に話しかけてくださるの」
レオナール様は黙々と食事を続ける。返事はない。
なので私は勝手に話を続けることにした。
「私が学園で孤立している事に気付いて、声を掛けてくださったのでしょう」
「自意識過剰だな」
「察しがいいの言い間違いでは? でなければ、ただただ飼い猫に対して親バカを発揮している公爵子息様に成り下がってしまいますよ」
「そんな無様な男だと思いたい輩には勝手にそう思わせておけばいい」
レオナール様の性格はもう理解している。私の言葉を肯定しないのも、私が気に病むかもしれないと考えての事なのだ。
「ありがとうございます。けれど、もう慣れていますから。お気遣いは結構ですよ」
暫しの間、静寂が訪れる。
やがて……レオナール様は大きな溜息を吐いた。
「貴女は、勘違いをしている」
「本当にそうでしょうか」
レオナール様は深く関われば関わるだけ、内面が分かりやすいお方だ。
そこそこ親しい関係を築いてきたからこそ、私は自分のこの推測に相当な確信を持っていた。
だからこそ余裕ぶって笑ってみる。
すると、彼は隣から私の髪を掬い上げ、真剣な眼差しでこちらを見た。
その双眸に、思わずドキリとしてしまう。
「俺は、俺に利益がないような事はしない。俺が貴女に会いに来ている理由や、求めている利益を……貴女ははき違えている」
今度は「そうでしょうか?」と笑う事も出来なかった。
「例えばここで」
ただただ、鮮やかな赤い瞳から目が離せなくなる。
「……婚約しよう、と提案すれば――貴女はどんな顔をするのだろうな?」
カッと熱くなる顔。
今、自分がどんな顔をしているのかよくわからないけれど、それでもレオナール様に隙を見せてしまった自覚はあった。
レオナール様が喉の奥で満足そうに笑う。
「貴女の推測に則って理由付けするなら、そうだな。――貴女が子猫の様子を見に来れるように、といったものになるのだろうな」
流石にその言葉が偽りである事だけは、私にも理解が出来た。
***
それから。
私達は婚約した。
レオナールの家に足を運んでは成長した猫とじゃれ合ったり、街まで出かけてデートに興じる事も多くあった。
やがて、両家の承諾を得て、卒業と同時に私たちは結婚する事になった。
そして学園の卒業パーティー当日。
「本気ですか、レオナール様!」
私とレオナールの前に立ったのはエドモンだ。
「こんな女と結婚なさるなんて!」
私達が結婚する事を聞きつけたのだろう。
彼は何故か私たちの結婚に異を唱えるべくわざわざ接触してきたのだった。
「この女は学園でも孤立していた悪女ですよ! そのような女を、公爵家に嫁がせるなど!」
「その件について、貴殿から口を挟まれるいわれはないと思っているのだが。それと、彼女が悪女であるなどと思っていた者は学園にも殆どいない。まぁそれでも……笑い者として見下していた数多の者も許容するつもりはないが」
レオナールの視線が周囲の生徒達へ突き刺さる。
誰もが身を震わせ、口を閉ざした。
「どうやら貴殿は彼女の朗らかさや察しの良さ、気立ての良さ……挙げればきりのない魅力に、微塵も気付かなかったようだ。その様な男の元に彼女がいかなかった事に、心から安堵した。お陰で私たちの婚姻は寄り良い方向に転ぶだろう」
レオナールはそう言い捨て、エドモンを嘲笑った。
それから私の手を取り、エドモンの横をすり抜けていく。
エドモンは顔を真っ赤にして震え、傍に居たらしいオリーヴは「どうしてあんな女が公爵家に……!」と呟いていた。
そんな二人の傍を通り過ぎながら、私はエドモンの婚約者として過ごした日々を思い返す。
彼は何度も愛を囁いてくれた。
一方で、レオナールは婚約の時ですらそんな言葉は使わなかった。
けれど……二人の振る舞いにはより大きな違いがあった。
私を本当に想ってくれているのは、間違いなくレオナールだと。確信が持てる。
「……『好き』なんて言葉だけの愛は、必要なかったのね」
その呟きは、もしかしたらエドモンに聞こえてしまったのかもしれない。
彼の顔が一層赤くなり、大きく歪んだのを見ながら私はその場を去るのだった。
それからすぐに、私達は予定通りに結婚した。
そして同じ部屋で過ごす初めての夜。
「アンリエット」
レオナールが後ろから私を抱き寄せる。
頬や首筋にいくつも口づけを落とされながら、私は今にも弾けてしまいそうな心臓の事がバレないようにと取り繕った。
やがて、レオナールは私を優しくベッドへと押し倒す。
私を見下ろす顔は、普段よりも余裕がなさそうで私は小さく笑う。
「……何を笑っているんだ」
「いい。愛されているなぁ、と思って」
エドモンの様な言葉だけの愛ではない。
ここにあるのは、きっと周囲から見れば普通よりもずっと重くて深い愛だ。
「貴方は決して私に愛を囁かないけれど、それでもよくわかる。だから、愛を言葉で伝える必要なんてないのかもしれない……って、思ったのよ」
「……待て」
「え?」
レオナールが驚いたように声を発する。
それから彼は険しい顔で考え込み――
「……決して囁かない?」
「え? う、うん」
暫しの沈黙。
それから彼は深々と溜息を吐いた。
「…………もっと早く言ってくれ、それは」
「え? でも、レオナールは人より恥ずかしがり屋だし、別に必要ないと――」
「貴女が必要なくとも……っ、伝えておきたい場合だってある」
声を荒げた彼の顔が、薄暗い部屋の中でもわかる程に赤くなる。
そして彼は……何度も言葉を詰まらせ、その度に眉間に皺を寄せながら言った。
「す……っ、――好きだ、アンリエット」
必死に絞り出した言葉や表情があまりにも愛おしくて。
そして、普段自身の心を明かそうとしない相手からの愛の言葉が想像以上に嬉しくて。
私は彼以上に顔が赤くなるのを感じた。
「アンリエット」
「っ、待って……ああ、もう」
慌てて顔を隠したのに、レオナールがその手をどかしてくる。
「いらないって言ったのに……っ、こんなのずるい」
「すまない。もうとっくに伝えたつもりでいたんだ」
恥ずかしがる私の唇をレオナールが塞ぐ。
深いキスの内に私の心は絆されてしまい、私は顔を隠そうとする悪足掻きを諦める事にした。
エドモンがくれた無数の「好き」よりも、レオナールからのたった一言がこんなにも嬉しい。
彼の温もりを感じながら、私は幸せを噛み締めるのだった。
その後。
幸せな新婚生活の裏側ではオリーヴと結婚して家を継いだエドモンが、女遊びをやめられずに破産しただとか、ルクレール侯爵家が没落しただとか……
――没落に我が家の刺客が絡んでいたかもしれないだとか。
そんな話を耳にしたけれど、それももう気にする事のない話だ。
「アンリエット」
リヴァロル公爵邸の庭園を眺めていた私へ、レオナールが手を差し伸べる。
私はそれに応えて手を繋ぎ、それから――彼の唇をそっと奪う。
レオナールがたちまち赤くなるのを見て、私は無邪気に笑うのだった。
エドモンとの縁がとっくに切れた私にとって、大切な事は――
――彼と過ごす今日という日を、どんな幸せで彩ろうかということ。
ただ、それだけなのだから。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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