第1話 悪逆令嬢、逆行する
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イザベラの人生は、祝福されたものではなかった。
公爵家の令嬢である彼女は、幼いころから厳しい教育を受けてきた。
言われたことを全て完璧に出来なければ、厳しい罰を与えられた。
それは教育というよりは、虐待に近かった。
友人などいなかった。
話し相手は、ノクスレイン家に仕える使用人だけ。
その使用人も、イザベラには近寄ろうとはしなかった。
その孤独が長く続いた結果――。
「貴族に非ずんば人に非ず、ですわ!」
彼女は強い選民思想に捕らわれることとなった。
この世で存在する価値があるのは、ほんの一握りの貴族だけ。
平民など貴族のための道具でしかない。
それが正しい価値観だと思い込んでしまっていた。
その価値観は、呪いであり、救いでもあった。
そう信じることで、孤独と苦痛に意味を見出していた。
それは、自らの辛さを受け入れるための自らに対する詭弁だった。
彼女は家の使用人たちを虐げた。
些細なことで使用人を罵倒し、追い詰めていった。
そのせいで職を辞した使用人も、数多くいた。
彼女がその行為に、疑問を持つことはなかった。
(今になって思えば、馬鹿馬鹿しい考え方でしたわ)
処刑台の上で、彼女はそう考えた。
今なら分かる。
自分が失敗したのだと。
自分の考えは完全に間違っていたのだと。
(もっとも、今更の話ですわね。全ては手遅れなのですから)
イザベラは目をつぶり、ギロチンの刃が落ちてくるのを待っていた。
だが――いくら待っても何も起きなかった。
地割れのような群衆の声も、いつの間にか消えていた。
代わりに、何故か柔らかく、優しい感触に包まれていた。
イザベラはゆっくりと目を開けた。
見覚えのある天蓋。
身体を包む、暖かな布団。
着ているのも囚人服ではなく、絹の寝間着だ。
(これ、どういうことですの?)
イザベラはゆっくりと起き上がる。
窓から差し込む朝日を眩しく感じた。
それは、優しく温かい眩しさだった。
王城の地下牢とは、あまりに違い過ぎる。
「私、生きていますの?」
自分の置かれた状況が分からなかった。
大衆の前に引きずり出され、爆炎のような怒号を受けた。
跪かされた時には、ようやく死ねると安堵した。
そして、ギロチンで首を跳ねられた。
そのはずだったのだが――。
(私、死にましたわよね? ここ、実は天国だったりします?)
図々しくも、イザベラはそう考えた。
これまでの所業を考えれば、行くにしても地獄だろう。
(とにかく状況を確認する必要がありますわ)
イザベラは、手元にある日記を見た。
この日記は毎日つけていたものだ。
内容は使用人の悪口がメインのどうしようもないものだ。
歪んだ価値観が全面的に押し出された駄文がとっちらかっている。
だが、今見たいのはそこではなかった。
重要なのは毎日つけているという点だ。
つまり、それを見れば、今日が『いつ』なのかが分かるはずなのである。
「紅の月、三日目……」
それが意味するのは――過去への逆行。
王子の暗殺未遂事件が起きるよりも前の時間。
それどころか、一連の転落が始める前ということになる。
とはいっても、ほとんど猶予はない。
王子の暗殺事件は、後18日で起きてしまうのだ。
(これ、どうなっていますの? 私は、どうすればいいんですの?)
×××
イザベラの思考は、未だ靄に包まれていた。
薄暗く静かな部屋。
そこにいることに、現実感がなかった。
自然と日が差し込む窓に脚が向かった。
カーテンをそっと開けると、朝日が身体を照らしあげた
そこには、ノクスレイン家の庭があった。
色彩にあふれる花壇の鮮やかな姿。
手入れを始めている使用人の姿。
かつては、見慣れ過ぎて退屈に思えた光景。
だけど、今は違う。
それは、この世のものとは思えないほどに美しく感じられた。
この時、ようやくこれが夢ではないことを確信できた。
(これは、神の奇跡というものなのでしょうか)
そう思うと、身体が震えだした。
処刑台に立った時は、全てを諦めていた。
身体が死ぬ前に、心が死んでいた。
だから、あれほどまでに心穏やかでいられた。
だが、今は違う。状況が覆った。
何故だか分からないが、今のイザベラは事件前の時間にいる。
つまり、あの破滅を回避する可能性が残されているのだ。
そう思い至ったとたんに、恐怖が蘇った。
麻痺していた感情が、色彩を取り戻す。
様々な感情が一気に噴出し、瞳に涙が浮かんできた。
(私、生きているんですのね)
流れる涙を手で拭いながら、イザベラは美しい光景を見つめ続けていた。
そうしているうちに、大変なことに気づく。
過去に戻ったとはいえ、状況は何一つ変わっていないのだ。
破滅の運命は、依然として彼女を待ち受けている。
このままでは、同じ結末を迎えることになる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
そのとき、ふと脳裏にある記憶が浮かんだ。
(そう言えば――こういう小説、読んだことがありますわ!)
それは『悪役令嬢』と呼ばれる女性の物語。
主人公は過去に戻り、破滅の運命から逃れるために奮闘する。
そして、周囲との良好な人間関係を作り出し、仲間と一緒に困難に立ち向かう。
最終的には、破滅の運命を回避してハッピーエンドを迎えるのだ。
だったら、自分も同じことをすればいい。
そう――。
「逆行悪役令嬢に、私はなりますわ!」
イザベラは一人だけの部屋で、そう宣言した。
その考えは、彼女にしては珍しく正しいものだった。
正しくはあったのだが――それを実行するためには致命的な問題があった。
(それで、一体何をすればいいんですの?)
そういう小説を読んだことはある。
だが、それはあくまでも娯楽として読んだだけである。
自らの人生において役立てようという気は一切なかった。
だからこそ、肝心なことが分からない。
どうすれば『良好な人間関係』を作ればいいのか分からなかった。
考えたところで、さっぱり見当がつかなかったのである。
「時間が巻き戻ったからといって、何が出来るわけでもありませんわ! 全く、神様も気が利きませんわね。過去に戻してくださるのでしたら、マニュアルも一緒に用意してくださればいいのに!」
神にまで文句を言いだすイザベラ。
その図々しさは、もはや芸術の域にまで達していた。
だが――天は彼女を見放してはいなかった。
ふと視線を落とすと、ベッドの上に一冊の本が置かれていた。
イザベラは、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、微かな震えが走る。
この本が、彼女の運命を大きく変えることになる。
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それは、手のひらサイズの本だった。
屋敷にある豪華な装丁の書物とは違い、シンプルな見た目をしている。
だが、指先に触れた紙の質感は、屋敷にあるどの本よりも滑らかだった。
表紙は深緑色。
書かれた文字は、見たことのない異国の書体。
けれど――。
「読める! 読めますわ!」
イザベラは不思議とそれを読むことが出来た。
何故なのかは分からないが、彼女にはそこに書かれた内容を理解できた。
そのタイトルは――。
「『D・カーネギー、人を動かす』」
それは、ここではないどこかの世界で書かれた書物だった。
内容は、人との付き合い方、そして人に影響を与える方法について。
それらのためのいくつかの『原則』が事例と共に書かれていた。
つまり――今のイザベラにぴったりの一冊ということになる。
そのことに気づいたイザベラは、目を輝かせた。
「これぞ、私が求めていた対人マニュアル――『悪役令嬢に与ふる書』ですわ!」
彼女は歓喜に満ちた声でそう叫び、本を高く掲げた。
これさえあれば、処刑の運命など怖くない。
(神様、さっきは文句を言ってごめんなさい)
心の中でそう詫びてから、その本を読み進めた。
書かれている内容は、決して難しいものではない。
少し意識をすれば、簡単に実行できるようなことだ。
だからこそ、少し意識することが出来るかどうかが重要になってくる。
(これは、それに気づかせてくれる本なのですわ)
彼女の目は輝いていた。
これこそが、破滅の運命を回避するための道標だった。
×××
イザベラは二時間程度かけて、本を読み終えた。
本を閉じた瞬間、彼女の胸は清々しい達成感で満たされていた。
「完璧ですわ! もはや私は完璧な逆行悪役令嬢と化したと言っても過言ではありませんわ!」
過言である。
過言そのものであるのだが――。
今の彼女は、根拠のない自信であふれていた。
自己啓発本を読んだ直後にありがちな万能感に溺れてしまっていた。
(でも、念のためにもう一度読んでおくことにしますわ)
そう考え、右手を見る。
だが、そこにあったはずの本が――ない。
「あれ? どこに行ったんですの!?」
あわてて周囲を見回す。
家具の下やベッドの隙間、あらゆる場所を探した。
だが、どこにも見当たらない。
(あれがなければ、逆行悪役令嬢になれませんわ!)
再度の破滅を回避するための道標。
それが忽然と姿を消したのだ。
非常にまずい。
まずいのだが――。
「まぁ、そのうち出てきますわね」
イザベラは、あっさりと考えるのをやめた。
(後で使用人に手伝わせれば、きっと見つかりますわ。それに、考えないといけないことは、まだありますわ)
イザベラは思考を別のものに移す。
それは、今後の計画についてだ。
破滅の阻止に必要なこと――それは『味方を増やすこと』だ。
逆行前、彼女の周囲には敵ばかりがいた。
使用人も他の貴族も王族も、全員が敵だった。
渡る世間は敵ばかりだったのだ。
何をするにも、その状況を脱する必要がある。
何としてでも、良好な人間関係を作り出す必要がある。
だから――。
「まずは、使用人たちを篭絡しますわ!」
イザベラはそう決意した。
最初のターゲットは、これから部屋に入って来るはずのメイドだ。
彼女に対して気の利いた言葉の一つや二つをかけてやることにしたのだ。
(そうすれば、メイドは私に心酔することになりますわ!)
イザベラはそう確信していた。
何故ならば――逆行悪役令嬢とは、そういうものなのだから。
最初のターゲットはお付きのメイドだと相場が決まっているのだ。
そして、そのメイドはなんやかんやで主人公に好感を持つことになるのだ。
(さぁ、覚悟なさいまし、メイド!)
アホな決意を胸に、悪逆令嬢は邪悪な笑みを浮かべる。
かくして、メイドは傍迷惑な思惑に巻き込まれることになった。




