第6話 悪逆令嬢、噂される
×××
イザベラが去ってから少しして――。
マクベス家の面々は居間に集まっていた。
既に外は薄暗くなっており、部屋の中にはランプの光が灯っている。
これから、今日のことについて、話し合いを行うのだ。
口火を切ったのは、アレクセイの母親――カーチャ・マクベスだった。
疲れ切った口調で彼女は言う。
「婚約破棄、言い出せませんでしたね」
「そうだな」
カーチャの言葉に、その夫――イーゴリが応じた。
予定では、今日のうちにイザベラに対して婚約破棄を告げるはずだった。
それを切り出すタイミングは、いくらでもあるはずだった。
この家に来るたびに、イザベラは問題を起こす。
些細なことに文句を垂れ、マクベス家を引っ掻き回す。
いつもはうんざりする行動だが、今日はそれを待っていた。
その問題が起きたタイミングで、婚約破棄を告げるはずだったのだ。
だが、今日のイザベラは一味違った。
一味違うどころか、まるで別人だった。
まるで、こちらの意図を全て見透かしているかのように豹変していた。
態度は柔らかくなり、挨拶もしっかりできるようになっていた。
なによりも、アレクセイのことを大切に考えていた。
「イザベラ様の豹変は、何だったのでしょう?」
「聞いた話では、イザベラ様は使用人たちの待遇改善を行ったらしい」
「待遇改善? それを妨害したとかではなく?」
「信じられないが、真っ当に改善をしたらしい。本当に信じられないが」
イーゴリの言葉を聞き、カーチャはイザベラの言葉を思い出す。
「そう言えば、使用人の管理を任されるようになったと仰っていましたね。ですが、それでいきなり待遇改善をするとは」
「逆なのではないか?」
「逆?」
「使用人の待遇改善を行いたいから、管理権限を手に入れた、とは考えられないか?」
「何故使用人の待遇改善を?」
「分からない」
マクベス夫妻は首を傾けた。
どれだけ考えても、その結論は出そうになかった。
さて――ここで忘れてはいけないのが、今日の主役である。
すなわち、マクベス家次期当主であり、イザベラの婚約者であるアレクセイである。
彼は両親に向けて告げる。
「あの、ぼくの絵についてはどうなるのでしょう?」
その声は、静かだが熱を帯びていた。
今日、彼はイザベラから強く背中を押された。
そして、両親への説得もしてもらえた。
今なら認めてもらえるかもしれない――そう思っていた。
「それについては、黙認とします」
「黙認ですか?」
「ええ、黙認です」
カーチャははっきりと言った。
「世間に対してわざわざこちらから公表しようとはしませんが、イザベラ様の下で続けるのであれば、問題ありません。それにより何らかの問題が生じた場合は、イザベラ様に責任を持って解決をしていただきます」
「それでは――」
「ただ、そのためには貴方がイザベラ様との婚約関係を維持しておく必要があります。婚約は破棄する予定になっていましたし、アレクセイもそれに同意していました。それについてはどうしますか?」
「婚約はそのままにしてください」
アレクセイは、即答した。
その発言に、カーチャは驚くばかりだった。
昨日までイザベラのことを嫌っていたにもかからず、この変わりようだ。
脅されているのではないかとも考えたが、様子を窺うにそういう訳でもなさそうだ。
更に言えば――マクベス家は婚約破棄をする方針を固めていた。
今回のアレクセイの意見は、それに反するものだ。
内向的な彼が反対意見を言うのは、異例のことだった。
つまりは――。
(惚れたということでしょうね)
カーチャはそう判断した。
そして、一応の結論を出した。
「ならば、それで構いません。イーゴリもそれでよろしいですね?」
「ああ」
イーゴリはぶっきらぼうに答えた。
元々、公爵家令嬢との婚約は、家にとってプラスとなるものだ。
イザベラの姿勢が改善されたのであれば、維持しておくのがいいだろう。
カーチャは婚約破棄の計画を破棄――ではなく、保留とした。
今回のイザベラの行動が、今回限りのものでないとは限らない。
婚約破棄という選択肢は放棄しないほうがいいだろう。
(それにしても――おかしなこともあるものですね。まるでイザベラ様の中身が全く別人に変わったかのよう)
カーチャはそう思案した。
ある意味、それは正しい。
逆行前のイザベラと逆行後のイザベラ。
この二人の人格は、最早同一のものとはいえない。
悪逆令嬢の人格は、少しだけマシになった人格に上書きされた。
それは喜ばしいことである。
だが――。
「こうなると、別の問題が出てきますね」
「問題?」
アレクセイがカーチャの言葉に反応した。
「イザベラ様の豹変は、喜ばしいことです。ですが、彼女とアレクセイの婚約が決まったのは、彼女の悪評あってのことです。そうでなければ、子爵家の人間との婚約などあり得ません」
「あ……」
「もしかしたら、今回の豹変は、よりよい婚約者を探すためだったのではないかと思えて仕方がないのです」
そうは言ったものの、カーチャは本気ではなかった。
よりよい婚約者を探すつもりでいるなら、わざわざここまで来ないだろう。
それに、イザベラはアレクセイの趣味のことにまで踏み込んだ。
それは、マクベス家に嫁いでくる気でいるからに違いない。
イザベラ本人は、よりよい婚約者など探していないのだ。
肝心のアレクセイはそれに気づいていないらしく、焦ったそぶりを見せている。
「お母様、どうしましょう」
「イザベラ様に見捨てられないよう、勉学に励むことです。ある程度の身分差はあるものの、イザベラ様の隣に立つにふさわしい人間であると自ら証明することこそが肝要です」
「分かりました! 最大限努力します! ですから、婚約のことはお願いします」
アレクセイのはっきりとした物言いに、カーチャはくすりと笑った。
絵を描くことを禁じて以降、彼は無気力になりつつあった。
目の奥の光が、少しずつ消えていくように見えた。
それなのに、今はよりよい自分になるために張り切っている。
イザベラは、彼にいい影響を与えてくれた。
ただ――。
(考えてみれば、よりよい婚約者を探す可能性がまるでない話ではありませんね)
イザベラは、マクベス家に嫁いでくる気でいるだろう。
だが、性格が改善した彼女を他の貴族が放っておくだろうか。
あれでも一応は公爵令嬢なのだ。
それに――。
もしかしたら、彼女は今後、なにか大きなことを成し遂げるかもしれない。
そのせいで王族にでも求婚されたら、応じざるを得なくなるかもしれない。
(そんなことを危惧するのは、杞憂でしょうか)
カーチャは奮起するアレクセイを見ながら、そう考えていた。
×××
アレクセイを部屋に戻した後、カーチャはイーゴリに声をかけた。
「それにしても、イザベラ様に何があったというのでしょう?」
「分からない。あの悪逆令嬢がああまで変わるとは」
イーゴリは背もたれに寄りかかりながら、腕を組む。
「それで、君はどうなんだ?」
「私ですか?」
「イザベラ様が『義理の娘』になることについて、どう思う?」
「そうですね――」
カーチャは少しだけ目を伏せた。
これまで、イザベラのことは『家』の問題としか考えていなかった。
マクベス家の維持・発展のためには、イザベラとアレクセイの結婚は重要だ。
だから、自分自身の意思については考えないようにしてきた。
「正直、これまでは不安しかありませんでした。ただ、今回のような態度が続くようであれば歓迎したいと思います」
「そうか」
「はい。ところで、貴方はどうなのですか?」
「悪い話ではないだろう。アレクセイは随分と彼女を気に入っているようだし」
イーゴリはそれ以上言わなかった。
相変わらず、しかめっ面をしている。
その無骨な横顔を見ながら、カーチャは少しだけ笑みを浮かべた。
「実をいえば、私も彼女を気に入りました」
「君も?」
「ええ、何故だと思います?」
「……分からん」
「考えてください」
「考えても分からん」
カーチャはため息をついた。
元々、イーゴリは寡黙な人間だ。
口下手と頑固を併せ持ってしまった不器用な性格なのである。
カーチャは彼のそんなところも好きではあったが――。
時折、もう少しだけ言葉をくれてもいいのに、と思うこともある。
「イザベラ様は、この家の内装を褒めてくださいました」
「……それで?」
「それだけですが?」
「それだけなのか? 随分と簡単ではないか?」
「その簡単なことが嬉しいのですよ」
カーネギーの法則にも『褒める』というものがいくつかある。
人は褒められると嬉しくなり、褒めてくれた相手に親しみを持つようになる。
イザベラの言葉は、カーチャにとってとても嬉しいものだった。
「それに、最近は誰かさんがそういう言葉を言ってくれなくなったから、余計に嬉しくなったのかもしれませんね」
「……スマン」
「謝罪を求めているのではありません」
そう言って、カーチャは微笑みかけた。
その笑顔は、少しだけ意地悪で、何かを要求しているようだった。
すると、イーゴリは言いにくそうに「君は美しいと思う」と言った。
そして、すぐに顔を背けてしまった。
だが、よく見てみると耳が赤くなっていた。
その反応は、これまでにないほどにいじらしいものだった。
この日、カーチャは『イーゴリをからかう』という新しい趣味を手に入れた。
(イザベラ様には、感謝しなければなりませんね)
こうして――。
イザベラにも想定外の形で評価が上がっていた。




