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第3話 悪逆令嬢、噂される

     ×××


 早朝――。

 仕事が一段落ついたメイド長――マーサは、使用人休憩室にいた。


 ノクスレイン家での仕事は苦労が多い。

 その原因の一つは、この家の長女であるイザベラの気性の荒さだ。

 彼女はほんの些細なことで、使用人たちに強く当たっていた。

 そんな性格が形成された背景を、マーサはよく知っていた。


 イザベラの両親は、彼女に対して厳しく接していた。

 公爵家の令嬢としてふさわしい所作を叩き込み、失敗を許さなかった。


『貴族としての振る舞いが出来ない者には、何の価値もない』


 そう刷り込んでいたのだ。

 それは、教育というよりも虐待に近いものだった。

 親子らしい会話もほとんどなく、関係は冷え切っていた。


 そんな環境が、イザベラという少女の人格を歪ませた。

 高慢でありながら失敗を極度に恐れる。

 そんな歪んだ人格が生み出された。


 使用人たちは、誰もがイザベラを恐れ嫌っていた。

 まだ年若い少女ではあるが、彼女に泣かされた使用人も多い。

 そんな使用人たちのフォローをするのも、メイド長としての仕事だった。

 そして――今日も、その役目を果たすことになりそうだった。

 休憩室の扉を開き、憔悴しきったエミリーがやって来た。

 その瞳には涙が溜まっている。


(これは何かありましたね)


 マーサは、静かに声をかけた。


「エミリー、どうしたというのです? また、イザベラ様がおかしなことを始められたのですか?」

「名前を覚えられてしまいました!」

「名前を!?」


 その言葉に、マーサは目を見開いた。

 名前を覚える――それは、普通の人間であれば当然のことだ。

 執事長やメイド長ともなれば、主人や使用人は勿論、来客の顔と名前も記憶している。


 だが、悪逆令嬢イザベラは違った。

 彼女はその傲慢な性格から、使用人の名前を覚えようともしなかった。

 それが当然のことであり、名前を覚えることを悪とさえ考えている節があった。

 だからこそ、今回の事態は深刻なのだ。


「これは、私を処分するための準備なのでは!?」


 エミリーは涙ながらに訴えた。

 名前を覚えたのは『狙い撃ち』の前触れなのではないか。

 これまでを考えると、そうとしか考えられないのだ。


 もっとも――イザベラの真意は全くの逆だったのだが。

 その事情を知らないメイドに、それが分かるはずもない。


「落ち着きなさい、エミリー。何か失敗をしたのですか?」

「いいえ、していません」

「では、イザベラ様は、何か仰っていましたか?」

「『ありがとう、エミリー』と仰っていました」


 その言葉に、マーサは耳を疑った。


「聞き間違いでは?」

「違います! 確かに、お礼の言葉を言われたのです!」


 イザベラの謝辞は、まるで呪いの言葉のように扱われていた。

 それについてはマーサも異論はないのだが――。


「いえ、しかし、お礼の言葉であれば、喜ぶべきことなのでは?」

「気持ち悪いです!」

「きも……」


 散々な言われようだった。

 だが、本音を言えば、マーサも同じ考えを持っていた。

 立場からしてそれを口にすることは許されないが。


「気持ちが悪くとも、主人です。それに、突然気持ちが変わることもあるでしょう。余計なことは考えないように」


 そう言いながらも、マーサの胸には不穏な予感が渦巻いていた。

 ここ数日のイザベラは、確かに様子がおかしい。

 端的に言えば『奇行』が目立つようになった。

 罵倒の言葉がなくなったが、何故か自分の右手と話すようになっていた。

 昨日は使用人名簿を手に、屋敷内を練り歩いていたらしい。


「お嬢様については、私も注視しておきます。もしも貴女に対して処分などを求めるようであれば、私が説得します。場合によっては、貴女の仕事をお嬢様に接しないものに変更することも考えましょう。ですから、もう少し様子を見てみてください。よろしいですね?」

「……はい。分かりました」


 メイド長はエミリーを慰めながら、思いを巡らす。


(まさか、本当に更生しようとしているという可能性もあるのでは?)


 そう思ったりもしたが――それはないと考え直した。


     ×××


 イザベラの奇行は、更に続いた。

 翌日以降、彼女は使用人たちに積極的に話しかけるようになった。


 それだけではない。

 あろうことか、彼女はその仕事を褒め始めたのだ。


「掃除が行き届いている。ありがとう」

「食事が美味しい。ありがとう」

「庭が美しい。ありがとう」


 その言葉は、丁寧で、礼儀正しいものだった。

 だが――。


「「「不気味で仕方がありません!」」」


 メイドたちからマーサへと次々と報告が入って来た。

 内容は一様に、イザベラの態度が急変されたというもの。

 そして――それが気持ち悪いというものでもあった。


 彼女の変化は『改善』ではなく『異常』として捉えられた。

 イザベラの性格が穏やかになったにもかかわらず、業務に支障が出ている。


(これは、本格的な対応が必要ですね)


 そう考えたマーサは、執事長――ジョバンニに相談することにした。


     ×××


 執事長は、男性使用人たちのトップの立場にある。

 マーサと同様、このノクスレイン家に長年勤めている重鎮だ。


 この屋敷の空気、構造、そして人間関係。

 それらを誰よりも深く理解している。

 おそらくは、ノクスレイン家の人間よりも。


 そんな彼の執務室をマーサは訪ねていた。


「して、メイド長。要件とは何かな?」


 ジョバンニは、単眼鏡の位置を直しながら、静かに問いかけた。


「イザベラ様についてです。使用人たちは、イザベラ様の豹変に動揺しています。何らかの手を打つ必要があるのではないかと思うのですが」

「確かに、イザベラ様の変化についてはこちらも報告を受けている。だが、態度の軟化は喜ばしいことなのではないか?」

「あまりに唐突過ぎます。やはり、そうなった原因が分からないというのは不気味に感じても仕方がないでしょう」

「心を入れ替えたという可能性は?」

「切欠がありません」

「しかし、ふと目が覚めた時に、己の行動を後悔することもあるだろう」

「あら、経験がおありで?」


 ジョバンニは答えなかった。

 その沈黙は、何よりも雄弁だった。


「話がそれましたね。とにかく――重要なのは、お嬢様の変化を多くの使用人が不気味に感じているということです。その結果、よくない影響が出ています。これは対処が必要だと考えます」


 マーサの言葉を受け、ジョバンニは数秒思案する。

 そして、すぐに結論を出した。


「確かに、対処が必要な段階に来ていると判断できる。私が話を聞いてみよう」

「よろしいのですか?」

「ノクスレイン家への具申については、執事長の業務の範囲内だ。これは元々私の仕事である」

「では、よろしくお願いします」


 マーサは深く一礼した。

 面倒事を押し付けた形になるのが心苦しい。


 だが、同時に安心していた。

 ジョバンニであれば、きっとうまくやってくれる。

 彼の冷静さ、観察力、対人能力は、マーサの知る誰よりも高い。

 マーサは彼に対し、絶対の信頼を寄せていた。


「ことが片付いたら、また一緒に食事でもいかがです?」


 その言葉には、ねぎらいと感謝、そして少しの冗談が含まれていた。

 ジョバンニは単眼鏡の位置を整えながら、静かに答える。


「考えておこう」


 答えを聞いたマーサは、微かに笑みを浮かべ、執務室を後にした。

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