第7話
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深い衝撃音のあと、森は再び静び静まり返った。
しばしの沈黙。
枝葉の間から──ぬっ……と、人影がゆっくりと立ち上がった。
オルヴァンは、何事もなかったかのように漆黒のマントをふわりと翻し、首元で形を整えた。
裾が足元まできれいに収まり、満足げにひとつ頷く。
開けた場所へと歩み出ると──
「ふぅ〜……」
大の字になって寝転び、澄み渡る青空を仰ぐ。
まるで、何かが起こるのを静かに待っているかのように、動かない。
柔らかな草の感触が背に心地よく、穏やかな風がマントの裾をさらりと揺らす。
雲ひとつない空は、この旅を祝福しているかのようだった。
目を細めると、遠くで鳥の囀りが聞こえる。
一声、また一声──澄んだ音が、はっきりと耳に届く。
「……何も起きない……」
ぽつりと呟いた瞬間、何かを思い出したように上体を起こす。
草の上で胡坐をかき、鞄から一冊の蔵書を取り出すと、丁寧にページを捲りはじめた。
パラ……パラ……
指先が古びた紙の端をなぞるたび、懐かしい気配がふわりと漂う。
しばらく読み進めたあと、ふと顔を上げる。
「……あっ、そうそう」
立ち上がり、両足を揃えて深呼吸。
右手を地面へ軽くかざし、唇を静かに動かすと
地面がふわりと盛り上がった。
土と草が絡み合い、ゆっくりと形を変えていく。
やがて、座り心地の良さそうな椅子が現れた。
オルヴァンはそこに腰かけ、本を開きながら満足そうに頷く。
「地上で読む本も、なかなか……いいものですね」
風が吹き抜け、草の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
黒いマントの裾がゆるやかに揺れ、木々の間から差す光がページの上を踊る。
「これは……あれですね。読書と昼寝が拮抗する──罪深い環境ですね……」
頬杖をつき、誰もいない隣へと目を向ける。
「え? ……なんです?」
ページを捲りながら、オルヴァンはふと視線を遠くへ向ける。
山頂はもう、木々の向こうに小さく霞んでいた。
「……ええ、そうですね」
返事のない声に頷き、本を閉じる。
念のためマントの裾を軽くつまみ、腕や足を伸ばす。
しばらく耳を澄ませても、塔からの干渉を思わせる音や気配はない。
空気は軽く、風は柔らかい。
鳥の囀りと、葉擦れの音が重なるだけの、穏やかな地上だった。
「異常なし……ですね」
椅子から立ち上がり、軽く肩を回す。
足元の草が揺れ、足裏に湿り気のある土の感触が伝わる。
「……そろそろ、出しても良いでしょう」
まずシロップを、続けてヴォルテを収納から解放する。
草原にふわりと現れた二人──
シロップは優雅に石化を解き、ヴォルテは混乱したまま形状をぐにゃりと整える。
「……ん……ここは……?」
銀糸のような髪が柔らかな風に揺れ、シロップはゆっくりと目を開いた。
「……あっ……落ちて……私、どうなったんでしたっけ?」
オルヴァンは両手を合わせ、深々《ふかぶか》と頭を下げる。
「大変申し訳ありません。落下時の安全を最優先した結果、少々、順序が後手に回りました!」
ヴォルテがばらばらに手足を出しながら喋り、なぜか全裸オルヴァンの姿に変化する。
「ちょ、ちょっと! 全裸! 記憶が途中で途切れてる!」
オルヴァンは即座に補足した。
「ヴォルテさんは最後に、とても素晴らしい働きをされました。空中での形状展開、見てて楽しかった」
「え、そう?」
と呟きながら、ヴォルテはマントを着た騎士の姿へ変化。
シロップは目元に指を添え、眼鏡の角度を直しながら辺りを見渡す。
「……でも、不思議ですね。真っ白だった景色が、今はこんなに緑に……」
「ええ、良い場所です」
シロップはその言葉にそっと微笑んだ。
ヴォルテが空を見上げ、唐突に言う。
「なんか……空が腹立つくらい晴れてるな……」
シロップは小さく目を細め、額に手をかざす。
「……日差しが……」
眩しげに空を仰ぐその横顔を見たオルヴァンは、何も言わず、自身の漆黒のマントを外してシロップにそっとかけた。
ふわりと肩を包み、フードを優しく引き寄せる。
──その瞬間、黒だったマントが柔らかな光を宿した白へと変化する。
シロップは驚き、指先でマントの端をつまむ。
「……不思議ですね。温かくて、眩しくない……」
それを見ていたヴォルテが片眉を上げる。
「フード、カッコいい……」
次の瞬間、彼の姿はマント&フード姿のオルヴァンに変わり、風を受けて裾をなびかせながらドヤ顔でポーズを決めた。
オルヴァンは少し目を細め、その姿を眺める。
「……仕方ねぇなぁ〜」
ぶつぶつ言いながら、自らの右腕をガシッと捥ぎ取る。
「ほれよっ」
投げられた右腕は空中でくるんと回転し──ふわりと黒いマントへと変化して、オルヴァンの頭上へ舞い降りた。
「おおっ……ありがとうございます」
自然にそれを纏い、ブワァッとマントを靡かせて満足げに微笑む。
ヴォルテは既にマントを赤に染め直し、腰に手を当てる。
「色は何がいい? 黒? んじゃ俺は赤!」
「はい、黒のままで結構です」
「なら俺は赤でキメるぜー!」
「ちなみに……今のは?」
「ん? あぁ、2番だな。前は10分割とか余裕だったけど、最近は5〜6分割が限界でさ〜……」
オルヴァンはすぐに書を取り出し、パラパラとページをめくる。
「ふむ……今のヴォルテさん、記述にある性能よりやや弱っておられるようですね。経年劣化か、もしくは──」
「えっ、オレ弱ってんの? マジで!?」
「“フィーロ”という物質を吸収すれば、無限に成長するとありますが……現在の状態を見るに、フィーロの消耗または飛散の可能性が」
「おいおいおい……それ、もしかして……」
目を泳がせるヴォルテ。
そのとき、オルヴァンの背で風に揺れていたマントが、小声で喋り出した。
「……ゼロは以前、自分で千切って窓からぶん投げてました……」
「ゼロ……」
オルヴァンが静かに呟く。
「にばぁーん!!」
ヴォルテがブンッとマントを睨みつけた。
シロップが眼鏡を押し上げ、首をかしげる。
「ゼロ……というのが、あなたのお名前なのですね?」
「名なんて興味ねーし! ヴォルテでいいから! な! 名前とかどうでもいい系だから!」
ほんの少しだけ、声が裏返っていた。
「ま、2番は任せた」
ヴォルテが手をひらひら振ると、マントが控えめに喋った。
「……はい、問題ありません……」
その声を聞いたオルヴァンは、軽く一礼する。
「ありがたくお借りします」
──が、次の瞬間、2番が低く遠慮がちに口を開いた。
「……あの……マントの下に何も着ないのは、いかがなものかと……」
オルヴァンは瞬きを一度。ヴォルテとシロップは同時に肩をすくめた。
「いや、もう見慣れたから大丈夫だな」
「ええ、特に支障はありません」
しかし、2番は食い下がる。
「……いえ……せめて……ズボンくらいは……」
微妙に哀願するような声音に、オルヴァンは少しだけ考え、静かに頷いた。
「……なるほど。ご提案、受け入れましょう」
次の瞬間、黒い布が現れ
オルヴァンは腰紐を整え、改めて立ち上がった。
「これで問題ありませんね、2番さん」
「……はい、これで心置きなく……お守りできます……」
ヴォルテが口元をにやりと歪め、シロップは眼鏡の奥でそっと笑みを深めた。




