第4話
かすかな空気の揺らぎとともに、彼の輪郭が溶けるように背景に溶け込み――次の瞬間、姿が完全に消えた。
シロップはわずかに眉をひそめ、静かに辺りを見渡す。
「……消えましたね」
ゆっくりと、彼女の周囲を回る気配。
だが、その軌跡に――ほんのわずかな埃がふわりと舞った。
その瞬間。
スゥッ――……
舞った埃の方向に視線を向けたシロップの瞳が、淡く光を帯びる。
瞬きひとつの間に、マント全体が灰色に染まり、石の塊となって動きを止めた。
「……ほぅ」
声だけが、その場で静かに響く。オルヴァン自身は石化していない。
だが身体はマントごと固められ、首だけがわずかに動く。
「……この創造主、どうにも詰めが甘いですね」
かすかな苦笑を滲ませるオルヴァン。
シロップは近づき、固まったマントの縁に手をかざした。
淡い光が走り、石化が解かれる。
「……舞う埃まで隠せるようにしておけば、完璧だったのに」
「まったくですね。…」
マントの質感が元に戻り、オルヴァンは肩を軽く回して動きを確かめた。
シロップはじっと見つめていたが、やがてふっと微笑む。
「……似合ってます」
「……ありがとうございます」
少し照れたように笑いながら、オルヴァンは無意識に背筋を正し、ふわりとマントを整える。
「……正直、裸よりはずっと良いですね」
ふたりは小さく笑い合う。
静かな呟きと共に、またしても扉が──
ゴゴォ……と、音を立てて開いていく。
下階への視界が、ゆっくりと開ける。
オルヴァンは床の縁にしゃがみ込み、手を掲げて光球をふわりと前方へ送り出した。
柔らかな光が降りていき、階下の部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
そこには──微妙に不揃いな床、そして壁一面を這う奇妙な文様。
淡く脈打つように光り、見る者の視線を引き込む、不穏な模様だった。
「……やはり、この下は“罠の間”です」
立ち上がりながら、本の記述を思い返すように呟く。
「私ひとりなら試す価値もありますが……」
そう言って、オルヴァンはシロップの方へ視線を移す。
「怪我はもちろんですが……衣服の破損も困ります。私もこのマント、気に入っておりますので」
その一言に、シロップは無言でアーチ窓へ歩み寄り、身を屈めて外を覗き込む。
「それなら……階段を作って降りましょう」
指先をすっと横に滑らせる。
──何も起こらない。
一拍の沈黙。
シロップは少し眉を寄せ、真剣な面持ちでもう一度滑らせた。
「……作れませんね」
オルヴァンも隣に立ち、眼下を見下ろす。
断崖と、その向こうにぽつんと並ぶアーチ窓。
「外壁も……階層によっては仕掛けが施されているようです」
そう呟き、再び開いた扉の縁へと戻ると、しばし階下を見下ろす。
ゴゴォ……
扉が、重く沈むように閉じていった。
「……というわけで、窓から降りましょう」
「……窓から?」
くるりと踵を返すと、オルヴァンは背を向け──片膝をすっとついた。
「……私の背に、お乗りください」
静かでありながら、確かな声音。
シロップは一瞬まばたきをして戸惑ったが、やがてそっと手を伸ばし、ためらいなく背に身を預ける。
その所作は、不思議と自然だった。まるで、ずっと以前からそうしてきたかのように。
ゆっくりと立ち上がる。衣擦れの音。
背の重みを確かめるように小さく足を踏みしめ──アーチ窓の縁へと進む。
夜風が冷たく吹き抜け、二人のマントとローブを軽やかに揺らす。
月光が斜めに差し込み、窓辺の二人を静かに照らしていた。
窓の下枠を両手で掴み、足裏を壁にぴたりと添わせる。
高所の冷気、耳を打つ沈黙──その一瞬は、神話めいた光景でありながら、妙に現実味を帯びていた。
「……行きますよ」
「……はいっ」
シロップは目を閉じ、背にしっかりとしがみつく。
パッと手を放す音。
ザザッと壁を滑る足音。風を切るマントの音。
瞬間──下階のアーチ窓を両手で掴み、片足で体勢を保つ。
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「では、続けます」
そのまま、また一段。さらに次の階へ。
二人は塔の外壁を静かに、しかし着実に降りていった。
途中、いくつかの部屋を覗く。
空室もあれば、装飾だけの部屋もある。
明らかに罠が仕掛けられている空間もあった。
そして──
「……この部屋に、入ります」
ある階層の窓を掴み、オルヴァンは慎重に足場を確保し、ふわりと室内へ滑り込む。
着地音すらわずかに響くだけの静けさ。
背から降りたシロップが、軽く息をついた。
「ふぅ……」
二人の視線が、同時に部屋の奥へと向いた。
そこには、またしても祭壇のような構造があった。
重厚な石の台座。その中央──
何かが、置かれていた。
「……また、何か置かれてますね」
そう呟いたオルヴァンは、すぐには手を出さなかった。
慎重に足元の構造を確認しつつ、祭壇には近寄らずに、奥の床に設けられた石の扉へと向かう。
手をかざすと──
ゴゴォ……
低くうねるような音とともに、扉がゆっくりと開かれていく。
手を軽く振ると、光源がふわりと浮き、下階の闇へと滑り込んでいく。
床を照らし、部屋の輪郭を柔らかく浮かび上がらせる。
二人は光に誘われるように、そっと身を屈めて下を覗き込んだ。
一通り見下ろしたオルヴァンは、光源を呼び戻し、ふたたび視線を中央の祭壇へ。
中に収められていたのは──半透明の液状金属が静止した、奇妙な楕円の輪。
まるでフレームの形をした水銀が、時を止められたかのように宙に漂っている。
オルヴァンはそっとそれを手に取り、丁寧に折られた紙片を広げた。
「視よ、覆いの下に潜む歯車を。
影を裂き、虚を透かし、道を映すは黄金の瞳なり。
されど見すぎるな、深く覗く者は、深淵にも覗かれよう。」
読み終えると、彼は背中の鞄から例の分厚い本を取り出し、ページを繰る。
指先である図面をなぞりながら、淡々と口を開いた。
「……これは“局所位相断層投影”機能を持つ透視眼鏡のようです。
微細な波長変調と層干渉を利用し、物質の位相差を解析──内部構造を視覚化します。
壁の中の空洞、床下の罠、表面に覆われた刻印……通常視覚では認識できない情報を、直接映し出すことが可能になります」
シロップは、ぽかんと口を開けたまま瞬きをした。
「……はい?」
オルヴァンは軽く咳払いし、輪状の液体をシロップの目元へそっと近づける。
すると金属はゆっくりと形を変え、彼女の顔立ちにぴたりと沿う眼鏡となった。
「こうやって……装着すれば、自動的にフィットします。
起動は、こめかみの内側に軽く指先を当てて──こう、二度タップする」
彼は同じ動作を示し、眼鏡のレンズが淡く金色の紋様を灯すのを見せた。
「……この状態で、視線を向けた部分の構造が投影されます。
ただし──」
そこで、彼はほんのわずか声を低くした。
「普段は起動しないでください。覗きすぎると……余計なものまで見えるかもしれませんから」
シロップは思わず眼鏡のふちを指でなぞり、小さくうなずいた。
「……わかりました」
「……お似合いです」
「ありがとうございます」
小さく会釈を交わすふたり。
空間は、再び静かな沈黙に包まれる。
しばしの沈黙ののち、オルヴァンは再び下階を見下ろした。
源光がぼんやりと照らす部屋には、罠の兆候こそ見えない。
だが、肌を刺すような“構え”の気配が、確かに漂っている。
(……これは待ち構えてますね。間違いなく)
「そのままお待ちください。下の様子を確認して参ります」
軽やかに階段を降りるオルヴァン。
先導する源光が静かに前方を照らし、その輪郭が床に近づいていく。
やがて彼の足が床を踏んだ、その瞬間──




