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フィーロ  作者: NaGold
3/30

第3話

 吹き抜ける風。

 眼下には、果てなく続く雲海。


 遠くの空では、太陽が沈みかけていた。

 橙と群青が溶け合い、やがて星の光が滲み出す。


 シロップは、口をわずかに開けたまま、その空を見上げていた。

「……こんなに広いなんて……」


「はい……とても、広いですね」

 騎士もまた、少し後ろから同じ空を仰ぐ。


 しばらく、ふたりとも言葉を忘れていた。

 ──誰も来なかった塔。

 ──誰にも会わなかった時間。


 静けさの中、風になびくシロップの白いローブが背後へふわりと舞い、

 月明かりに神聖な輪郭を浮かび上がらせる。

 その立ち姿は、まるで神話の女神のようだった。


 ふと、シロップが後ろを振り返る。

 全裸のまま佇む騎士を見て、小さく首を傾げた。


「……ずっと思ってたんですけど……なぜ、その……服を着ていないんですか?」


 騎士は一瞬きょとんとしたあと、真面目な声で答える。

「部屋にあったものは、すべて大切に保管しているからでございます」

「……全部、鞄の中に?」

「はい。鎧も外套も、本も、家具も……一片たりとも失わぬように」

 胸を張って言い切るその姿は、裸であることを微塵も恥じていない。


 シロップは一瞬口元を引き結び、何か言いかけてやめた。

 ただ、少しだけ笑ってまた空へと顔を戻す。


 騎士も彼女の横に並び、書を開く。

 星明かりを頼りに、ページを静かにめくる。


 シロップがぽつりと呟く。

「……あの光、触れそうで届かないですね。不思議です。近いようで……遠ざかっていくような……」


 騎士は頷き、語り始める。

「……あれは“星”といって、燃えているのです。非常に遠くにあって、自ら光を放つ星と、光を反射する星とがある……と、本にありました。少しずつ動いていて、まるで空の地図のように」


 そのときだった――


 グゥ~~……


 思いのほか大きなお腹の音が、静かな部屋に響く。

 シロップは無言でお腹に手を添え、そのまま動きを止めた。


 次の瞬間、彼女の肌に石の色が広がっていく。

 足先から肩、そして顔へ――ほんの一呼吸の間に、完全な彫像へと変わっていた。


 騎士は一歩近づき、眉をひそめる。

 しかし、慌てることなく腰の鞄から書物を取り出し、ページを繰りはじめた。


「……ええと……石化耐性……石化解除……ああ、ここか」

 指先で行をなぞりながら、ちらとシロップに視線を送る。


 やがて、彫像となったエリの表面に細かなひびが走る。

 乾いた音とともに石の殻が剥がれ、肩から腕、頬へと温かな色が戻っていく。

 まるで繭から抜け出す蝶のように、ゆっくりと。


「……ふぅ」

 瞳を開き、軽く息を吐いた。


「驚かせてしまいました。あまり長く石化を解いたままでいると、お腹が空いてしまって……喉も乾いてしまうのです。

 一度石に戻れば、空腹も渇きも感じなくなります」


「なるほど……そういう回復方法もあるのですね。私の力と、少し似ています」

 騎士は本を閉じ、静かにうなずいた。

 


 目を細め、ふっと微笑む。

「でも……食べてみたいですね」


「……地上には、美味しいものがたくさんあると記されておりました」

 騎士は少し目を細め、記憶を手繰るように言葉を選ぶ。


「“海で採れる『イスキラス』という魚を骨まで丁寧に抜き、香草『ラフベル』と共に蒸す。仕上げに塩と胡椒……お好みで葡萄酒をひと振り。

 そのままでも、パンに乗せても絶品”――そう、書かれていました」


 シロップは胸に手を添え、想像するように目を閉じる。

 その頬に、小さな笑みが灯った。


 ふと、騎士は鞄から一冊の本を取り出し、彼女の前に差し出す。

「……もしよければ、開いてみてください」


 シロップは不思議そうに受け取り、指をかける――が。

「……あれ?」

 ページはぴくりとも動かず、まるで一枚の石板のように固まっている。

 試しにもう一度力を込めるが、やはり開かない。


「やはり……開けないようですね」

 騎士は静かに微笑み、本を受け取り鞄へ戻す。


 ――沈黙。


 騎士はゆっくりと呼吸を整えると、静かに言葉を紡ぐ。

「……護るべき宝は、すべて私の中に」


 少し間を置き、空を見上げる。

「本に記されていた地上の景色を……知識としてではなく、自分の目で確かめたいのです」


 シロップはふと横顔を見やり、口を開いた。

「……そういえば、あなたのお名前を伺っていませんでしたね」


 騎士はわずかに目を瞬かせ、ほんの短い沈黙を置く。

「……実のところ、今まで読んだどの本にも“私”についての記載はありませんでした。名は……知りません」

 そう言って、軽く肩をすくめる。


 しばし考え、鞄から一冊の本を取り出す。

 ページをゆっくりめくりながら、ある一節で指を止める。


「……この言葉が、なぜか心に残っておりまして──“オルヴァン”と、いたしましょう」


「……良い響きですね」

 そして、空を見上げる彼をまっすぐに見つめ、静かに告げる。

「……護るべき宝……私も、お供いたします」


 短く風が吹き抜け、彼女の白いローブがふわりと揺れる。

「……オルヴァン」

 その名を、確かめるようにもう一度呼んだ。

 

  

 階段を、ふたりはゆっくりと降りていく。

 オルヴァンは、かつて騎士として長く立ち続けていた、あの広い空間へと戻ってきた。


 その手には、以前天井に浮かんでいた不思議な光源があった。

 それをそっと放つと、光はふわりと浮かび上がり、頭上を静かに、優しく追従しはじめる。

 ふたりの進行を照らすように、ゆるやかな軌道を描いて。


 やがて階段を降りきり、かつて石像として佇んでいた空間へとたどり着く。



 静まり返った部屋の中央に、ぽつんと佇む重厚な石の扉。


 本でその存在を知ってはいた──しかし、記された通りとは限らない。

 オルヴァンは呼吸を整え、慎重な足取りで近づいた。


 扉の前に立ち、ゆっくりと手をかざす。

 わずかに動いた唇から、空気を揺らすような呟きが漏れる。


 ゴゴゴォ……

 低く唸るような音と共に、床の扉がゆっくりと開いていく。


 後方で控えるシロップは、小さく息を呑み、暗がりを覗き込む。


「……この部屋は……」


 開かれた先に広がっていたのは、沈黙と闇。

 オルヴァンは光源をひとつ前へと送り出す。

 ふわりと浮かんだそれが闇を照らし、奥に浮かび上がったのは──祭壇のような構造物だった。


 慎重に、一段ずつ階段を降りる。

 背後からは、ローブの擦れる音とシロップの静かな足音。


 祭壇の前に立つと、オルヴァンはしばし周囲を観察し、何も起きないことを確かめてから、慎重にその箱の蓋へ手をかけた。


 中に収められていたのは──漆黒のマントと、丁寧に折られた紙片。


 オルヴァンは紙片を慎重に広げた。


「かの階に座すは、視ることを悦びとする神格なり。

 されば己が影と息を覆い隠すべし。

 かの装いを身に纏う時、陽は汝を映さず、月は汝を照らさず、風も汝を告げず。」


 しばし紙片の文を見つめたのち、彼はそっと本を開く。

 指先で図をなぞりながら、淡々と口を開いた。


「……これは、局所的な“位相ずらし”機能を持つ防護マントですね」

「表面には量子干渉を制御する層が織り込まれており、着用者の存在そのものを、周囲の時空相位から半波長ほどずらします。いわば、そこに居ながら“存在しない”状態を作るわけです」


 シロップは口を半開きにして、マントとオルヴァンを交互に見た。

「……つまり、見えない、…」


「そうですね」

 オルヴァンは小さく笑みを浮かべ、漆黒のマントをそっと持ち上げた。

 肩に掛け、深くフードを引き出す。本に目を走らせながら、淡々と呟く。


「……起動」

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