第3話
吹き抜ける風。
眼下には、果てなく続く雲海。
遠くの空では、太陽が沈みかけていた。
橙と群青が溶け合い、やがて星の光が滲み出す。
シロップは、口をわずかに開けたまま、その空を見上げていた。
「……こんなに広いなんて……」
「はい……とても、広いですね」
騎士もまた、少し後ろから同じ空を仰ぐ。
しばらく、ふたりとも言葉を忘れていた。
──誰も来なかった塔。
──誰にも会わなかった時間。
静けさの中、風になびくシロップの白いローブが背後へふわりと舞い、
月明かりに神聖な輪郭を浮かび上がらせる。
その立ち姿は、まるで神話の女神のようだった。
ふと、シロップが後ろを振り返る。
全裸のまま佇む騎士を見て、小さく首を傾げた。
「……ずっと思ってたんですけど……なぜ、その……服を着ていないんですか?」
騎士は一瞬きょとんとしたあと、真面目な声で答える。
「部屋にあったものは、すべて大切に保管しているからでございます」
「……全部、鞄の中に?」
「はい。鎧も外套も、本も、家具も……一片たりとも失わぬように」
胸を張って言い切るその姿は、裸であることを微塵も恥じていない。
シロップは一瞬口元を引き結び、何か言いかけてやめた。
ただ、少しだけ笑ってまた空へと顔を戻す。
騎士も彼女の横に並び、書を開く。
星明かりを頼りに、ページを静かにめくる。
シロップがぽつりと呟く。
「……あの光、触れそうで届かないですね。不思議です。近いようで……遠ざかっていくような……」
騎士は頷き、語り始める。
「……あれは“星”といって、燃えているのです。非常に遠くにあって、自ら光を放つ星と、光を反射する星とがある……と、本にありました。少しずつ動いていて、まるで空の地図のように」
そのときだった――
グゥ~~……
思いのほか大きなお腹の音が、静かな部屋に響く。
シロップは無言でお腹に手を添え、そのまま動きを止めた。
次の瞬間、彼女の肌に石の色が広がっていく。
足先から肩、そして顔へ――ほんの一呼吸の間に、完全な彫像へと変わっていた。
騎士は一歩近づき、眉をひそめる。
しかし、慌てることなく腰の鞄から書物を取り出し、ページを繰りはじめた。
「……ええと……石化耐性……石化解除……ああ、ここか」
指先で行をなぞりながら、ちらとシロップに視線を送る。
やがて、彫像となったエリの表面に細かなひびが走る。
乾いた音とともに石の殻が剥がれ、肩から腕、頬へと温かな色が戻っていく。
まるで繭から抜け出す蝶のように、ゆっくりと。
「……ふぅ」
瞳を開き、軽く息を吐いた。
「驚かせてしまいました。あまり長く石化を解いたままでいると、お腹が空いてしまって……喉も乾いてしまうのです。
一度石に戻れば、空腹も渇きも感じなくなります」
「なるほど……そういう回復方法もあるのですね。私の力と、少し似ています」
騎士は本を閉じ、静かにうなずいた。
目を細め、ふっと微笑む。
「でも……食べてみたいですね」
「……地上には、美味しいものがたくさんあると記されておりました」
騎士は少し目を細め、記憶を手繰るように言葉を選ぶ。
「“海で採れる『イスキラス』という魚を骨まで丁寧に抜き、香草『ラフベル』と共に蒸す。仕上げに塩と胡椒……お好みで葡萄酒をひと振り。
そのままでも、パンに乗せても絶品”――そう、書かれていました」
シロップは胸に手を添え、想像するように目を閉じる。
その頬に、小さな笑みが灯った。
ふと、騎士は鞄から一冊の本を取り出し、彼女の前に差し出す。
「……もしよければ、開いてみてください」
シロップは不思議そうに受け取り、指をかける――が。
「……あれ?」
ページはぴくりとも動かず、まるで一枚の石板のように固まっている。
試しにもう一度力を込めるが、やはり開かない。
「やはり……開けないようですね」
騎士は静かに微笑み、本を受け取り鞄へ戻す。
――沈黙。
騎士はゆっくりと呼吸を整えると、静かに言葉を紡ぐ。
「……護るべき宝は、すべて私の中に」
少し間を置き、空を見上げる。
「本に記されていた地上の景色を……知識としてではなく、自分の目で確かめたいのです」
シロップはふと横顔を見やり、口を開いた。
「……そういえば、あなたのお名前を伺っていませんでしたね」
騎士はわずかに目を瞬かせ、ほんの短い沈黙を置く。
「……実のところ、今まで読んだどの本にも“私”についての記載はありませんでした。名は……知りません」
そう言って、軽く肩をすくめる。
しばし考え、鞄から一冊の本を取り出す。
ページをゆっくりめくりながら、ある一節で指を止める。
「……この言葉が、なぜか心に残っておりまして──“オルヴァン”と、いたしましょう」
「……良い響きですね」
そして、空を見上げる彼をまっすぐに見つめ、静かに告げる。
「……護るべき宝……私も、お供いたします」
短く風が吹き抜け、彼女の白いローブがふわりと揺れる。
「……オルヴァン」
その名を、確かめるようにもう一度呼んだ。
階段を、ふたりはゆっくりと降りていく。
オルヴァンは、かつて騎士として長く立ち続けていた、あの広い空間へと戻ってきた。
その手には、以前天井に浮かんでいた不思議な光源があった。
それをそっと放つと、光はふわりと浮かび上がり、頭上を静かに、優しく追従しはじめる。
ふたりの進行を照らすように、ゆるやかな軌道を描いて。
やがて階段を降りきり、かつて石像として佇んでいた空間へとたどり着く。
静まり返った部屋の中央に、ぽつんと佇む重厚な石の扉。
本でその存在を知ってはいた──しかし、記された通りとは限らない。
オルヴァンは呼吸を整え、慎重な足取りで近づいた。
扉の前に立ち、ゆっくりと手をかざす。
わずかに動いた唇から、空気を揺らすような呟きが漏れる。
ゴゴゴォ……
低く唸るような音と共に、床の扉がゆっくりと開いていく。
後方で控えるシロップは、小さく息を呑み、暗がりを覗き込む。
「……この部屋は……」
開かれた先に広がっていたのは、沈黙と闇。
オルヴァンは光源をひとつ前へと送り出す。
ふわりと浮かんだそれが闇を照らし、奥に浮かび上がったのは──祭壇のような構造物だった。
慎重に、一段ずつ階段を降りる。
背後からは、ローブの擦れる音とシロップの静かな足音。
祭壇の前に立つと、オルヴァンはしばし周囲を観察し、何も起きないことを確かめてから、慎重にその箱の蓋へ手をかけた。
中に収められていたのは──漆黒のマントと、丁寧に折られた紙片。
オルヴァンは紙片を慎重に広げた。
「かの階に座すは、視ることを悦びとする神格なり。
されば己が影と息を覆い隠すべし。
かの装いを身に纏う時、陽は汝を映さず、月は汝を照らさず、風も汝を告げず。」
しばし紙片の文を見つめたのち、彼はそっと本を開く。
指先で図をなぞりながら、淡々と口を開いた。
「……これは、局所的な“位相ずらし”機能を持つ防護マントですね」
「表面には量子干渉を制御する層が織り込まれており、着用者の存在そのものを、周囲の時空相位から半波長ほどずらします。いわば、そこに居ながら“存在しない”状態を作るわけです」
シロップは口を半開きにして、マントとオルヴァンを交互に見た。
「……つまり、見えない、…」
「そうですね」
オルヴァンは小さく笑みを浮かべ、漆黒のマントをそっと持ち上げた。
肩に掛け、深くフードを引き出す。本に目を走らせながら、淡々と呟く。
「……起動」