第20話
ムファールは歩きながら、自分の掌をじっと見つめていた。
「………」
次の瞬間、サッと手を水平に切り払う。
「半円陣形!」
声に張りを持たせ、もう一度、今度は胸の高さで同じ動作を繰り返す。
「半円陣形!」
ふっと息を吐き、拳を握り込む。
(……おれ、かっこよかった……)
思わず口元が緩み、ついでとばかりに小声で叫ぶ。
「前進!」
そんな自己演習を繰り返しながら歩いているうちに、食堂へと到着した。
堂々と扉を開け、(開け!)悠々と店内に入る。
中では、すでにカウンター側に即席のお立ち台が用意され、ムルハンが身振り手振りを交えて武勇伝を披露していた。
「で! 俺が投げたのよ! ズバッと! 分かる? こう! こんな感じに!」
手を振り回しながら必死に語るその姿に、周囲の獣人は笑いながら耳を傾けている。
店の奥にトリットの姿を見つけると、ムファールは歩み寄り、きちんと一礼して正面に腰を下ろした。
「ムルハンの話は色付きじゃからの……ムファール、聞かせてくれ」
トリットは笑みを浮かべ、静かに促した。
――
「そして! おれがズバッと飛びかかって、ズバッと突き刺したら――あの超獣が、おれを見てニヤッと笑ったんだ! その直後、ドカーンと倒れた!」
身振り手振りを交えて熱弁するムルハン。声量も大きく、派手な効果音までつけるものだから、食堂は大いに沸き返る。歓声と笑いが入り交じり、拍手まで飛んでくる。だが、その場の誰一人として真に信じている者はいなかった。
「ん〜……」
カウンター奥の席で腕を組んでいたトリットが低く唸る。周囲の喧騒に惑わされず、静かな視線をムファールに向ける。
「お前たちの活躍も半信半疑だが……回復魔法まで使えるとは。まさかムルハンの大げさな語り癖に影響されて、お前まで話を盛っているのではあるまいな?」
ムファールは咳払いをひとつ。真剣な面持ちで口を開こうとするが、周囲のざわめきにかき消される。小さく唇を結び、拳をぎゅっと握りしめてから――視線をまっすぐトリットへと向けた。
「本当なんです! むしろ信じてもらうために、あえて抑えて話してるくらいなんです!」
興奮に突き動かされるように立ち上がるムファール。その目には必死の色が宿っていた。
「これほどの人材の噂を、今まで一度も耳にしたことがない……。もしや北の教国か、それとも別大陸からの者か……」
トリットは腕を組み、遠い目をしたまま低く呟いた。その思考は深く潜り込み、やがて堂々巡りを始める。
「いや、違う……そうなると、ああ、いや待て……しかし……」
独り言が止まらない。やがて頭を抱え、眉間に皺を寄せたまま長く沈黙する。
ムファールが不安げに見守る中、トリットは突然――ふっと肩の力を抜き、口角を上げた。
「……ああ、もうよい!」
ガタンと立ち上がり、食堂のざわめきを一瞬かき消すほどの声を放つ。
「考えるだけ無駄じゃ! わしの想像で収まるような相手ではない。好きにさせておけばよいのだ!」
ムファールは固まったまま、ただ目を瞬かせる。
「そうじゃ! 仲良くしておる――それだけで十分じゃ!」
パンッと手を打ち鳴らすと、食堂のざわめきが一瞬止まり、皆の視線がトリットへと集まった。
彼は大きく笑い、両手を広げる。
「ムファール! リマを呼んでこい! 今日は全てわしの奢りじゃ! 今日は飲むぞ!」
歓声が一気に爆発し、食堂は祭りのような熱気に包まれた。
椅子を叩く音、杯を掲げる声、笑い声が次々と重なっていく。
その喧噪の中、カウンターで静かに酒を舐めていたヴォルテが振り返る。
目を細め、どこか羨ましそうに呟いた。
「奢って盛り上げる……それ、俺がやりたかったことだ……」
◇
深夜。
太い木の枝に腰を下ろし、オルヴァンとリーシェントが並んでいた。
「ここに――リーシェントが、今の共通語を作り、広めたと記されています」
オルヴァンは手にした本を開き、隣のリーシェントは子どものように足をぶらぶら揺らしながら、その頁を覗き込む。
「その字って……勉強したら読めるようになりますか?」
「もちろん。勉強すれば読めるようになりますよ。ただし……」
オルヴァンは本をパタンと閉じ、そしてまたゆっくり開いてみせる。
「あれ?……思ったよりも難しそう。たくさん勉強しないとですね」
リーシェントが眉を寄せ、足をブンブン振る。
「ええ」
オルヴァンは小さく笑みを浮かべた。
「……また、世界と繋がって話すことができるのですか?」
リーシェントはオルヴァンの横顔に問いかける。
「どうでしょうね。各地の塔を踏破すれば、繋がりが広がる――そう伝えられているようですが」
そう言いながら、オルヴァンは掌に光球を浮かべる。その光から細い糸のような輝きを引き出し、リーシェントへと繋げた。
パッと蔵書のひとつを取り出すと、ページをめくりながら指で座標を追う。
リーシェントは本を覗き込みながら、嬉しそうに足をばたつかせた。
「ええと……あなたの最大距離がここなので……ドルレックの座標は……」
「ドルレックは、ガルダフォルンの南。私は届きませんよ?」
オルヴァンは光球を見つめながら問いかける。
「今、ドルレックと繋がってますか?」
「すごぉい! ドルレックのリーシェントと、初めましてできました!」
リーシェントは木の枝の上で立ち上がり、無邪気にオルヴァンの頭をポンポン叩く。
「あ……でも、湾岸都市のリーシェントとは切れちゃいました……」
「なるほど。皆さんが困るといけませんから――戻しておきましょう」
オルヴァンは淡々と告げ、光球を静かに消した。
リーシェントは「ぴょんっ」と軽やかに枝から飛び降り、オルヴァンを見上げた。
「でも! やっぱり凄いですよ、オルヴァンさん」
オルヴァンも静かに地面へ降り立つ。
「――そろそろ、仕事がありますので」
「はい。いってらっしゃい」
リーシェントはぱたぱたと手を振り、その背を見送る。
ふと思い出したように声をかけた。
「あ、本日……ガルダフォルンから、オルヴァンさんに会いに来る人がいますよ」
「はい、ありがとうございます」
オルヴァンは振り返り、片手で親指を立ててみせる。
それを見たリーシェントも、少し照れながら真似をする。
ぎこちなく立てられた親指は、どこか温かみを帯びていた。
オルヴァンはパイクと二言三言言葉を交わしたあと、食堂の裏手へと足を向けた。
「おはようございます、オルヴァンさん!」
真っ赤なバンダナを巻いたルロマルが、明るい声で呼びかける。
オルヴァンは小さく敬礼を返した。
「おはようございます、ルロマルさん」
裏口の扉を押し開け、熱気と香ばしい匂いの漂う厨房へ入る。手早く手を洗い、並べられた丸いパン生地に指先を伸ばす。慣れた調子でひとつひとつ形を整えていくと、生地が軽く息をしているかのように整然と並んでいった。
成形を終えたトレイを持ち上げ、窓越しに差し出す。
「先日試したパンは、どうでした?」
受け取ったシロップは窯の炎と焼き色に視線を注いだまま答える。
「ありがとうございます、まだまだ硬いですね」
オルヴァンは小瓶を取り出し、軽く覗いてから差し出した。
「今日もリーシェントから頂きました。次回は、この菌を試してみてください」
シロップは小瓶を胸元に当て、ほんのり笑みを浮かべた。
「……楽しみです」
厨房の奥では、鉄鍋がぐつぐつと泡を立てている。木杓子が鍋底を擦る音、食器を並べる音が重なり、活気ある朝の空気が広がっていた。
「オルヴァンさ〜ん、スープの味みて!」
声をかけてきたのは、最近少し痩せてきたナリカーナだ。汗を拭きながら、大鍋の前に立っている。
オルヴァンは鍋に顔を近づけ、立ちのぼる蒸気を鼻で吸い込んだ。
「……良い香りですね。先日仕入れたキノコを使いましたか?」
「さすが!」
ナリカーナは目を丸くして親指を立てたが、すぐに顔をしかめる。
「でも、ちょっと香りが強い気がするのよね……オルヴァンさんはどう?」
香りを確認して、しばし考える。
「確かに、香りが立ちすぎていますか。根菜を足して全体を落ち着かせると良いかもしれません」
「根菜か……なるほどね〜!」
ナリカーナは木杓子を握り直し、笑顔を見せる。
「やっぱりオルヴァンさんに聞いてよかった。前に比べて、舌が鋭くなってきてる気がする、フフ」
オルヴァンは苦笑しながら。
「それは、ナリカーナさんが腕を上げているからですね」
「ふふっ、そう言ってくれるとヤル気出ます」
ナリカーナはもう一度鍋をかき混ぜ、勢いよく立ちのぼる湯気の中で微笑んでいた。




