第2話
階段を、堂々と──だが慎重に、一歩ずつ降りていく。
裸足の足音が、静かな石の床に淡く響く。
下の階、かつて鞄を見つけた広間へ。
床の中央には、見覚えのある石の扉。
本を片手に、扉の前で立ち止まる。
ページをぱらりとめくり──ゆっくりと逆読みしていく。
この本は下層から上層へと書かれており、
そのため、情報を追うのにも手間がかかる。
「……ふむ。次の階は……“静止の間”……と」
手をかざす。
ゴゴォ……
足元の扉が重く開き、階下への階段が現れる。
騎士は数段だけ降り、階下をうかがった。
……広い。
……静か。
その中央に──ひときわ異質な石像。
美しい女性の姿を象っており、繊細な髪の流れも、肌の質感も、彫刻とは思えぬほど精緻。
だがあまりに完璧すぎて、生身でないことは明らかだった。
「……おおお……これは……」
思わず見入る騎士。
本を開き、文章をなぞる。
「……“静止の間”には……石化保持対象、名は──」
チラッ。
石像の目が──瞬いた。
「……ッ!!」
息を呑み、足元がもつれかける。
慌ててページを戻し、目を走らせながら再び顔を上げ、石像を見る。
また本に目を落とし、今度はページをトントンと指で叩く。
「……あなたは……“シロップ……”」
視線を石像へ。
石像の目が、じろりと睨む。
「……ええと、“エリーシロップ”さん……でしょうか?」
石像の眉間が、わずかにピクリと動いた。
「……敵意など毛頭ございません。
失礼いたしました、つい馴染みやすい略称を……」
両手を胸元でそっと広げ、低姿勢を意識しながら一歩ずつ接近する。
その間にも、石像の目が鋭く細まり──じっと騎士を射抜く。
瞬間、視線と共に放たれる石化の力。
しかし騎士の姿は微動だにしない。
「石化の類には耐性がございますので……」
もう一度、さらにもう一度。
石像のまなざしが強く光るが、やはり無駄だった。
沈黙が落ちる。
やがて、石像はそっとまぶたを閉じた。
「……ふぅ〜……」
唇から漏れる小さな吐息。
直後、肩、腕、頬──全身を覆っていた石の殻が、細かくひび割れ、ぱらぱらと剥がれ落ちていく。
石が削れるような乾いた音が、静かな広間に広がる。
殻が落ちるたび、そこから淡い色の肌が現れた。
冷たい石から解き放たれたばかりの、温かみを帯びた生命の肌。
光を宿した瞳が開き、長く閉ざされていた呼吸がようやく戻る。
現れたのは、細くしなやかな体つきの、美しい女性だった。
唇にはわずかな赤み、瞳には疲れと警戒の色が残っている。
騎士は小さく息を呑み、そして静かに──礼を込めて頭を下げた。
……しん、とした空気。
広間には、ふたりだけ。
エリーシロップは、所在なげに斜め下を見つめたまま沈黙していた。
騎士は微妙な距離を保ったまま、背筋をぴんと伸ばす。
「……エリーシロップさん、ですよね。
、蔵書に記載がございましたので」
慎重に、礼を込めて問いかける。
女性はふと、小さくうなずいた。
「……忘れかけてますが……そんな感じの名前でした。
シロップで、結構です」
その口調はどこかぼんやりとしており、まるで何百年ぶりに言葉を紡いだかのような響きがあった。
「私は……上階の宝を護るために、下から来た者を石に変えて……窓からぶん投げる役目です」
「ハハハ……それはもう、完全に初見殺しですね。
どうりで、私の階に誰も来なかったわけです」
軽く肩をすくめる騎士。
シロップは目を伏せ、ぽつりと答えた。
「……誰も来たこと、ありません。あなたが……初めてのお客様です」
沈黙が落ちる。
パイクも、もちろん何も言わない。
「……上から降りてこられるのは……ちょっと……ええと……どうしたら良いのか……しかも全裸……」
気まずげに手をもぞもぞと動かすエリ。
「宝、というのは……あの、書物のことですか? それとも……鞄?」
「わかりません……私、上階の宝を護れとしか……。あなたは……誰ですか?」
「私も同じでございます。宝を護る役目を仰せつかり──侵入者に質問をし、場合によっては……窓からぶん投げる係です」
穏やかな笑みとともに、自らの“お役目”を説明する騎士。
シロップはしばし沈黙し、ぽつりと漏らした。
「……ここの創造主、色々……雑ですね」
「まったくもって……」
騎士は苦笑しながら、そっと鞄を撫でる。
「宝は、すべてこの中に収まっております」
ポン、と軽く叩く音が、静かな空間に響く。
「私の階が最上階でして。塔の天辺まで登り、確認済みです。もう、上には……何もありませんでした」
シロップはそっと一歩前に出て、騎士を見つめた。
その瞳に、ほんのわずか戸惑いと希望のような光が宿る。
「……その、“宝”がそこに……」
「はい。間違いなく」
騎士は道をあけるように一歩よける。
「……上階に……登って確かめても、よろしいでしょうか?」
「もちろん。ご案内いたします」
片手を広げて階段を示す騎士──だが、その前に祭壇へ歩み寄り、鞄をそっと置いた。
「ここに、この鞄が置かれておりました」
シロップは祭壇の前に立ち、ゆっくり手を伸ばす。
──しかし。
スッ……
「あっ……」
指先は、何もない空を切った。
「……触れません」
「それもそのはずでして。この鞄は……“魔法のようなもの”らしいのです」
言葉を継ごうとした瞬間、鞄がふっと消え、騎士の手元に現れた。
さらにもう一度、すっと消える。
「所有者にしか扱えないようでございます。私もまだ詳しくは……本で読んだだけですので」
少し照れたように笑う騎士。
短く息を呑み、わずかに目を輝かせる。
「……中には……何が、入っていたのですか?」
「それが……何も。けれど、それこそが“価値”なのだろうと……私は解釈しております」
そうしてふたりは並んで階段を上がっていく。
塔の中に、足音だけが静かに響いた。
やがて──騎士が長年過ごしてきた、あの石造りの空間へ。
かつて“宝”が置かれていた部屋だ。
「こちらが……私の部屋でございます。
ここにあった書物を、長年、管理し、修繕し、そして護ってきました。
今はすべて、鞄の中に……」
シロップはゆっくりと足を踏み入れる。
静まり返った室内。
かつて書物で埋まっていた空間は、今は空っぽだ。
「……綺麗な部屋ですね」
「ありがとうございます。掃除は……得意でして」
騎士は微笑み、そっと壁に手を置く。
──ぴかっ。
淡い光が、部屋全体を一瞬だけ包んだ。
「……この通り、正確な原理は分かりませんが……“修復”や“浄化”に似た作用があるようです。私自身の疲労も、回復いたします」
シロップはしばし黙ったまま、淡い光を見つめていた。
やがてふらりと歩き出し、アーチ窓の前に立つ。
窓辺から、身を乗り出すように外を見上げ──小さく呟く。
「……この上には?」
騎士が振り向く間もなく、シロップは空へ向けて指先をすっと動かした。
ザザザザ──……
灰色の波紋が広がり、壁の一部が変質していく。
無機質な石が盛り上がり、細かな凹凸を刻みながら形を変え……やがて、それは“階段”となった。
目を細め、淡々と告げる。
「高いところは……あまり好きじゃないのだけれど」
そう言うと、そのまま一段目に足をかけ、ゆっくりと登りはじめる。
騎士は驚きに目を瞬かせ、できたばかりの階段に手を触れる。
表面はひんやりと冷たく、凹凸は規則正しい。確かに“作られた”ものの感触だ。
しばし無言で確かめたのち、騎士は小さくうなずく。
「あ……ああっ、少々お待ちを!」
石の階段を登る、ふたりの足音だけが塔の壁に反響する。
やがて──塔の天辺へ。