第11話
◇
その頃、トリットは隣村や中央への報告を終え、ようやく腰を落ち着けていた。
掌で果実を転がし、木のカップに搾り入れる。
水差しから静かに水を注ぐと、淡い香りがふわりと広がった。
「ふぅ……中央にも既に伝わっておったか……ん? ムファールも座って休みなさい」
「はい」
ムファールは、村の集会で使われる長い卓の端に腰を下ろす。
使い込まれた木肌には無数の傷が刻まれ、十数人が一度に囲める広さがあった。
彼も水を注ぎ、果実の切れ端を沈める。
「ま〜、カカ、が判断して招いたのなら、間違いはなかろう」
酒杯を指先で軽く揺らしながら、小柄な獣人リマが口を開く。
「全てが正直で真実味に満ちた奴ほど、逆に怪しい。少しぐらい隠し事があった方が、信じられるもんじゃ」
「……ほう。隠し事とは?」
「憶測に過ぎんが……あのシロップ殿。名を呼ばれる際、オルヴァン殿が“セ”と途中まで口にして、言い直しておった」
「“セ”…? あちらで“セイ”と冠するのは、かつては貴族や王族の名に用いられた呼び方だ。名を偽っている可能性もあるが……まぁ、我らに害をなすものではあるまい」
「高価なマジックバックに……裾野を恐れぬ力……」
トリットは果実水をひと口含み、淡々と呟く。
「湾岸都市コロボスへ向かう――と言っておったが、急ぐ様子もない。どう見ても“隠れる”のが目的じゃの。オルヴァン殿も裾野は隠れるに良い場所と……」
「なら、匿ってやればいい」
リマが軽く杯を掲げた。
「ふむ……」
トリットは水面に浮かぶ果実を見つめ、短く頷いた。
◇
食堂は熱気に包まれていた。
ヴォルテが酒を飲み干すたびに獣人たちの歓が上がり、挑んでは敗れた獣人たちが次々と床へ沈んでいく。
「ヴォルテ! ヴォルテ! ヴォルテ!」
止まぬ声援に押され、場の空気はさらに高まっていった。
いくら飲んでも顔色ひとつ変えないヴォルテは、杯を掲げ、天井を見上げてひと呼吸。
――心の奥に、妙な満足感がふっと広がる。
その熱気を断ち切るように、
「バンッ!」
乾いた音が響き、皆の視線が一斉にそちらへ向いた。
耳を垂らし、顔をしかめた獣人の少女が立っていた。
何も言わず、不機嫌な足取りで食堂を飛び出していく。
一瞬、場が凍りついたが、やがてざわめきが戻り、それぞれが席に着き直す。
「ヴォルテさん! すごいです! 無敵です!」
ムルハンが駆け寄り、ヴォルテの手をがっしり握って揺らす。
ヴォルテは、得意げな笑みをほんのわずかに浮かべ、ゆっくりと頷いた。
その時、外からザザーッと雨の音が聞こえてきた。
「雨ですね……明るい空ですし、すぐ止むと思います」
ムルハンが窓の外に視線をやる。
「あめ?」
シロップがオルヴァンを振り返ると、オルヴァンは「にわか雨ですね」と頷き、軽くOKサインを送った。
シロップは小さく息を弾ませながら立ち上がる。
入り口へ向かい、扉を押し開けると、ひんやりした外気が頬を撫でた。
その様子を、食堂の中から獣人たちが不思議そうに見送っていた。
軒先に出たシロップは、そっと手を差し出し、雨粒を指先で受け止めた。
雫は眼鏡のレンズにも落ち、光を受けて小さくきらめく。
その感触に小さく笑みを浮かべると、我慢できなくなったように数歩前へ進み、両手を大きく広げて全身で雨を受けた。
(あめ〜っ、これがあめ〜……あ〜〜め〜、にわかアめ〜)
心の中で自作の歌を奏でながら、くるりと半回転して小さく舞う。
ふと軒先に目をやると、先ほど飛び出していったあの少女が、壁にもたれ俯いていた。
シロップは何だろうと思いつつも、再び空を仰ぎ、雨を楽しむ。
少女は、何かを感じ取ったのか顔を上げる。
そこには、雨粒と日差しを受けて輝くように佇むシロップの姿があった。
濡れたその頬は、少女の目には涙で濡れているように映る。
気づけば、少女はシロップへと駆け出していた。
勢いのまま抱きつかれたシロップは一瞬きょとんとしたが、反射的に膝をつき、その小さな体を抱きしめた。
少女は声を殺してシクシクと泣く。
シロップはただ、静かにその背を包み込む。
やがて雨が上がると、少女はこらえきれずに声を上げて泣き出した。
窓から身を乗り出してその様子を見ていた獣人たちも、いつしか目元を押さえていた。
軒先の端で、一部始終を見ていたムファールは、目を閉じ何度も頷く。
窓辺がざわつくなか、オルヴァンは静かに立ち上がる。
「雨も上がりましたし、そろそろ……」
視線をムルハンへ送ると、ムルハンはすぐに立ち上がり、入り口の方へ手を向けた。
ヴォルテも立ち上がり、一度息を整える。
「皆様、突然の訪問にもかかわらず、温かく迎えていただき、誠にありがとうございます」
その声に、獣人たちが耳を傾ける。
「ヴォルテ殿は――『食堂の酒を飲み干す』という、世界でも珍しいスキルの持ち主」
場に笑いが広がる。
「酒樽が空になる前に、宿へ強制送還させていただきます」
深々と頭を下げ、入り口へと歩みを進める。
拍手が湧き上がり、「ヴォルテ! ヴォルテ!」のコールが再び響くなか、2人は食堂を後にした。
外は雨上がりの柔らかな日差しに包まれ、濡れた地面がきらきらと光を反射していた。
抱き合う少女とシロップを、オルヴァンは静かに見つめる。
ヴォルテはというと、まだ食堂で浴びた喝采を脳内で反芻している。
ムファールが歩み寄り、オルヴァンに声を掛けた。
「オルヴァン殿、宿が変更になりましたので、私がご案内します」
「お願いします」軽くお辞儀をする。
ふと、抱き合ったままのシロップと少女に視線が集まった。
ムファールも近づき、そっと膝をついて少女の顔を覗き込む。
——その表情は、涙の跡を残しながらも、どこか幸せそうだった。
ムファールは小さく息をつき、柔らかな声で言う。
「……途中に、この子の家があります。そのまま送っていきましょう」
少女はシロップの腕の中でこくりと頷き、シロップも静かに微笑み返す。
そのまま一行は、ぬかるむ道をゆっくりと歩き出した。
少し後方を歩くムルハンは、腕を組んでその様子を見守っている。
オルヴァンがそっと2人に手をかざす。
すると、衣服や髪に残った雨粒がふわりと浮き上がり、きらきらと光を帯びながら空へ舞い上がった。
頬を伝った涙のしずくも、その中に紛れ、同じように優しく彼方へと抱かれていった。
やがてそれらは空に溶けるように消え、跡にはわずかな温もりだけが残った。
少女は驚きに目を見開き、小さく歓声を漏らす。
その光景に胸を打たれたムルハンが、感動のあまり前へ一歩踏み出す。
(すげー! やっぱ魔術師じゃんか! かっけー!!)
胸の高鳴りを抑えきれず、真剣な表情でオルヴァンに尋ねた。「俺も……勉強すれば、出来るようになりますか?!」
オルヴァンは、一拍置いてから、あっさりと言い切った。「無理です」
あまりにも即答すぎて、ムルハンは目を瞬かせる。
(えっ……ムリ!? え?)「……え?」
その横で、ムファールは唇を噛み、肩を震わせていた。
真剣な顔で問うムルハンに、冷徹すぎる即答——そのギャップが、笑いのツボを直撃していた。
「……で、では行きましょう」
軽く咳払いをして声を掛けるが、震えは隠せない。
ムルハンは恨めしそうに横目で睨む。
やがて一行は少女の家に到着した。
ムファールは深呼吸を繰り返して呼吸を整え、ドアをノックする。
出てきたのは少女の姉、アケミン。
事情を説明し、眠ってしまった少女を引き渡すと、アケミンとムファールが2人並んでシロップに深くお辞儀をした。
顔を上げたムファールの視界に、まだ納得していない様子のムルハンの顔が飛び込んでくる。
バッと下を向き、再び笑いを堪えるムファール。
(ここで吹き出すのはまずい……一旦エスケープだ)
「ア、アケミン……お手洗いをお借りしても?」
下を向いたまま尋ねる。
「嫌です」
「え?」顔を上げるムファール。
「絶対嫌です」
アケミンは真顔で指を一本立てた。
「お手洗いは掃除をしてから貸す主義なんです。今は……無理です」
横からムルハンが小声で囁く。
「……うち行く? 遠いけど」




