第1話
そこは、半円形に広がる幻想的な空間だった。
一見すれば古の神殿のようでもあり、あるいは遥か昔に遺された大図書館のようでもある。
視界の限りに並ぶ無数の書架が、円弧を描く壁に沿って整然と並び、隙間なく書物を抱えていた。
背表紙には見慣れぬ文字が刻まれ、光を受けるたびに淡く浮かび上がる。
アーチ窓から差し込む光と風が、この場所にも確かに「今」という時を運んでいた。
天井は高く、石の梁が幾重にも連なってアーチを描き、その中心には光の球体が浮かんでいる。
それは太陽でも月でもない。
だが、昼のようにあたたかく、夜のように静かに――まるですべてを見守る眼差しのように、空間を照らしていた。
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中央に立つのは、黒鉄の鎧をまとった――騎士を思わせる姿をした存在だった。
その装甲は人を守るというより、人の形を借りただけの殻のようにも見える。
そして両手にあるのは剣ではなく、一冊の分厚い本だった。
ページをめくる音だけが響き、時折、風が書架の背表紙を揺らす。
騎士が指先で軽く払えば、積もった埃は細かな光となって宙に溶け消える。
季節は幾度も巡り、窓の外の空は色を変える。
だが騎士はただ本を手に取り、読み終えれば背をなぞって棚に戻し、また別の一冊を開いた。
この空間に流れるのは、静けさと読書だけ――それが確かな時の証であった。
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ある日、窓辺に立ち、外をじっと見下ろしていた。
切り立った崖が途切れもなく続き、遥か下には森や川が豆粒のように霞んでいる。
雲の影が幾筋も流れ、その高さが常軌を逸していることを、あらためて思い知らされた。
窓枠にそっと手をかける。
身を乗り出すことはせず、ただ触れ、そして空を仰ぐ。
何かを思い出そうとするかのように、黙したまま長く立ち尽くしていた。
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時は流れた。
雲は絶え間なく形を変え、空は幾千もの朝と夕を繰り返し、遠い稲光や雷鳴が幾度も地平を走った。
それでも光の球体は変わらず、ただ静かに空間を照らし続けている。
あるときは、アーチ窓に手をつき、下界を見下ろしていた。
森も川も、幾十年を越えてなお目に見える変化はない。
ただ流れる雲と、果てしない空の色合いが、時の重みを告げていた。
やがて、窓の縁に背をあずけ、腕を組む。
その姿は、何事かを深く考えているかのように見えた。
背後では――閉じたはずの本のページが、風にあおられるようにして、一枚、また一枚と静かにめくられていった。
今日も分厚い本を抱え、静かな部屋をゆっくりと巡っていた。
両腕にあるのは『新魔法創作論 全書・第十七巻』』──
分厚さゆえに読者を拒むかのような、威容を誇る書物である。
ページをめくりながら、彼はときおり口を開く。
だが、それは独り言ではない。
この塔で長年を共にしてきた“姿なき友”――声だけの存在、パイクへ向けられた言葉だった。
「……ふむ、確かに“新しい魔法”を生み出す理論は立派です」
指先で行をなぞりながら、軽く顎に手を当てる。
「ですが……“広範囲を良い香りで包む魔法”に、丸ごと一章を割く必要があるでしょうか?」
しばし耳を傾け、やがて小さく頷く。
「……なるほど。確かに兵舎や市井では重宝されるかもしれません。ですが“良い香り”の基準は個体差が大きい。……実際は香りそのものではなく、感覚に直接働きかける魔法なのでは?」
本をパタンと閉じ、窓辺に歩み寄る。
「……では、“紙の面を常に滑らかに整え、書きやすくする魔法”などはどうでしょう。学者や官僚にとっては、整うインクよりも実用的かもしれません」
頬に手を添えて考え込む。
「あるいは……魔法スクロールを、こっそりくだらない魔法に差し替えてしまう、いたずら向けの術式。……ふむ、それは実に悪趣味だが、笑いの研究にはなるやもしれませんな」
次第に真面目さと冗談の境目が曖昧になり、声にはどこか楽しげな響きが混じる。
「よし、次の会議の議題は決まりましたね。“くだらないが少し欲しい魔法をいかに体系化するか”……」
そう言ってから、ふっと笑い声を漏らす。
やがて彼は本を胸に抱き直し、書架へ戻ると深く一礼した。
「……次回もぜひ、議長をお願いしますよ。パイク殿」
⸻
日々は、そんなふうに過ぎていった。
パイクとの会話、本の整理、塔の静寂。
しかしある日──その日常に、妙な変化が訪れる。
きっかけは、一冊の本だった。
『高次存在論・基礎編』。
そこには、こう記されていた。
「真の本質を見極めるには、あらゆる装いを脱ぎ捨て、自らの構造を観察せよ」
……どうにも気になった。
いや、ずっと気づかないふりをしてきたのかもしれない。
だがページの一節は、背中をぐいと押してきた。
机の上には鎧も衣服も、帯も靴も――すべての装備が欠けることなく整然と並べられていた。
まるで儀式の供物のように、秩序だけがそこに在った。
その完璧な秩序から、わずかに離れた椅子の上に――
一糸まとわぬ姿が立ち尽くしていた。
背筋は伸び、姿勢だけは兵士のそれを保っている。
だが、その顔には深い影が差し、瞳はただ一点、股間へと落ちていた。
「……なぁ、パイク」
沈んだ声で“見えない友”を呼ぶ。
「これは……おかしいと思わないか」
もちろん返事はない。
それでも、答えを聞いたようにわずかに頷いた。
「……ないんだ。どこにも」
重苦しい沈黙が、部屋をさらに広く冷たくする。
「角度を変えて見ても……確かに、何もなかった」
淡々と事実を積み重ねる声には、かえって深い絶望が滲んでいた。
やがて、唇が乾いた音を立てる。
「男ではない……女でもない……」
目を伏せ、低く吐き出す。
「……なら、私は……生命ですらないのかもしれない。精霊……?」
ひやりとした仮説が、石の壁に反響して消えていく。
彼は目を閉じ、深く息を吸い、ゆるやかに吐き出した。
「パイク……なぁ、私って……いったい、なんなんだろうな……」
——
静かな部屋に、金具の外れる音が淡く響いた。
一つひとつの装備を外し、机の上へ整然と並べていく。
外套を滑らかに畳み、鎧を順に外し、最後に胸当てを外すと、黒鉄の重みが消えていった。
革紐を解くたび、わずかに息を吸い、吐き出す。
その所作は戦いへの備えではなく、むしろ何かを祈る儀式のように見えた。
やがて剣を腰から外し、机に置く。
全てを脱ぎ終えたとき、そこに立っていたのは一糸まとわぬ姿。
背筋は伸びているのに、どこか脆く、揺らいで見える。
アーチ窓の前に立ち、外を見やる。
灰色の雲が垂れ込め、風すらなく、ただ沈黙が広がっていた。
「……変わらぬ眺めでございますな」
誰に向けるでもなく、礼を込めたような声でつぶやく。
やがて歩を進め、部屋の中央──床に縁取られた石板の前で立ち止まる。
裸のまま視線を落とし、足元を見据える。
「……パイク、行きますか」
小さく呟き、宙を見上げてひとつ頷いた。
まるでそこに“姿なき友”が居るかのように。
本を閉じ、床の上に手を重ね、唇を動かす。
呪文か祈りか、囁きは空気を震わせ、床の石板がかすかに軋む。
ゴゴ……ゴン……
低く重たい音とともに、石板がゆっくりと、開き隙間から冷たい空気が吹き上がる。
その風は、塔の静寂を初めて揺らした。
「……ふむ、無事開いたようです。……開いてしまったと言うべきか」
小さく息をつき、半歩だけ前へ。
覗き込む視線の先──闇に沈む階段、その底に、ぽつりと石造りの祭壇が見えた。
「……やはり、ありましたか」
声には、予感が的中した確信と、ほんのわずかな緊張が混じっている。
かつて読んだ本の記述──
『…万物を封じる鞄あり。その所在は…』
という一節が、脳裏に鮮やかに蘇る。
「本当に……存在していたとは」
期待と警戒とがないまぜになった吐息を漏らし、しばし階段を降りずに祭壇を凝視する。
周囲を見回す。動くものはない。
呼吸を整え、意を決し──
早足で階段を降り、石床に降り立った。
目は真っ直ぐ祭壇の上へ。
そこには「鞄」が鎮座していた。
見覚えのある形──古書の挿絵そのままだ。
「……これが……」
手を伸ばしかけ、引っ込める。
もう一度、慎重に伸ばし──ピッとつまむように持ち上げる。
思いのほか軽く、拍子抜けするほどだった。
肩をすくめ、小走りで階段を引き返す。
途中、何度も背後を振り返るが、やはり何も起こらない。
そして上階へ──。
長く一息。
深呼吸。
……。
ようやく彼は、手にした鞄に視線を落とした。
留め具を外し、蓋を開け、手を差し入れる。
すっ……肘まで沈み、なお底に触れない。
さらに肩まで──やはり届かない。
(……間違いない)
本棚に向かい、迷いなく“次元構造理論編”を取り出す。
ページを開き、記述をなぞる。
真剣な表情で読み上げる。
『次元バック』──高次元展開空間における折り畳み構造を応用した収納装置。
物理的体積と質量の制約を一時的に無効化する。
最初に接続を確立した者にのみ従属し、変更は不可。
思念により内包物の情報を感知可能。
所望の物品を即座に抽出し、指定物を収納できる。
顔を上げる。
鞄を持ち直し、床に並んだ装備へ視線をやる。
ちらりと“パイクのいる方向”を見て、口元がにやりと緩む。
「では……検証開始と参りましょう」
まずは靴を手に取り、思念を込めて──ポンッ。
靴が消えた。
「…………っ!」
右手の親指を、無言でパイクに向ける。
鎧、帯、小手──
一つ一つ、記述通りの手順で収納していく。
最後の一枚、下衣を収めると、背筋を伸ばして正座。
思念を込め剣を取り出し、眺め、またしまう。
再び取り出し、しまう。
何度も、何度も。
「……完璧です」
ふと微笑を浮かべ、鼻から軽く息を吐き、すっと立ち上がる。
全裸のまま、本棚へと歩を進める。
背表紙を指でなぞり、一冊ずつ、慎重に鞄へ。
“パッ” “パッ” “パパッ”
無言の作業が延々と続く。
だが、収納してもなお、本棚の端からまた本が現れる──まるで部屋そのものが“補充”しているかのように。
やがて、彼は小さく息を吐き、動きを止めた。
際限のない作業に、わずかな諦めが滲む。
今度は試すように、書架の側面へ片手をそっと添える。
重さを確かめるでもなく、ただ軽く触れただけだった。
──その瞬間。
書架全体が淡い光に包まれ、音もなくパッと消え去った。
しばし無言で立ち尽くす。
やがて一歩踏み出し、別の棚に手を置く。
同じように光が走り、またひとつ、跡形もなく消える。
机も、椅子も──。
軽く指先を触れるだけで、全てが光となり、次々と姿を消していった。
歩みを進め、部屋を巡りながら手を伸ばすたび、そこにあったものは空白に変わっていく。
静寂だけを残し、空間は徐々に「何もない部屋」へと姿を変えていった。
「……パイク……あなたが背中を押してくれたおかげだ」
呼びかける。
返事はない。
短い沈黙ののち、うなずいた。
「我が務めは変わらない。……いよいよ、参りましょうか」
視線を天井へ。
そこには、この部屋を満たしてきた柔らかな光──
アーチ状の天井に浮かぶ、正体不明の光源。
そしてそれこそが、この部屋で最も重要なものだと、騎士は知っていた。
「……これを残しては、意味がありません」
ぐっと膝を曲げ、深く息を吸う。
全裸のまま、軽快に跳躍。
光へ向けて手を伸ばす。
指先が触れる瞬間、心の中で叫ぶ。
(収納ッ!!)
──すぅっ。
光は静かに消えた。
部屋は、穏やかな暗さに包まれる。
変わらぬ静けさの中、中央には凛と立つ全裸の騎士。
足元に落ちた影が、ゆっくりと回り──旅立ちの方向を指していた。




