第五幕 静かな勝利
リディア・グレイスは、王都を離れた。
列車で東の果てにある、自領の館へと帰還した彼女は、その日からただ一度も、王都のことを口にすることはなかった。
だが、都では彼女の名が風のように囁かれていた。
「指輪を返したあの令嬢」
「本当の貴族って、ああいう人のことよね」
あの断罪の一件の裏側に、ある貴族派閥の陰謀があったことは、ごく一部の者しか知らない。
リディアの婚約が正式に破棄されれば、彼女の家門グレイス家が持つ軍事影響力と政治的発言権は、大きく削がれる。
その隙を突いて王位継承に関わる権限を一部の派閥で囲い込む計画が、水面下で進行していたのだ。
ミレーヌはそのための“駒”だった。
最初から利用されるために用意された庶民の花嫁。
王子はまんまと乗せられ、派閥の者たちは彼の愚かさを嘲笑していた。
リディアは、すべてを見抜いていた。
だが、自分の手で打ち返すのではなく、“沈黙”という名の一手でそれに抗った。
感情的に叫んでも、憐れみを乞うても、真実は届かない。
それならば、ただ美しく去る。誇りと矜持を手放さずに。
そうすれば、真実は時と共に静かに広がり、
嘘はやがて、持ちこたえられず崩れ落ちる。
春の風が、彼女の館に咲いたばかりの野ばらを揺らしていた。
リディアは午前の紅茶を終え、書斎に戻る。
机の上には、一通の手紙。
王都の若い画家からだった。
「あなたをモデルに描いた作品が、展覧会で人々を涙させました。あのときの背中が、今も私の中で揺れ続けています」
彼女は微笑んだ。
「言葉で伝えるより、ずっとましね」
花の世話をしながら、読書をしながら、リディアは自分を取り戻していった。
周囲には少数の使用人と、誠実な従者が残った。
彼らは誰もが、彼女を“主”としてではなく、“一人の人”として尊敬していた。
時折、地方貴族の娘たちが礼儀作法や表現の稽古にと訪れるようになった。
「美しくあるとは、どういうことなのか」を、彼女から自然と学ぼうとする若き令嬢たち。
リディアは特別な指導などしなかった。
けれど、彼女の所作、選ぶ言葉、向ける視線。
そのすべてが無言の教えとなり、誰の胸にも残った。
ある日の午後、庭の白椿が咲いたのを見て、彼女はふと独りごちた。
「ねえ、私は──負けたのかしら。それとも、勝ったのかしら」
従者が静かに言った。
「勝ち負けではございません。ただ……皆が、貴女に惹かれているだけです」
リディアは、目を伏せて笑った。
「それなら──それでいいわ」
王都では、彼女の描かれた肖像画の前に、今日も人が立ち止まっている。
あの日、ひとつの銀の指輪が、静かに王国を変えた。
美しさとは、戦いになることもある。
けれどその勝敗は、剣では決まらないのだ。
これにて完結です。お読みいただき、ありがとうございました。