第四幕 婚約破棄の余波
春は、静かに訪れた。
王城にかつて満ちていた華やかさは影をひそめ、誰もが噂話を声に出さずに交わすようになった。玉座の間で起きたあの一件が、王都中を駆け巡っていたからだ。
「婚約破棄されたのは、殿下の方だったらしいぞ」
「ミレーヌ様って、本当は……」
最初はささやきだった。
やがて、絵画になり、詩になり、歌になった。
“指輪を返した令嬢”
その一節だけで、すべてを知っているような顔をする者が増えた。
リディア・グレイスの名は、美の象徴として都に残った。
一方。
アレクシス王子の評判は、急速に落ちていった。
民衆から英雄視されていた時期も、もう過去の話。
実務能力のなさが次第に露見し、貴族たちからの支持も離れていった。
「地方の治安改善に力を入れる」として派遣した軍備費が不正に流用された件で、王子の署名が確認され、王宮は騒然となった。
しかもその言い訳が「知らなかった」の一点張りだったことも、火に油を注いだ。
王太子との距離も広がり、やがて公の場から姿を消した。
「第二王子殿下はご静養中です」
そう告げる侍従の声は、どこか沈んでいた。
そしてミレーヌ。
彼女の出自にまつわる不正が表沙汰になった。
貴族養女としての記録に偽造があったこと、舞踏会での贈収賄の噂……
最初は“陰口”にすぎなかったものが、王宮の記録係によって一部が事実と確認された。
彼女が一部の下級貴族とつながり、舞踏会の招待枠を不正に売買していた証拠まで出た。
「純真な乙女」は、いつしか“計算高い庶民上がり”という本性を暴かれたのだ。
「どうして……私は、ただ……」
最後に彼女を見た者の証言によれば、ミレーヌは泣き腫らした目で馬車に乗っていたという。
その傍らにアレクシスの姿は、なかった。
「……真実の愛、だってさ」
酒場で誰かが笑い、他の者が肩をすくめる。
笑い話にすらならなかった。
人々の記憶に残ったのは、ただ一人の女性の背中だった。
あの日、断罪の場で、何も語らず、指輪を置いて去った女。
それだけで世界の評価を反転させた、公爵令嬢の名は、風のように静かに、しかし確かに、王都に根づいていった。
人々はもう、王子の顔を思い出せなかった。
けれど、あの姿勢、あの声、あの横顔は、まるで詩の一節のように、人々の心に残っていた。
「──美しさで、勝ったんだな」
老騎士がぽつりと呟いた言葉に、若い従者が深く頷いたという。