第二幕 静かなる陰謀
そもそもこの婚約は、政略だった。
アレクシス王子とリディア・グレイス公爵令嬢の結びつきは、王家と名門貴族の均衡を保つためのもの。
互いに強くもなく、弱くもない立場で、あくまで形式的に穏やかに関係を築いていた。
リディアはそれでよかった。
愛情ではなく、信頼と尊重があれば、冷静に将来を描くことができると思っていた。
けれど、そこに割って入ったのが──ミレーヌだった。
最初はただの舞踏会の余興だった。
「庶民出身の娘が美しい」と噂になり、王子の目に留まった。
笑顔を振りまき、目を潤ませ、何も知らないふりをして立ち回るのがうまかった。
周囲はそれを「純真さ」と呼び、いつしか王子は彼女に心酔した。
「僕が守らなければ、彼女は貴族社会で潰されてしまう」
そんな“物語”を、自ら信じてしまったのだ。
気づいたときには、ミレーヌの周囲から貴族令嬢たちが静かに姿を消していた。
誰かが意図的に、リディアと彼女の間に誤解を仕組んでいた。
そしてある日、リディアの名前で出されたという嘘の手紙が出回った。
「ミレーヌを舞踏会から追い出せ」という内容だった。
使用人や教師、果てはリディアと同等の地位にある貴族たちまでもが、「あの方なら言いかねない」とささやき合った。
手紙の筆跡は巧妙に似せられており、本人が否定してもなお疑いは晴れなかった。
「まあ、公爵令嬢というのは、ああやって気位だけは高いのよ」
「下賤な娘が王子に選ばれたんじゃ、面白くないでしょうね」
言葉は毒になって、リディアの背中に降り積もった。
だが、リディアは否定しなかった。
正確には、口にしなかった。
彼女は知っていた。
今、何を言っても、誰も聞かないということを。
王子が、自分のことばではなく“物語”に酔っているということを。
だからこそ、沈黙した。
その代わり、誰にも媚びず、弁明もせず、ただ自分の在り方だけを保ち続けた。
──それがどれだけ苦しいかを、知っている者は少ない。
ある晩、暖炉の火が静かに揺れる中、長年仕えてきた従者が問うた。
「何も言わなくて、よいのですか。せめて、王子殿下に真実だけでも……」
リディアは、暖炉の炎ではなく、その奥にある暗がりを見つめるようにして、ぽつりと答えた。
「言葉は風に流されるわ。でも、姿は、残るの」
「……それでも、悔しくは……」
「ええ。悔しいわ。とても」
初めて見せた、その静かな本音。
でもそれを微笑とともに包み込んだ彼女の横顔を、従者は生涯忘れることはなかったという。
「美しさは、言葉で説明するものではないのよ」
それは、誇りという名の剣を抱いた者だけが語れる、静かなる決意だった。