第九話:賤ヶ岳
お市の方という予測不能な「市場の変動要因」によって、仁斎が描いた経済的圧迫という名のプランAは、完全に破綻した。
秀吉の陣営には、動揺が走っていた。お市の手紙は、秀吉を「主家を乗っ取る不忠者」と断じ、柴田勝家を「織田家の正統を守る最後の忠臣」と持ち上げていた。大義名分という名の、企業のブランドイメージが、著しく毀損されつつあった。
「仁斎殿!このままでは、日和見の連中が柴田方へ寝返るやもしれぬ!」
焦る秀吉を、仁斎は静かな視線で制した。彼の表情は、もはや鉄仮面のように無機質だったが、その脳内では、猛烈な速度で損害計算とプランBの構築が行われていた。
『俺のポートフォリオに、初めて“予測不能な政治リスク”という項目が加わった。お市の方…彼女はもはや単なる変数(Variable)ではない。市場そのものを動かす、新たなゲームマスターだ』
初めての計算ミス。だが、仁斎の思考に狼狽はない。ただ、前提条件を書き換え、最適解を再計算するだけだ。
「羽柴様。柴田殿の弱みは、柴田勝家本人の、古い戦のやり方への固執です」
仁斎は、広げられた地図の、近江国・賤ヶ岳を指し示した。
「我々は、彼を本拠地である北ノ庄から、我々が選んだこの戦場へとおびき出す必要がございます。ここに、挑発的な砦を築きます」
『これは、いわば**“ベアハッグ・トリガー”**(※相手が無視できない行動を起こし、交渉の席に着かせるための引き金)。こちらの土俵で戦うための、戦略的布石だ』
賤ヶ岳の築城は、厳冬期に行われた。
雪が舞う中、凍える手で土を運び、柵を立てる兵士たち。その光景を、仁斎は丘の上から、無言で見下ろしていた。
その傍らに控える助右衛門は、主の横顔に畏怖を覚えていた。あの瞳は、凍える兵士たちを、人として見ていない。だが、その翌日、助右衛門は信じられない光景を目にする。
仁斎からの指示を受けた兵糧奉行が、凍傷に苦しむ人夫たちへ、優先的に温かい粥と酒、そして新しい足半を配給し始めたのだ。
陣営の雰囲気が、わずかに和らぐ。助右衛門は、あの冷徹な主の、思いがけない采配に戸惑うしかなかった。
(このお方は、鬼なのか、仏なのか…)
その時、仁斎は脳内でこう計算していた。
『兵の損耗は、計画の遅延に直結する。最小の投資で、最大の効率を』
仁斎の挑発は、狙い通りの効果を発揮した。
砦建設の報せを受けた柴田勝家は、北ノ庄城で鬼のような形相になったという。
伝令の兵は、恐ろしさに震えながら報告した。
「柴田様は『あの猿めが、このワシの庭先に、犬小屋を建てよったわ!』と怒り狂い、自ら先陣に立つと息巻いておられる、とのこと!」
『計画通り。こちらの仕掛けが、相手に**“Go-Shop条項”**(※より有利な条件を探すために、他の選択肢を検討せざるを得ない状況)を発動させた。彼は、もう動かざるを得ない』
そして、ついに柴田軍が動いた。
だが、先陣を切って砦に襲いかかってきたのは、勝家本人ではなかった。彼の甥にあたる、猛将・佐久間盛政だ。
佐久間軍の猛攻は凄まじく、賤ヶ岳の砦は、瞬く間に陥落の危機に瀕した。
「仁斎殿、ご決断を! このままでは砦が!」
秀吉が焦りに駆られて叫ぶ。だが、仁斎は首を横に振った。
「お待ちください。まだです」
『佐久間盛政は、後先を考えず勢いだけで突っ込む、典型的な**“モメンタム・チェイサー”**(※市場の勢いや流行に乗り、深く考えずに投資する者)。今は泳がせる。彼が我々の防衛ライン(サポートライン)を深く突き破り、柴田本隊との連携が断たれた瞬間…そこが、仕掛けどきだ』
「申し上げます! 佐久間盛政様、深入りしすぎ、柴田様からの帰陣命令を無視! 敵中で孤立しております!」
新たな伝令の報告。その瞬間を、仁斎は見逃さなかった。
彼は、今まで浮かべたことのない、捕食者のような昏い笑みを、初めて秀吉に向けた。
「羽柴様。好機です」
仁斎は、地図上の佐久間盛政の部隊を、指先で払いのけた。
「これより、佐久間隊に対し、市場から売り浴びせるような総攻撃を敢行。彼らのポジションに、**強制清算**を執行します」
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