第八話:新体制(ニュー・ストラクチャー)
清洲城の一室。夜のしじまの中、羽柴秀吉は一人、酒を呷っていた。
天下への道が、初めてはっきりと見えた。だが、その隣には、得体の知れない影が常に寄り添っている。
長谷川仁斎。あの男は、一体何なのだ。
人の心を扇動し、金の力で奇跡を演出し、巨大な織田家という組織を、まるで盤上の石のように動かす。その瞳には、喜びも、悲しみも、怒りすら映らない。あるのは、ただ、目標を達成するための、凍てつくような計算だけ。
(まるで、人の心を持たぬ、勘定だけの物の怪じゃ…)
秀吉は、己の掌を見つめた。この手で、天下を掴む。そのためならば、物の怪であろうと、悪魔であろうと利用し尽くす。だが、いつかあの男に、自分自身が「査定」され、切り捨てられる日が来るのではないか。一抹の恐怖が、天下人への野心に燃える男の背筋を、冷たく撫でた。
その頃、仁斎は秀吉の陣営で、次の戦略を描いていた。
『清洲会議という名の臨時株主総会は、我々の勝利に終わった。だが、柴田勝家という筆頭株主の抵抗は、織田家全体の企業価値を毀損する。本格的な経営再建の前に、この反対勢力を無力化する必要がある』
仁斎は、黒田官兵衛を呼び、地図を広げた。
「官兵衛殿。柴田様は、確かに、兵の数は多い。なれど、その戦ぶりは、あまりに古く、動きも、鈍い。今、まともに、正面からぶつかるのは、我らにとっても、損が大きゅうございます」
『いきなり敵対的TOBを仕掛けるのは、コストがかかりすぎる』
「まずは、経済的な圧力をかけ、柴田殿の事業基盤を揺るがします。北陸へ繋がる街道を我らの影響下に置き、兵糧や物資の流れを、徐々に細らせていくのです」
官兵衛は、仁斎の意図を正確に理解し、頷いた。
「兵糧攻め、ですな。まさに、蟻の一穴でございます」
策は、着々と進められた。
清洲会議での決定に基づき、丹羽長秀や池田恒興には、旧明智領の美味い土地が気前よく分け与えられた。彼らを完全に味方に引き入れるための、甘い毒だ。
その報せを聞いた柴田勝家は、越前・北ノ庄城で激怒し、愛用の茶碗を素手で握り潰したという。仁斎の耳には、そんな生々しい情報も届いていた。
だが、仁斎の計算に、一つの変数が入り込む。
織田信長の妹、お市の方。彼女が、三人の娘を連れて、柴田勝家に嫁いだのだ。
『お市の方…。【査定】によれば、資産価値は織田家の血筋(ブランド価値)98。政治的洞察力85。だが、運命への諦観70。彼女は、織田家のブランド価値を象徴する最高のトロフィー資産(Trophy Asset)だ。今は柴田の手にあるが、いずれは我々が回収する対象に過ぎない』
仁斎は、彼女を「受動的な資産」と判断していた。戦国の習いに従い、新たな庇護者を得たに過ぎないと。
しかし、その判断が、キャリアで初めての致命的な誤りであることを、彼はまだ知らなかった。
数日後。京の公家や、各地の有力寺社から、一通の書状が秀吉の元に届き始めた。
差出人は、お市の方。
その内容は、秀吉を「主家の血を蔑ろにし、天下を簒奪せんとする下賤の者」と痛烈に非難し、夫である柴田勝家こそが、織田家の正統を守る忠臣であると宣言するものだった。
その流麗な筆致と、人心を揺さぶる巧みな言葉選びは、凡百の武将の檄文をはるかに凌駕していた。
「馬鹿な…! お市様が、自らこのような…!」
秀吉が絶句する傍らで、仁斎は、生まれて初めて、表情を凍りつかせていた。
『読み誤った…! 俺は彼女の“資産価値”は査定したが、その“経営判断(意思)”を完全に見落としていた。彼女は資産などではない。主体的に動く、もう一人のプレイヤーだったのだ…!』
彼の脳内で、警報が鳴り響く。
【プロジェクト:柴田勝家無力化作戦】
**ステータス:**進行中 → 問題発生(Incident)
**リスク要因:**予測不能な敵対的IR活動(お市の方)による、自社のブランドイメージ毀損。
**勝率予測:**65% → 45%
勝率が、危険水域まで落ち込んでいる。お市という名の「ブランド・アンバサダー」を得たことで、柴田勝家は、仁斎が奪い去ったはずの「大義名分」を、再びその手に取り戻しつつあった。
経済封鎖という名の、緩やかな締め付けは、もはや意味をなさない。
仁斎は、数秒の沈黙の後、顔を上げた。その瞳には、もはや冷徹さすらなく、全てを無に帰すような、底なしの昏さが宿っていた。
彼は、秀吉に向かって、静かに、しかし断固として告げた。
「羽柴様。策を改めます。兵糧攻めのような、まどろっこしい手は、もはや無用」
仁斎は、地図上の越前を、指で強く押しつぶした。
「――柴田勝家を、この戦場で、完全に、葬り去ります」
『初めての計算ミスだ。だが、それもいい。プランBへ移行する』
仁斎の脳裏に、新たなディールの計画書が、瞬時に生成されていく。
『――賤ヶ岳にて、旧経営陣を、完全に清算する』
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