第七十六話:夜明け
慶長十年(1610年)。信長の死から十年。
第一回天下輪廻祭の朝が来た。
薄明かりの中、大坂功徳取引所にはすでに数百人が集まっていた。
建物は元は米問屋。それが今や、人の善行を売買する場所となっている。
仁斎と石田三成は編笠を深く被り、人混みに紛れていた。
「開場!」
号令と共に扉が開くと、人々が雪崩れ込む。
正面の壁一面に、墨で書かれた巨大な板が掲げられていた。
【慶長十年 輪廻最終日 功徳相場】
公共事業之部
・井戸(一基) 功徳四点 [昨日三点]
・橋梁(大型) 功徳八十点 [昨日六十五点]急騰
・街道整備(一里) 功徳二十五点[昨日二十点]
教育医療之部
・寺子屋運営(年間) 功徳三十点 [変わらず]
・医療施術(一回) 功徳二点 [昨日二点半]下落
・技術伝承(認定) 功徳五十点 [新設]
日常善行之部
・路地清掃(月間) 功徳半点
・困窮者援助(一回) 功徳一点
「まるで米相場だな」
仁斎が呟いた。
「人の善意まで売り買いされるとは…」
三成が苦笑する。
「橋八十! 八十だ!」「七十五でどうだ!」と怒鳴り声が響いてくる。
「……ここには静かに善を積む余地はなさそうだ」
「人の善意に値段がついてしまいました」
場内では激しい取引が行われていた。
「橋の功徳、売ります! 七十点!」
「六十五で買う!」
「六十八!」
「成立!」
札差のような仲介人が功徳証文を素早く交換し、手数料を取って次の客へ。
隅では老婆が小さな功徳帳を握りしめていた。
「毎日道を掃除して…一年で六点…」
「婆さん、それじゃ来期は食えねえぞ」
「でも、これしかできないから…」
取引所の入口付近では、案内人が地方から来た商人に説明している。
仁斎と三成はさりげなく近づいて聞いた。
「初めてですな。では天下輪廻法の仕組みから」
案内人は小さな木の板に図を描きながら説明する。
「十年ごとに全財産を国に返納。ただし功徳帳の点数は持ち越し可」
「功徳点で次期の立場が決まります」
「百点で農民、五百点で商人許可、千点なら武士格として」
「功徳百点にて米百石相当の開始資金」
地方商人が眉をひそめた。
「つまり金を功徳に替えねば、来期は無一文?」
「左様。ゆえに皆、必死で功徳を…」
別の新参者が割り込む。
「待て。金持ちが功徳を買い占めたら結局同じでは?」
案内人の顔が曇った。
「…ええ、実はそれが問題でして」
案内人の説明を最後まで聞くことなく、二人は取引所を後にした。
功徳を数字として売り買いする光景が、胸の奥に鈍いざらつきを残していた。
「本当に人の価値は数で測れるのか」
その答えを探すように、二人は洛中の裏通りへ足を向けた。
洛中の裏通り。仁斎たちはある診療所の前で足を止めた。朝早くから病人の列ができている。
中では老医師・曲直瀬道三が診察中だった。
「次の方」
「先生、でも診察代が…」
「要らぬ。病を治すのが医者の務めじゃ」
奥の部屋では若い医師たちが医書を写している。
弟子の一人が心配そうに言った。
「先生、明日で輪廻です。功徳は貯めておられぬのですか」
道三は静かに笑う。
「わしの功徳は、お前たちじゃ。この二十年で三百人の医者を育てた」
「彼らが救った命は数え切れぬ」
その時、戸が開き三成が入ってきた。
「道三殿」
「おお石田殿。診察ですかな」
「いえ、これを」
三成が差し出したのは功徳奉行の認定書だった。
『医師育成による特別功徳、五百点』
道三は驚く。
「これは…いつの間に」
「民の嘆願です。あなたの弟子たちが各地で無償治療を行っている」
「その報告が山のように届きました」
「真の功徳は、民が見ています」
道三の目に涙が浮かんだ。
診療所を後にすると、仁斎は無意識にため息をついていた。
「これが真の功徳だ」――その思いは確かだった。
だが町の空気は、そればかりではないことを告げていた。
角を曲がると、堺筋の豪邸から華やかな笛や太鼓の音が響いてきた。
堺筋の豪邸では対照的な光景が広がっていた。
「功徳二千点突破記念の宴じゃ!」
淀屋の大邸宅では朝から宴会の準備。門前には長い列。
「米の施しで功徳一点もらえるそうだ」
番頭が米を一人ずつ配る。
「はい、功徳帳に判を押します。次!」
列の中の農民が呟いた。
「…これが慈善か」
邸内では豪商たちが集まっている。
「淀屋殿は賢い。小さな施しで大功徳」
「功徳さえあれば永遠に富み続けられる」
淀屋が高笑いした。
「新しい身分制度じゃ。功徳貴族の誕生よ」
仁斎は遠くからその様子を見て顔を歪めた。
同じ通りの向かい合った建物。仁斎と三成は興味深い光景を目にする。
東側には立派な瓦屋根の建物。看板には金文字で「淀屋様御寄進之寺子屋」。
中を覗くと立派な机と硯。しかし生徒は三人だけ。教師は欠伸をしている。
西側には粗末な小屋。看板もない。
しかし中は子供たちで満員。老教師が熱心に教えていた。
「先生、この字の意味は?」
「よく聞いてくれた。これはな…」
通りかかった母親が言う。
「あの先生は二十年間無報酬で教えてる」
「うちの子も、あそこで学ばせたい」
仁斎が三成に問うた。
「どちらが真の功徳だ?」
三成は西側の小屋を見つめる。
「…民が選んでいますな」
淀屋の邸から少し離れた町筋では、別の豪商が帳簿を前に沈思していた。
茶屋四郎次郎である。
同じ功徳二千点でも、使い道をどう選ぶかで人は変わる――それを示すように。
豪商が帳簿を前に悩んでいた。
「旦那様、決断の時です」
茶屋は立ち上がる。
「よし、全財産を新しい橋に投じる」
「天王寺への橋があれば民の往来が楽になる」
番頭が慌てた。
「しかしそれでは来期の商売の元手が…」
茶屋の目に怒気が籠る。
「黙れ!橋があれば民が助かる」
しかし別の番頭が耳打ちした。
「旦那様、実は橋の功徳点は来期に持ち越せると」
「大型橋なら功徳五百点は確実です」
茶屋の表情が変わる。
純粋な善意に計算が混じる瞬間だった。
番頭が苦笑する。
「やはりお考えは同じで」
「いや…」
茶屋は首を振る。
「橋は作る。民のためだ」
「…功徳もあればなお良いがな」
酉の刻。仁斎と三成は群衆に紛れて安土城跡へ向かった。
道中、様々な人々の姿が目に入る。
大八車に財を積んで向かう商人。
「十年分の蓄えじゃ。燃やすのは惜しいが…」
「でも功徳八百点は確保した」
一方、手ぶらの職人。
「俺は毎日良い仕事をしただけだ」
「功徳? 知らねえな。でも後悔はねえ」
安土城跡。巨大な炬火台の前。
すでに炎は天を焦がすほどに燃え上がっている。
ある老婆が小さな包みを震える手で掲げた。
「亡き夫の形見じゃ…」
涙を流しながら炎に投じる。
若い商人が帳簿の束を投げ入れる。
「これで借金の証文も消える!」
一方、淀屋の一行は余裕の表情。
「形だけ燃やせばよい。功徳二千点あれば、すぐに元通りじゃ」
炬火台の近くで、仁斎は曲直瀬道三を見つけた。
手には医学書の束。
「先生、それは…」
「わしの写本じゃ。もう必要ない」
道三は微笑む。
「お前たちがおる。知識は既に伝わった」
「物は燃えても、技と心は残る」
炎の熱気と人々のざわめきから逃れるように、仁斎は人混みを外れた。
桜の木陰に足を踏み入れると、そこは嘘のように静かだった。
待っていたのは、桔梗だった。
「宰相様、ご無事で何より」
「桔梗か。祭りの警備は?」
「部下に任せました。それより…」
桔梗は仁斎の顔をじっと見つめ、沈黙する
「…一年前とは顔つきが変わられました」
仁斎は苦笑する。
「老けたか?」
「いえ…穏やかになられた」
仁斎は燃え盛る炎を遠目に見ながら語り始めた。
「桔梗、この十年で私は多くを学んだ」
遠くで、誰かが泣きながら財を投じる声が聞こえる。
桔梗は黙って、その横顔を見つめていた。
かつて冷徹に数字だけを追っていた男の顔ではない。
「信長様はとんでもない問いかけを残していかれた」
仁斎は手を伸ばし、舞い落ちてきた火の粉を掌に受ける。
熱い。だが、不思議と心地よい熱さだった。
「天下輪廻法…最初は狂気の沙汰だと思った」
桔梗は何か言いかけて、唇を結んだ。
この一年、影から見守ってきた。
不眠不休で働く姿も、民の前で罵倒される姿も、深夜一人で苦悩する姿も。
「だが今日一日で見えてきた」
「この制度は鏡なのだ」
「鏡?」
桔梗の問いに、仁斎は振り返る。
松明の光が、二人の間で揺れた。
「そう。人の本性を映す鏡」
風が強くなり、桜の花びらが二人の間を舞う。
まるで雪のように。いや、灰のように。
仁斎は続ける。声は静かだが、確信に満ちていた。
「欲深い者はより欲深く、善なる者はより善く」
「すべてがあからさまになる」
彼の視線が、遠くの炬火台へ向かう。
そこでは今も、人々が己の過去を炎に投じている。
桔梗は、ふと気づいた。
仁斎の手が、微かに震えている。
疲労か。それとも——
「道三殿のような真の功徳者もいれば」
炎が一際高く上がる。誰かが大きな財を投じたのだろう。
「淀屋のような功徳貴族もいる」
仁斎の声に、苦みが混じる。
「形だけの慈善もあれば、心からの善行もある」
桔梗は一歩前に出た。
もっと近くで、この人の表情を見たかった。
「完璧な制度などありはしない」
仁斎は一度目を閉じる。
長い、長い沈黙。
遠くで子供たちの歓声が聞こえる。
「見て! 火の粉が星みたい!」
「だがこの不完全さこそが…」
桔梗が静かに続けた。
「人を考えさせる?」
二人の目が合う。
「その通りだ」
仁斎は微笑んだ。
それは、桔梗が初めて見る、心からの笑顔だった。
「金の価値とは何か」
火の粉が、二人の周りを踊る。
「善行とは何か」
どこかで、祭り囃子が始まった。
「人の価値とは何か」
仁斎は空を見上げる。
星が見えない。炎の光が強すぎて。
「信長様はこの問いを日本中に投げかけた」
桔梗は、その横顔を見つめ続ける。
言葉では言い表せない、何かが胸に込み上げてくる。
「そして民は、それぞれの答えを見つけつつある」
風が止んだ。
一瞬の静寂。
二人だけの世界。
その時——
三成が息を切らして駆けてきた。
「宰相様、大変です」
「どうした」
「家康様と政宗様が兵を集めていると」
仁斎は意外にも穏やかだった。
「そうか」
「宰相様?」
仁斎は炎を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「家康殿は賢い。だが、賢すぎる」
三成と桔梗は、その言葉の意味を測りかねて顔を見合わせた。
「今日、私は見た。功徳を貯めた者も、貯められなかった者も」
「皆、何かを考え始めている」
風が吹き、遠くから祭り囃子が聞こえてくる。
「家康殿が兵を挙げれば、どうなると思う?」
仁斎は自問自答するように続ける。
「民は問うだろう。『なぜ今、戦なのか』と」
「『やっと新しい世が始まろうとしているのに』と」
炎に新たな財が投じられ、火柱が上がる。
「政宗殿は若い。野心もある」
「だが、奥州の民もまた、この輪廻を経験した」
「主君の野心と、自分たちの新しい希望。どちらを選ぶか」
仁斎は苦笑した。
「何より、彼らは気づいていない」
「この混沌こそが、最大の秩序だということを」
「混沌が…秩序?」三成が問う。
「そうだ。皆が自分の生き方を模索している」
「それは、上から押し付けられた秩序より、はるかに強い」
仁斎は振り返り、二人を見据えた。
「武力で抑えつけようとすれば、かえって反発を生む」
「民は、もう昔の民ではない」
「自分で考え、選ぶことを覚えてしまった」
遠くで、誰かが歌い始めた。
輪廻祭の新しい歌だろうか。
「家康殿も政宗殿も、きっと気づく」
「刀では、人の心は支配できないと」
「そして、心なき支配は、長続きしないと」
仁斎は静かに結論づけた。
「だから私は、心配していない」
「彼らもまた、この国の一部として、答えを見つけるだろう」
三成は複雑な表情で問う。
「では、我々は何もしないのですか」
「三成、我々の仕事は終わった」
仁斎は立ち上がる。
「種は蒔いた。芽も出た」
「あとはこの国の者たちが育てていく」
夜も更けて、炬火の炎が小さくなってきた。
仁斎は最後にもう一度炎を見つめる。
「信長様」
心の中で語りかけた。
「あなたの残した混沌は確かに根付きました」
「美しくも醜くもある」
「でも確かに生きています」
風が吹き、火の粉が舞い上がる。
まるで信長の高笑いのように。
桔梗が問うた。
「宰相様はこれからどうなさるのですか」
仁斎は遠くで遊ぶ子供たちを見つめる。
松明の光に照らされた無邪気な顔。
彼らが大人になる頃、この国はどうなっているだろうか。
「信長様の問いかけには、一つの形を示せた」
「だが、私にはまだ為すべきことがある」
「為すべきこと、ですか」
「ああ。私は算盤と帳面しか知らぬ男だ」
「だが、この十年で学んだことがある」
仁斎は立ち上がる。
火の粉が、彼の周りを舞った。
「種は蒔いた。だが、それを育てる者も要る」
「私のような…いや、私とは違う道を歩む者が現れた時」
「その者が迷わぬよう、道標を残しておきたい」
三成が驚く。
「まさか、学問所を開かれるのですか」
「いや、もっと自由な場所だ」
「算盤だけでなく、人の心の機微も学べる場所」
「商いの理と、人の情を共に学ぶ場所」
仁斎は空を見上げる。
星が、ようやく見え始めていた。
「銭や米を動かすことは、結局のところ人と人を繋ぐ業」
「その本質を、次の世に伝えたい」
「それが、私がこの国で生きる意味かもしれぬ」
桔梗が静かに言う。
「…また、お会いできますか」
仁斎は振り返り、微笑んだ。
「十年後の輪廻祭には必ず」
彼は炎に背を向けて歩き始める。
「どこへ行かれるのです」
三成が呼び止める。
「まずは諸国を巡る」
「この国には、私の知らぬ知恵がまだあるはずだ」
「それを学び、次に伝える」
仁斎の歩みは確かだった。
信長への答えは一つ出した。
だが、己が何者で、何を為すべきか。
新しい夜明けが、もうすぐそこまで来ていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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