第七十四話:制御不能の実験
信長の死から二週間後。
安土城の大手門前広場は異様な熱気に包まれていた。
巨大な炬火台が設えられ、その周りを民衆が黒山の人だかりとなって押し寄せている。富を失うことを恐れる者、新たな富を得られると信じる者。期待と恐怖が混じり合い、一種の宗教的な狂騒を生み出していた。
仁斎は櫓の上からその狂騒を冷徹に見下ろしていた。
やがて前田利家が神妙な面持ちで進み出る。
「信長様の御遺言により、まずは織田家の財宝から!」
金の茶釜、南蛮渡来の宝石、天下に名高い名刀の数々。それらが次々と躊躇なく炎の中へと投じられていく。
民衆から地鳴りのような歓声が上がった。
「信長様は約束を守られたぞ!」
仁斎は懐から一通の手紙を取り出す。信長が彼だけに遺した最後の言葉。
炎に照らされながら再度読み返す。
『仁斎へ
お前の作った仕組みは見事だった。
だが、それは所詮、人間を数字に変換する道具だ。
ワシの輪廻法は違う。
これは、人間を人間に戻す道具装置だ。
金持ちも貧乏人も、十年後には同じ場所に立つ。
その時、何が人の価値を決めるか。
さあ、どちらが正しいか、証明してみろ。』
そして信長の予言通り、日本は制御不能の混沌へと突入した。
まず大坂の商店街に「功徳屋」という奇妙な看板を掲げた店が乱立した。
「さあさあお立合い! 功徳を積むお時間がない旦那方に代わりまして!」
店主が声を張り上げる。
「井戸を一つ掘れば功徳帳に一筆!」「橋を一つ架ければ十筆! 我らがそのお役目、肩代わりいたしますぜ!」
仁斎が視察に訪れると、石田三成が苦々しい顔で報告する。
「功徳の売買が始まっています。金で功徳を買うという本末転倒が…」
次に異変は港で起こった。
堺の港には南蛮船が異常な数停泊している。
密偵の報告。
「豪商たちが財産を銀に換えて海外へ。一日に十隻以上が出航しております」
国富が凄まじい勢いで流出していた。
さらに京の街角では怪しげな僧が説法をしていた。
「輪廻法は仏の教えなり! 財を捨てよ、さすれば来世で報われん!」
信者たちが全財産をその新興宗教に差し出していく。
三成が眉をひそめた。「詐欺まがいの宗門が各地で…」
大坂城で開かれた緊急評定は阿鼻叫喚の巷と化した。
加藤清正が叫ぶ。「肥後では農民が来年の種籾まで供出しようとしております!」
福島正則が続く。「尾張では功徳の大きさを巡って村同士が血で血を洗う争いを!」
細川忠興が嘆く。「京では寺社が功徳の認定権を巡り対立を…」
報告の全てが仁斎の予測の範囲内でありながら、その熱量は予測を遥かに超えていた。
仁斎は頭を抱えた。
「これは…勘定や算盤では、説明がつかぬ。人の欲望と愚かさの暴走だ」
その頃、江戸城では徳川家康が静かに碁石を置いていた。
「予想通りだ。混乱は深まるばかり。…そろそろ我らの出番かもしれぬな」
奥州では伊達政宗が南の空を見つめていた。
「面白い。中央が混乱すれば奥州の独立も夢ではない。混乱は若い獅子にとって最高の狩場だ」
夜、仁斎は一人執務室にいた。
机の上には日本中から集まった混乱の報告が山となっている。
功徳インフレ、通貨不安、社会秩序の崩壊。
「信長様…これがあなたの望んだ世界ですか」
その時、ふと仁斎は気づいた。
報告書の片隅に記された小さな数字の変化に。
『待てよ…混乱しているのは確かだ。だが…』
彼は報告書を読み返した。そこには負の側面だけではない奇妙な数字が記されていた。
貧民を救済するための炊き出しの急増。
身分を超えて共同で治水工事を行う村々の出現。
仁斎は翌朝、自らの目で確かめるために城下を歩いた。
そして彼は見た。
豪商の一人が私財を投じて寺子屋を開いている。
「なぜこのようなことを?」
「へえ、功徳のためでさあ。…でもな」
商人は照れくさそうに笑った。
「子供たちの笑顔を見ていると、それだけで銭とは違う価値があるような気がしましてね」
別の場所では武士が町人と一緒に汗だくになって井戸を掘っている。
仁斎は理解し始めた。
『これは…人間性の実験だ。信長は金という絶対的な物差しを一度壊すことで、人々に問いかけたのだ。お前たちの本当の価値は何だと』
城に戻ると新たな問題が彼を待っていた。
「宰相様! 西国で一揆の動きが!『輪廻法は金持ちの陰謀だ』という噂が流れております!」
さらに桔梗が影の中から現れた。
「家康様と政宗様が密かに兵を集めていると」
仁斎は決意した。
「混沌は始まったばかりだ。だがこの中から新しい秩序を生み出してみせる」
彼は懐の中で、信長の手紙を強く握りしめた。
『あなたの挑戦、必ず答えを出します』
遠くで雷鳴が轟いた。
本当の嵐は、これからだった。
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