第七十三話:第六天魔王の最期
夜が白み始めた大坂城天守。
信長は仁斎だけを枕元に呼んだ。
その呼吸は浅く顔には死相が浮かんでいる。だが瞳だけが常ならぬ輝きを放っていた。
「なあ仁斎、ワシとお前、どちらが狂っていると思う」
静寂の中、信長は唐突にそう問いかけた。
仁斎は答えに詰まった。
「…どちらも上策にあらず」
ようやく絞り出したその答えに、信長は満足げに笑った。
「ハッ、それでいい」
彼は激しく咳き込み、その口の端から一筋の血が流れた。それでも笑みは消えない。
「お前は算盤で世界を作り富を生み出した。ワシはその算盤から生まれた銭を燃やす。さあ、どちらが本当の大うつけか歴史に判断してもらおうではないか」
その日の昼過ぎ。
石田三成が仁斎の許しを得て、信長の病床を見舞った。彼は枕元にひれ伏し最後の諫言を試みた。
「上様! お考え直しを! 天下輪廻法は理論的に破綻しておりまする! このままでは本当に国が…。まず条が欠けます。他にも功徳の定義が曖昧、査定は二重基準、会所監査は人手が足りぬ。不正誘因が大きい」
その冷徹で論理的な分析を、しかし信長は遮った。
「破綻? それがどうした」
瀕死の第六天魔王が最後の力を振り絞り身を起こす。
「三成よ覚えておけ。完璧な仕組なぞ人を殺すだけだ」
その言葉は仁斎が作り上げた合理的な世界への、最後の、そして最も本質的なアンチテーゼだった。
そして日没。
天守の巨大な窓が燃えるような茜色に染まる。
信長はもはやほとんど声も出せぬ状態だった。
彼は、おぼつかない手つきで傍らに座る仁斎の手を強く掴んだ。
その力は死にゆく者とは思えぬほど強かった。
「仁斎…これがワシの最後の一手だ」
信長はぜいぜいと息をしながら言葉を紡ぐ。
「お前なら…この混沌に秩序を見出せるか」
「…」
「それとも混沌に飲まれるか」
信長は仁斎の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には恐怖も後悔もない。ただ己が仕掛けた最後のディールの結末を見たいという、純粋な好奇心だけが宿っていた。
最後の言葉。
「楽しみじゃのう」
そして、第六天魔王は笑った。
その顔に満足げな笑みを浮かべたまま、静かに息を引き取った。
天正二十八年(1600年)秋。
織田信長、六十六歳。
二度目の死だった。
仁斎はその手を握ったまま動けなかった。
窓の外では日が完全に沈み、世界は闇に包まれていく。
『…逝かれたか。嵐のように生きて、そして嵐のように…』
仁斎は静かに立ち上がると信長の亡骸に深々と頭を下げた。
そして彼は踵を返し部屋を出る。
その背中はもはや宰相のものではなかった。
最強の経営者が遺した最も厄介で最も壮大な事業を、引き継いだただ一人の後継者の背中だった。
仁斎が部屋を出ると、廊下には重臣たちが集まっていた。
皆、仁斎の顔を見て理解した。
前田利家が、老いた体を震わせて泣いている。
柴田勝家も、目を赤くしている。
だが仁斎は立ち止まらない。
外では、雷鳴が轟いた。
まるで、天が第六天魔王の死を悼むかのように。
いや、違う。
これは、信長が天から笑っている音だ。
廊下の先で太鼓が二度、乾いた音を打つ。
『さあ、始めるぞ』
その夜、安土の帳簿から朱が消えた。
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