第七十二話:野心と看破
大坂城書庫の最深部。
そこは仁斎が作り上げた、この国の経済データの心臓部だった。
天井まで積み上げられた帳簿。
十年分の記録が、迷路のように連なっている。
「ここなら誰も来ない」
家康が満足げに呟いた。
松明の明かりが、無数の数字を浮かび上がらせる。
まるで、仁斎の頭脳の中を覗いているかのように。
その中央で二人の男が対峙していた。長谷川仁斎と徳川家康。
この国の事実上のナンバー2とナンバー3による、極秘の会談だった。
先に沈黙を破ったのは家康だった。
その声は氷のように冷たい。
「仁斎殿、そろそろ現実を見るべきだ」
「…と申されますと」
「天下輪廻法など国を滅ぼす妄想に過ぎない。貴殿ほどのお方がそれを分からぬはずがない」
家康の目は全てを見通していた。仁斎の内心の葛藤すらも。
「ではどうしろと」
「簡単なことだ。あの法は形だけ残し、その中身は我らの都合の良いように骨抜きにする」
家康は静かに続けた。
「それが政治というものだ。…仁斎殿、織田の時代は終わる」
その言葉は計算され尽くした甘い毒だった。
「信長公はもう長くない。あの御方の夢と共にこの国を沈ませる義理はないはずだ。次はより合理的で安定した統治が必要だ。あなたならそれが分かるはず」
それは仁斎の思想そのものを肯定しながら、その主君を否定させる巧みな誘惑だった。
「私に信長様を裏切れとおっしゃるか」
「裏切り? いや」
家康は静かに首を振った。
「これは時の流れというものだ」
その時、奥の帳簿の山が音を立てて崩れた。
そこに桔梗に肩を借りながら信長が立っていた。
血の混じった激しい咳をしながら、彼は壁に片手をつき仁斎と家康を睨みつけていた。
瀕死の身でありながらその存在感は、この狭い密室の空気を支配するには十分すぎた。
「時の流れだと...? 笑わせるな家康」
信長は吐き捨てるように言った。
「時は俺が決める」
家康はその能面のような表情を崩さぬまま、静かに立ち上がり深々と頭を下げた。
だが信長はもはや家康など見てはいなかった。
彼の燃えるような瞳はただ一人、仁斎だけを見据えていた。
「仁斎、こいつらの甘言に耳を貸すな」
信長は壁を伝い仁斎の元へ一歩近づいた。
「お前とワシの勝負はまだ終わっていない」
それは主君が家臣にかける言葉ではなかった。
好敵手が好敵手に告げる挑戦の言葉だった。
仁斎はその狂気と奇妙な信頼に満ちた瞳から、目を逸らすことができなかった。
家康はその二人の常人には理解しがたい関係性を、静かに観察していた。
そして彼はこのディールが完全に失敗したことを悟った。
信長はそれだけを言うと再び激しく咳き込みながら、闇の中へと去っていった。
残された密室。
家康は仁斎に一礼すると何も言わずその場を立ち去った。
一人残された仁斎はその場に立ち尽くしていた。
家康の提案は合理的だった。そしておそらくは正しい道だったのかもしれない。
だがあの男がそれを許さない。
あの第六天魔王は自らが始めた最後のゲームの結末を見るまで、決して終わることを許さないのだ。
『…勝負。そうか、いつのまにか俺は巻き込まれていたのだ。あの男にとって天下とは国とはただの盤面だ。そして俺はその最後の相手』
仁斎は自嘲するように笑った。
『なんと厄介な主に仕えてしまったことか』
彼の逃げ道はもはやどこにもなかった。
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