第七十一話:実務と混沌
天下輪廻法の発布から三日後。
大坂城は蜂の巣をつついたような騒ぎに陥っていた。仁斎の執務室には陳情と抗議の書状が山をなしている。
「宰相様! 堺の商人衆が面会を求めております!」
「博多の豪商からも使者が」
「京の両替商が集団で…!」
石田三成が疲れ切った顔で報告を続ける。
仁斎は膨大な書類に目を通していた。浮かび上がるのは当然の、しかし致命的な問題点の数々だった。
机上の書状の一つを手に取る。
「宰相様への直訴」と記された堺商人の嘆願書。
『私めの蔵には南蛮渡来の生糸が三千反。これを銭に換えれば銀五百貫。しかし売らねば反物のまま。財産とは銭か物か、お教え願いたく』
次の書状。京の寺院からの抗議文。
『当山の仏像は純金にて三十貫の価値あり。されど仏体を財産と申すは罰当たりではないか』
さらに深刻なのは、長崎奉行からの密書。
『南蛮船への積み荷、通常の五倍。皆、銀を呂宋へ運んでおります。このままでは国の銀が枯渇します』
そして最も仁斎を悩ませたのは、ある鍛冶屋からの素朴な問い。
『鉄砲を作るは功徳か否か。守りに使えば功徳、攻めに使えば罪。しかし作る時点でそれを誰が判断できましょうや』
仁斎は積み上がった問題の山を見渡した。
「理論では『功徳』は明白だった。だが現実は…」
「これは…想像以上だ」
三成がすがるような目で進言する。
「宰相様、上様にお伺いを立て、この法の撤回を…」
「いや」
仁斎は静かに首を振った。
「上様はすでに次の一手を打たれた。後は我々がこれを形にするだけだ」
その時一人の侍医が血相を変えて部屋へ駆け込んできた。
「宰相様、上様が…」
仁斎と三成は視線を交わすと信長の私室へ急いだ。
薬草の匂いが立ち込める薄暗い部屋。信長は床に伏していたがその意識ははっきりしていた。
「騒がしいな仁斎」
「上様、お休みください」
「休む? 面白いことを言う」
信長は身を起こそうとして激しく咳き込む。その手の甲に赤い血が滲んだ。
「どうだ、混乱しているか」
「…はい。私の予想を超えています」
「そうか。それは良い」
信長のその窪んだ瞳に、まるで悪戯を成功させた子供のような輝きが宿った。
「仁斎、お前は優秀だ。だが優秀すぎる」
「…と申されますと」
「お前の作る仕組みは完璧だ。完璧すぎて人が考えることを止める」
信長は血の混じった痰を吐き捨てた。
「だからワシは穴だらけの燃える火種を投げ込んだのだ」
「火種…」
「そうだ。お前たちが必死に考え工夫し、時には失敗する。それこそが生きた国というものだ」
仁斎は理解した。
『完璧を求める自分への批判か。それとも、もっと深い意図が...。上様はわざと…。わざと穴だらけの法を作った』
信長は不敵に笑う。
「さあどうする? このまま混乱に身を任せるか。それともお前らしい『上策』を見つけ出し、このワシの最後の問いに答えるか」
それは師が弟子に残す最後の挑戦状だった。
その頃、城内の一室で徳川家康は一人碁盤に向かっていた。
「輪廻法か…。信長公らしい破天荒な一手だ」
白石を置きながら呟く。
「だがこの混乱は必ず収束する。その時民は安定を求める」
黒石を置く。
「仁斎殿は優秀だが所詮は商人。武家を統べることはできまい。…時を待つ。それが肝要」
老獪な狸は混乱の遥か先を既に見据えていた。
夜。仁斎は一人執務室で考えていた。
『上様は私に全てを丸投げされた。いや…これも俺への最後の査定か』
彼の机の上にはすでに具体的な実施案の草稿が広げられていた。
段階的な導入。功徳の明確な基準の設定。不正を防止するための相互監視の仕組み。
『理想と現実の間で答えを見つけるしかない』
ふと窓の外を見る。東には家康。北には政宗。それぞれがこの混乱の後を虎視眈々と狙っている。
『皆、信長様亡き後を考え始めた』
翌朝、仁斎は三成と最終確認を行っていた。
「これで行く。上様の理想を現実的な形に落とし込む」
「しかし宰相様、各方面からの反発は必至です」
「分かっている。だが…もう後戻りはできない」
仁斎は窓の外を見た。安土城ではすでに輪廻祭の準備が始まっているという。
「上様が残したこの巨大な宿題を解く。ただそれだけだ」
遠くで雷鳴が轟いた。
まるで来るべき嵐を予告するかのように。
信長の投げた不完全な火種は、確実に時代を動かし始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




