第六十九話:一期一会
仁斎との問答の後、信長は誰にも告げず京の都へと足を運んだ。
彼が向かったのは御所でも大寺院でもない。聚楽第の一角にひっそりと佇む一つの茶室。
そこに住まうのは、かつて彼が見出し、そして秀吉の時代にも茶の湯の天下人として君臨し続けた老人。
千利休。その時すでに七十八歳を超えていた。
侘びた茶室。無駄なものが一切ないその空間は、仁斎が作り上げた完璧で合理的な世界とは対極にあった。
信長の前に座す利休は静かに茶を点てている。
だがその指先は老いにより微かに震えていた。その震えが茶筅の動きを僅かに乱す。
「利休、手が震えておるぞ」
信長の言葉に利休は顔を上げず静かに答えた。
「もう歳にございます。この手で茶を点てられるのもあと幾度か…」
その言葉が自らの死期を悟る信長の胸を強く打った。
茶室に漂う炭の香り。
それは本能寺のあの日と同じ香りだった。
ただ違うのは、自分も利休も、あれから二十年の歳月を重ねたということ。
あの日、利休は何と言ったか。
「一期一会にございます」
「いちごいちえ?」
今日この茶室で茶を差し上げるこの瞬間、それは二度と繰り返されることのない一生に一度だけの出会い―そう心得て茶を点てていると。
永遠を求めていた自分には、戯言にしか聞こえなかった。
炭がパチリと音を立てる。
現在に引き戻された信長の前で、利休の震える手が茶筅を置いた。
「利休よ、そなたは間もなく死ぬ。それは恐ろしくないのか?」
「恐ろしゅうございます。ですが…だからこそ今この一服が尊いのです」
利休は静かに震える手で点てた茶碗を信長の前に置いた。
その言葉に信長は自らの人生を重ね合わせた。
「ワシは永遠に残る国を作ろうとした。じゃが利休は一瞬の茶に命をかける」
「上様、永遠も一瞬も実は同じにございます」
「どういうことじゃ?」
「この茶碗もいずれ割れます。上様のお作りになったこの日の本もいつかは形を変えましょう。永遠なるものはございませぬ」
利休は続けた。
「ですが今この茶碗がここに在ること、それこそが永遠なのです」
その禅問答のような言葉に、信長の中で何かが弾けた。
彼は衝動的に目の前の茶碗を手に取ると床の石畳に叩きつけた。
ガチャンという無慈悲な音と共に、名もなき、しかし完璧な均衡を保っていた茶碗が粉々に砕け散った。
「ならばこの永遠とやらは今終わったな」
信長の声は冷え切っていた。
だが利休は動じなかった。彼はただ静かにその破片を見つめていた。
「上様、その破片を御覧ください」
「ただの破片じゃ」
「いえ、新しい形の始まりです。金継ぎをすれば前より美しくなることもございます」
利休は信長を見据えた。
「破壊がなければ創造もございませぬ。…それは上様ご自身がその生涯をかけて成してこられたことではございませぬか」
信長は愕然とした。
自分が作り上げた完璧な世界に絶望し、それを壊したいと願っていた己の衝動。
その正体を目の前の老人は静かに、そして的確に言い当てていた。
「破壊が新たな創造の始まり…か」
信長は自嘲するように笑った。
「利休よ、そなたは金銀を積まれても同じ茶は二度と点てぬと言ったな」
「はい。一期一会にございます」
「ならば…」
信長は眼下に広がる自らが作り上げた完璧な日の本を思った。
「…ならば国もまた永遠である必要はないのかもしれぬな」
その言葉を聞き老いた利休が初めて心からの笑みを浮かべた。
「上様がそれに気づかれたなら私の茶も本望にございます」
第六天魔王はその生涯の最後に、破壊の先にある真の創造の意味を、この一人の茶人から学んだのかもしれない。
それは仁斎の教えたいかなる合理性よりも遥かに深く、そして人間的な悟りだった。
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