第六十七話:富の代償
信長がお忍びで市中を視察した翌日。
大坂城の政務室には重い空気が漂っていた。
信長は仁斎と石田三成だけを呼び出し、無言で座している。
三成が緊張した面持ちで、最新の書状を読み上げ始めた。
「は。まず国全体の米の取れ高について。十年前に比べ凡そ三倍となっております。これも上様の検地により、隠し田もなくなり、正確な石高が把握できたおかげにございます。また楽市楽座のお定めにより、商いも大いに栄え…」
「よい」
信長が遮る。
「その施策が、本当に民のためになったか。それを聞きたいのじゃ」
三成は一瞬言葉に詰まった。
「三成、昨日路地裏で見た親子は、この帳簿のどこに載っておる?」
「は?」
「布を煮て飲んでおった子じゃ。あれは勘定に入っておるのか?」
三成は答えられない。信長は続けた。
「言え。大店の主と貧しき民との差はどうなっておる」
主君の射抜くような視線に、三成は観念した。
「…は。我が国の豪商上位十家が持つ富は、国全体の富の凡そ四割を占めております。一方で…下の者たちの暮らし向きは、ここ数年の物の値が上がったことにより、十年前よりも実のところ悪うなっているとの…」
その言葉を聞きながら、信長の意識は遠い過去へと飛んでいた。
********
父信秀が急死し、織田家が内乱に揺れていたあの頃。
「尾張の大うつけ」と呼ばれていた若き信長は、常に死と隣り合わせだった。
裏切り、謀略、そして絶え間ない戦。
最も忘れられぬのは、平手政秀の諫死だった。
金がないゆえに家臣団は分裂し、腹心の老臣は己の命をもって諫言した。
「銭のためなら主君も裏切る。それが人か」
若き日の信長は、銭の力の恐ろしさを骨身に刻んだ。
銭とは力。銭とは命。その冷徹な事実が、彼を天下人へと駆り立てた。
そして天下統一が見えてきた頃。
信長は家臣たちに語った。
「ワシは天下布武を成し遂げる。じゃが、それは始まりに過ぎぬ。真に目指すは、民が安んじて暮らせる世じゃ」
あの頃は、本気でそう信じていた。
楽市楽座で商いを自由にし、検地で税を公平にすれば、民は豊かになると。
********
信長は現在へと意識を戻す。
『じゃが、現実は…』
評定が終わった後。
信長は仁斎を一人、天守へと呼び出した。
二人は眼下に広がる大坂の街を見下ろしていた。煌々と灯る明かり。それは繁栄の証のはずだった。
「仁斎よ」
信長が静かに口を開いた。
「そなたの言う『商い』は、時に無慈悲ではないか」
「…と申されますと?」
「富める者はいよいよ富み、貧しき者はその富ゆえに、なお一層貧しうなる」
仁斎は表情を変えずに答えた。
「それが物事を良くし、国全体の富を増やしまする。商いの理として…」
「理か」
信長は吐き捨てるように言った。
「国は豊かになった。されど民一人一人はどうじゃ?」
仁斎は答えられなかった。
「仁斎よ、ワシは間違うておったのかもしれぬ」
「何がでございますか」
「楽市楽座じゃ。座を廃して誰もが商いできるようにした。それは良かった。じゃが結果はどうじゃ? 力ある商人だけが生き残り、弱き者は淘汰された」
信長は窓の外を見つめながら続けた。
「検地もそうじゃ。税を明らかにして公平にしたつもりじゃった。じゃが結果は? 逃げ場を失った百姓が、より苦しんでおる」
深く息を吐いた。
「若き日のワシは『天下布武』を掲げた。力で統一すると。じゃが今思うのは『天下静謐』じゃ。民が穏やかに暮らせる世じゃ。それなのに、ワシの作った世は…」
信長は自嘲的に笑った。
「ワシの天下とは何じゃ? 結局は金持ちどもの天下か?」
「銭が銭を生む仕組み。汗も流さずに富む者ども。それは結局、新しき身分ではないか」
信長の瞳には、深い失望の色が浮かんでいた。
「ワシは古き身分の仕組みを壊し、新しき身分の仕組みを作っただけか」
「上様、それは…」
「黙れ!」
信長が初めて声を荒げた。
「ワシは何のために戦うてきた? 比叡山を焼き、一向宗と戦い、古き権威を打ち壊してきた。それは何のためじゃ?」
仁斎は黙って聞いている。
「強き国を作るため。誰も飢えぬ国を作るため。そう思うておった。じゃが…」
信長は拳を握りしめた。
「銭のために民を見捨てる。それがワシの作った世か」
『違う。これは理に適った仕組みだ。数は正しい』
仁斎の内心は否定した。だが同時に疑問も湧く。
『なぜこの御方は、誰も気づかぬ矛盾を見抜かれる? これもまた、この御方の天才か』
「仁斎よ、そなたの作った仕組みは見事じゃ。寸分の狂いもない」
信長は窓に背を向けた。
「じゃが、完璧すぎる。人が住む世ではない」
その夜、信長は一人天守に留まった。
若き日の記憶が蘇る。
銭のために裏切った家臣たち。
銭のために命を売った者たち。
「ワシの作った世は静謐どころか、銭の戦場じゃ。刀の代わりに算盤で殺し合うておる。これがワシの夢見た天下か…」
激しく咳き込む。
手のひらに、また血がついた。
「時がない。このままでは…ワシは何も成さずに果てる」
その時、信長の心の奥底で、ある決意が固まった。
「壊すしかない。この完璧なる地獄を、一度壊して作り直すしか…」
第六天魔王は初めて、自らが作り上げた仕組みに敗北を認めた。
そしてその敗北が、彼を最後にして最大の、そして最も破壊的な行動へと駆り立てることを、この時の仁斎はまだ知る由もなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




