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戦国M&A ~織田信長を救い、日本という国を丸ごと買収(マネジメント)する男~  作者: 九条ケイ・ブラックウェル
第二章:世界展開編
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第六十六話:豊かさの代償

信長は、咳き込むことが増えた自分の身体に、小さな亀裂が走り始めていることを自覚していた。齢六十六。肉体は確実に摩耗している。だが、その朝も彼の机には、仁斎と三成が整えた報告が並んでいた。


大名の年貢収入、南蛮貿易による輸出益、織田家の歳入。

計算は正確だった。誤りはない。にもかかわらず、数字の整然さが信長の心を空虚にさせた。


「……帳面を見ていても、何もわからん」

そう呟くと、彼は黙って立ち上がり、大坂城を出た。供はつけなかった。名を偽り、裕福な商人を装って。


堺筋――いま最も熱を帯びる商業の動脈には、三階建ての蔵が五十を超えて立ち並んでいた。茶屋四郎次郎の前には、すでに荷車が列をなしていた。


「今日の南蛮生糸、値は?」

「昨日比で二分高。三十匁です」

「……千反、仕入れる。支払いは手形で」


三万匁――かつての一大名の年収に等しい額が、一言で動いた。

その金が、今や一商家で平然と裁かれている。


信長は、帳簿を盗み見るように覗いた。

小大名を凌ぐ資金力を一商人が持つ。

それが、この国の“成長”の証だった。


「これが、俺の作った繁栄か……」

満足にも似た薄い笑みが浮かぶ。

だが、通りを外れ、一本の細い路地へと足を向けた瞬間、風景は音を立てて崩れた。


空気が変わる。

鼻を突く腐臭。

薄暗がりに横たわる、名もなき命の残骸。


壁には、かすれた墨でこう記されていた。

『日雇い 一日 米三合』

『残飯 一椀 米一合』


道端に崩れ落ちた男たちが、地面を見るでもなく、虚空に向かって呟く。

「十年前は米五合だった……今は三合……。物価は三倍になったってのに」

「新しい織機が来てからさ。十人の仕事を一人で回せるってよ。残りの九人? みんな放り出されたよ」


信長の足が止まった。

壁に張られた札が目に入る。

『本日の餓死者:七名』

『行き倒れは速やかに届け出ること』


さらに奥――

痩せ細った女が幼子を抱いていた。子が、声にならない声で泣く。

「おっかあ、お腹……すいた……」

「……ごめんね。もうちょっと、我慢しようね……」


女は着物の端を噛み切り、それを煮て、子の口元へ差し出していた。

信長は懐に手を伸ばし、銭を差し出した。

「……これを」


だが、女は首を振った。

「……いただけません。施しを受けたと知れたら、会所に報告が必要になります。そうなると、今より厳しく、取り立てられてしまうんです」


言葉を失った。

精緻な徴税制度が、布施すら許さぬ構造になっていた。

彼の設計した“合理”が、人の生を切り捨てていた。


信長は逃げるように路地を出て、茶屋に入り、静かに湯を啜った。

隣から、年老いた男たちの声が聞こえる。


「昔は隣と米を融通し合ったもんだがな……」

「今は手形がなけりゃ、米一粒も買えんよ」

「俺の息子、算盤が苦手でな……それだけで、どこからも声がかからん」

「識字率が上がったって、殿様は自慢してたが――字が読めなけりゃ、人間扱いもされねえ世の中になっちまった」

「結局、賢い奴だけが、生き残れるんだよなあ」


信長は立ち上がった。

胸の奥に、冷たい槍の穂先のようなものが突き立った。


その夜。天守最上階。

仁斎が提出した報告の数字は、改善を示していた。いや、完璧だった。


仁斎の言葉が、耳の奥で反響する。

「数字は、嘘をつきません」

「……そうだ。数字は、嘘をつかない。だが――」


信長は、路地裏の母と子を思い出した。

彼らは、報告上「二人」だ。

彼女の苦しみは、どのグラフにも現れない。


「……俺は算盤ばかり見ていた。人を、見ていなかった」


優れた制度。

効率的な市場。

完成された統治機構。


だがその中に、“人の心”はあったか?


信長は懐から、一枚の会所手形を取り出した。

自らが発行した、最高額面の手形。

それを、灯火にかざした。


「紙切れ一枚で人を生かし、紙切れ一枚で人を殺す……」


ゆらりと炎が上がる。


「……俺は仁斎と共に、怪物を創ったのかもしれん」


灰となって崩れ落ちていく手形を見つめながら、信長はようやく気づいた。

仁斎の制度は、確かに完璧だった。

だが、完璧すぎた。人間には、過ぎた設計だったのだ。


そして、自分はその設計図を最も忠実に、最も巧みに使いこなした。

その果てにできたのが――この、無音の地獄。


「……これが、俺の望んだ天下か?」

その瞬間、胸の奥で封印されていた何かが、音を立てて目を覚ました。

かつて、比叡山を焼いたあの激情。

破壊の衝動。

神にも悪魔にもなれる者だけが抱く、業火の本能。


「壊さねばならぬ。この、完璧すぎる地獄を――」


月のない夜。

大坂の街にともる無数の灯が、まるで怨嗟の業火のようにゆらめいていた。


第六天魔王は、自らが創り上げた楽園が、地獄であることを知った。

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