第六十五話:月下の観察者
早春、京都・細川邸。
夜更け。細川藤孝、幽斎は月見台で一人杯を傾けていた。完璧に計算され尽くした庭の静寂が、逆に彼の心を騒がせる。
そこへ息子・忠興が現れた。
「父上、またお一人で飲んでおられるのですか」
「忠興か。来い、月が美しい」
忠興が腰を下ろすと藤孝は遠い目をした。
「明日大坂に参る。信長公にお目通りだ」
「それがどうかされましたか」
「いや…あの御方に初めて会うてから、もう三十年以上になるのかと思うてな」
藤孝の記憶が過去へと遡る。
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永禄十一年(1568年)
「信長公に初めてお会いしたのは、足利義昭公を奉じて上洛された時じゃった」
二条城での対面。若き日の藤孝は将軍家の威光を示すため、秘蔵の唐物の茶器を信長に献上した。その茶器の素晴らしい来歴を恭しく説明する。
しかし信長はその話を途中で遮ると、茶器を無造作に手に取った。光にかざし、まるで鉄の塊でも検分するかのように舌打ちをする。
(なんと無粋な…。この茶碗の来歴も土の味わいも何も分かっておらぬ。ただの田舎侍か…)
藤孝が心の中で侮蔑したその時、信長は言い放った。
「これで鉄砲が何丁買える?」
「は…?」
「聞いておる。この茶碗一つで鉄砲が何丁買えるのだ」
藤孝は衝撃を受けた。風流を解さぬただの野蛮な成り上がり者。それが彼が抱いた最初の織田信長像だった。
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天正十年(1582年)
「それからある年、本能寺で茶会があった。あの長谷川仁斎殿が現れてしばらく経った頃じゃ」
信長は同じ茶器を手に取り、今度は全く違う質問をした。その傍らには、まだ目立たぬ存在の仁斎が影のように控えているのを藤孝は見ていた。
「藤孝、この茶碗の『価値』とは何だ?」
「は…それは作りの見事さ、伝来の由緒にございます」
「違う。人がこれに価値を見出すのは何故だ? 美しいからか? 珍しいからか? それとも皆が欲しがるからか?」
藤孝は答えに窮した。
信長は続けた。
「仁斎が面白いことを言うていた。『価値とは人の欲望が作り出す幻だ』と。ならばその幻を操れば…」
(幻だと…? この千年の美意識を積み重ねてきた物の価値を、幻と言い放つか。…そしてその言葉の出所はあの若い祐筆…。一体あの男は上様に何を吹き込んでいるのだ…?)
藤孝は、この時、信長が単なる武将ではない、世界の理を探求する哲学者へと変貌し始めていることに気づいた。
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天正二十年(1592年)
「呂宋遠征の後じゃった。信長公は完全に変わっておられた」
大坂城で開かれた壮麗な歌会。藤孝が一首詠む。
「春霞 たなびく山の 桜花 うつろう色も なお美しき」
それに対し信長は真顔で問いかけた。
「その歌はどれほどワシの家を富ませる?」
「は?」
「文化に銭を費やす価値があるかと問うておる。その歌会を開く手間と銭でどれだけの利が生まれる?」
周囲が凍りつく中、信長はおもむろに傍らの石田三成を呼びつけた。
「三成。この歌会に費やした銭、全て書き出せ。そしてこれによって生まれるであろう『人心の掌握』とやらを銭に換算し報告せよ。三日くれてやる」
(このお方はもはや桜の美しさすら数字でしか見えぬようになってしまわれたのか…。人の心が持つ計り知れぬ価値を全て銭に換算せねば気が済まぬのか。…これはもはや覇者ではない。何か別の恐ろしい生き物だ)
藤孝は信長への畏怖と、そして深い哀れみを同時に感じていた。
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天正二十四年(1596年)
「京都での茶会。あの時初めて本当の不安を感じた」
見事に整備された茶室。柱の角度、庭石の配置、水の音の間隔まで全てが黄金比で計算され尽くしたかのような完璧な空間。しかしそこには人の心の揺らぎが一切なかった。
信長がぽつりと呟いた。
「完璧だな」
「恐れ入ります」
「完璧すぎる。まるで死んでおるようだ。…仁斎が作りそうな庭よな。一分の隙もない。そして一分の面白みもない」
藤孝が驚いて顔を上げると信長は自嘲的に笑っていた。
「昔のワシならこの茶室を燃やしていたやもしれぬ。…心配するな。今のワシは『効率的』だからな」
(このお方の瞳はもはや何も映してはおらぬ。天下も富も全てを手に入れ、その全てを完璧な仕組みへと作り変えた。…そしてその先に何も見つけられずにおられるのだ。空っぽの玉座に座る神の、なんと寂しいことか)
藤孝は、その時、信長の心の奥底にある深い虚無を垣間見た気がした。
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藤孝は現在の月夜へと意識を引き戻した。
彼は息子に向き直る。
「忠興、明日の参内でわしは恐ろしいものを見ることになる気がする」
「恐ろしいもの?」
「完璧に作り上げた世界に飽いた男の顔じゃ」
翌日。大坂城での謁見。
藤孝が見たのは完璧に整えられた場所で完璧に統治を行う男。
しかしその目はやはりどこまでも空虚だった。
「藤孝、久しいな。相変わらず歌を詠んでおるか」
「は、時折…」
「それは良い。非効率なものも時には必要だ」
信長の口調は穏やかだったが藤孝は背筋が凍った。
京への帰り道。
「…嵐が来る」
藤孝は誰に言うでもなく呟いた。
「信長公はご自分で作った完璧な世界を、ご自分で壊される気がする」
月が厚い雲に隠れた。
数日後、藤孝は密かに息子に手紙を書く。
「忠興へ。もし大坂で異変があればすぐに京を離れよ。信長公が動く時それは常人の想像を超える」
そして付け加えた。
「あの御方は仁斎殿に出会って変わった。より偉大になられた。だが同時に何か大切なものを失われた気がしてならぬ」
筆を置いた藤孝はふと若き日の信長を思い出した。
茶器を「鉄砲何丁分」と値踏みした、あの荒々しくも生き生きとした顔を。
「あの頃の方が人間らしかったのかもしれぬな…」
月は何も答えなかった。
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