第六十四話:天才の証明
天正二十八年(1600年)、春。
大坂の街はかつて世界の誰も見たことのない繁栄を謳歌していた。
仁斎は石田三成と共に街の視察に出ていた。目の前に広がる光景は彼の知る戦国時代とは全く異なっていた。
朝の市場にて。
「一尾いくらだい?」
「手形で二分でございます」
仁斎は息を呑んだ。史実なら大名の食卓にしか上らない鯛が、職人の日当程度で買えている。
仁斎はその光景に静かな衝撃を受けていた。
『鯛…かつては大名しか口にできなかった高級魚を、町人が日常的に買っている』
三成が誇らしげに説明する。
「上様がお進めになられた新しい世の仕組みのおかげにございます。街道が広げられ関所はなくなり、銭のやり取りも手形一枚で済む。品物を運ぶ手間賃が今や昔の十分の一になりました」
寺子屋の前を通りかかる。中からは子供たちが熱心に算盤を弾く音が聞こえてきた。
「これも上様の『学問吟味ノ儀』のおかげにございます。『読み書き算盤ができぬ者はこれからの世では武士も商人も務まらぬ』とのお達しでございますれば」
史実では十%程度だった識字率が、この世界では都市部で六十%を超えていた。
大坂奉行所の隣には真新しい白木造りの建物が。「民事仲裁所」の看板が掲げられている。
「商人同士の争いも農民と武士の争いも、ここで法に基づいて裁かれます」
『司法の独立…まさかこの時代に三権分立の萌芽が』
仁斎は内心で戦慄した。
また仁斎は、淀川の治水工事現場を見て衝撃を受けた。
「労働者に支払われた手形が、市場で米や酒に変わり、それがまた商人の手形となって循環している…」
『これは完全にケインズの有効需要理論だ。300年も早い』
執務室に戻ると三成が最新の帳簿を見せた。そこに記された数字は仁斎の想像すら超えていた。
一人当たりの所得は史実の三倍以上。平均寿命は十歳以上も伸び、餓死者数はほぼゼロとなっていた。
仁斎は愕然とする。
『俺の知識を超えている。信長は俺が教えた理論を、想像を超えたレベルで実践し昇華させた』
堺の港には各国の船が列をなし、明国の使節は「日本に学びたい」と頭を下げ、オランダ商人は大坂を「東洋のアムステルダム」と呼んだ。スペインすら対等な交渉を求めてきている。
「我がアムステルダムでさえ、これほどの信用取引は行われていない。日本は我々の先を行っている」
信長は仁斎が教えていない「循環手形」制度や「技術公開令」といった、独自の革新的な政策を次々と打ち出していた。
『俺は現代から知識を持ってきただけの…いわば翻訳者だ。だが信長は、その知識を超えて、この時代に最適な形で実現した。これが本物の天才か』
その夜、信長に呼ばれた。
「どうだ仁斎。ワシの作った世界は」
「…完璧です。私の想像を遥かに超えています」
「完璧?」
信長の目が一瞬、寂しげに曇った。
「ならばなぜワシは満たされぬのだ」
「上様…?」
「いやなんでもない。褒美をやろう。そなたの教えのおかげだ」
部屋を辞す際、信長が呟いた。
「仁斎よ。完璧なものほど脆いものはない」
その言葉の意味を仁斎はまだ理解していなかった。
大坂の夜景を眺めながら仁斎は考える。
『信長は俺を超えた。いや最初から超えていたのかもしれない。だがなぜ不安を感じる? この完璧な繁栄の中で何かが欠けている…』
翌日、信長は突然市中視察に出ると言い出した。
「民の真の声を聞きたい」と。
それが全ての転換点となることを、まだ誰も知らなかった。
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