第六十三話:信用という名の通貨
大坂の朝市。その景色はここ一月で一変していた。
かつて銀の重さを天秤で量っていた両替商が、今は会所手形の真贋を確かめている。
「この印影は本物だ。米百石と交換できる」
「紙切れが米に化ける。まるで狐に化かされているようだ」
雑踏の中で期待と不安が渦を巻く。
茶屋四郎次郎が興奮した面持ちで仁斎の元へ駆け込んできた。
「宰相様、会所手形の流通量が予想を遥かに超えております。皆、銀より手形を欲しがり始めました!」
株式会社・日本が産み落とした新しい血流は、凄まじい勢いで国中を巡り始めていた。
だがその新しい血管を内側から食い破る病魔の発生もまた早かった。
石田三成が血相を変えて仁斎の執務室へと転がり込んでくる。
「一大事です! 堺で偽の会所手形が出回っております」
偽造手形で米を買おうとした商人が捕まり市場は一瞬でパニックに陥った。「やはり紙切れなぞ信用できぬ!」という怒号が飛び交い、取り付け騒ぎが起きる寸前だった。
『通貨偽造…。古典的だが最も効果的な経済攻撃だ。俺が創り上げた「信用」という見えざる資産を、根底から破壊しにきたか…』
仁斎は即座に動いた。
「三成。全ての手形に通し番号を入れろ。そして会所の台帳でその番号を全て管理するのだ。今すぐやれ!」
桔梗がもたらした情報は仁斎の予測を裏付けた。
「偽造手形の出所を突き止めました。長崎のイスパニア商人です。彼らは大量の偽造手形を作り、日の本の経済を内側から混乱させるつもりです」
仁斎はその攻撃に対し、より大胆なカウンターを仕掛けた。
彼は大坂城下に巨大な白木造りの館を建設させた。
「会所手形交換所」。
その入り口に彼は高札を立てる。
「ここでは日の本会所が発行した全ての手形の真贋を確認し、持ち込まれた手形はいつでも間違いなく米あるいは銀と交換することを、国家が保証する」と。
それは国家による支払い保証の宣言だった。
その仁斎の動きを平戸のクワッケルナックも見ていた。
彼から密使が届く。「我らがアムステルダムでは『銀行』という組織がその役目を担っている。もし必要ならその仕組みの詳細を教えよう」と。
仁斎はその言葉に閃いた。
『これだ。中央銀行(日の本会所)だけではない。各地の有力な豪商を“認定両替商”として指定し、彼らにも手形の信用を保証させる。信用の連鎖を作り上げるのだ』
評定の席で信長が三人の後継者候補に問うた。
「偽の紙を本物と見分ける方法は何か」
信雄を担ぐ老臣は「偽造した者を全員打ち首に!」と恐怖政治を説いた。
利家は「和紙に特殊な細工を」と技術的な解決を図った。
そして仁斎は答えた。
「偽物か本物かなど些細なことにございます。重要なのは、皆がそれを本物だと信じる『仕組み』を作ること」
信長は面白そうに笑った。
「仁斎。お前の言う『信用』とは何だ?」
「それは明日も今日と同じ価値があると、皆が信じること。ただそれだけでございます」
仁斎の策は功を奏した。
イスパニア商人がいくら「織田の手形は偽物だらけだ」と触れ回っても、大坂の交換所でいつでも銀や米に換えられるという絶対的な事実の前には無力だった。
商人たちは重たい銀貨よりも便利で安全な手形を選び始めた。
長崎のイエズス会士は焦った。「このままでは神の教えより紙切れを信じる国になってしまう」と。
信用は雪だるま式に広がっていく。
そしてその年の冬。
平戸のオランダ商館で歴史的な取引が行われた。
オランダが持ってきた硝石と鉛。その決済が日本の銀貨ではなく「会所手形」で行われたのだ。
「これは…日本の紙幣で国際取引ができるということか」
クワッケルナックは、その歴史の転換点に立ち会い戦慄していた。
その報せを受けた夜。
信長は仁斎を天守に呼んだ。
「お前の作った『信用』は見事だ。ワシの刀より強いやもしれぬな。だが…」
信長の目が妖しく光る。
「信用は一度失えば全てが崩壊する。まるでこの世そのものようにな」
「上様…?」
「なに、独り言よ。だが覚えておけ。創造の極致は破壊の始まりだ」
仁斎は信長の言葉に言い知れぬ不安を覚えた。
一方ヨーロッパでは日本の会所手形を積んだオランダ船がアムステルダムに帰国していた。
「東洋に我々と同じ信用経済を理解する帝国がある」
この報告はヨーロッパの商人たちに巨大な衝撃を与えることになる。
新しい通貨は日本を世界経済に組み込む扉を開いてしまった。
それはさらなる繁栄か、それとも新たな危機か。
答えを知る者はまだ誰もいなかった。
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