第六十二話:東西の商人
平戸への道中。仁斎一行が九州の険しい山道を進む中、輿の中でヴァレリアーノが不安げに口を開いた。
「仁斎殿、私が本当にお役に立てるか…。紅毛人は我らイエズス会を悪魔の手先と呼び、忌み嫌っていると聞きます」
「だからこそだ」
仁斎は馬上から静かに答えた。
「敵の敵は味方。その単純な理を彼らに理解させる。そのための貴殿だ」
一行の周囲では桔梗が率いる影の部隊が密やかにその身を潜め、警戒を続けていた。長崎のキリシタンたちが不穏な動きを見せているとの報告があったからだ。
平戸の港に到着した仁斎が見たのは巨大な船体だった。
日本の安宅船とも南蛮のガレオン船とも違う、ずんぐりとした、しかし質実剛健なその姿は、この船が戦よりも商いをこそ本分としていることを無言で語っていた。
船長ヤコブ・クワッケルナックは警戒心を隠さない目で仁斎を迎えた。
ヴァレリアーノが緊張した面持ちでポルトガル語での通訳を始める。
「我々は商売のために来た。布教は求めない」
クワッケルナックの言葉に仁斎は頷いた。
「それは好都合。我々も利益を求めている」
だがその丁重な交渉の場を土足で踏み荒らす者が現れた。
兵を率いて平戸に到着した織田信雄である。
彼は老臣たちに煽られ仁斎の制止を振り切り、オランダ人たちの前に立ちはだかった。
「紅毛人めすぐに立ち去れ! さもなくばこの信雄が討ち果たしてくれるわ!」
その言葉にオランダ人たちがさっと鉄砲を構える。
一触即発。
その間に仁斎が割って入った。
「信雄様お待ちください。彼らは客人です」
「客人だと? 異国の賊ではないか!」
その混乱の最中、長崎から前田利家の使者が駆け込んできた。
「申し上げます! キリシタンたちが集結し『紅毛人を討て』との声が上がっております!」
さらに悪いことにイスパニアの商人が私兵を集めているという情報ももたらされる。
信雄の強硬派。キリシタンの宗教的敵意。イスパニア商人の経済的敵意。
仁斎は三方から圧力を受ける形となった。
その窮地の中で仁斎は最も大胆な手を打った。
彼はクワッケルナックの前に一枚の紙を差し出す。会所手形だ。
「これが我が国の新しい銭だ」
「…ただの紙ですな」
オランダ人は懐疑的だった。
「この紙一枚で米百石と交換できる。疑うなら今ここで証明しよう」
仁斎は平戸の米問屋を呼び、実際に手形と米俵を交換させてみせた。
クワッケルナックの表情が変わった。
「これは…我らがアムステルダムで使う為替手形に似ている…」
「そうだ。我々は貴国と同じ仕組みを理解している」
通訳をしていたヴァレリアーノも驚愕の声を上げる。
「紙が米に…これは神の奇跡か」
「いや」と仁斎は答えた。「人の信用だ」
その夜。仁斎とクワッケルナックは密室で話し合った。
「我々は香料が欲しい。そして日本の銀も」
「我々は硝石と鉛が欲しい。そして新しい知識も」
「では取引成立だ」
二人は固い握手を交わす。
しかしクワッケルナックが付け加えた。
「ただし我々はイスパニアと戦争中だ。彼らは必ず妨害してくる」
「承知している。だからこそ同盟が必要なのだ」
大坂城へ戻った三人がそれぞれ報告を行う。
信長は三人の報告を聞き、にやりと笑った。
「信雄、お前は商人に刀を向けた。愚かな」
「利家、お前は火を消したが火種は残っておる。不十分だ」
「仁斎、お前は新しい道を開いた。だが…」
信長の目が鋭くなる。
「これは戦の始まりだ。銭の戦が本当の戦を呼ぶ。覚悟はあるか?」
その頃長崎ではイスパニア商人とイエズス会が密談を交わしていた。
「紅毛人と手を組んだ織田は神の敵だ」
「ならば我らも手を組むまで」
一方平戸ではオランダ船に新たな積み荷が運び込まれていた。
大量の鉄砲と火薬。そして見慣れない大きな筒…大砲だった。
仁斎は夜の海を見つめていた。
『新しい時代の商いは武力と一体だ。望むと望まざるとにかかわらず、この国は世界の争いに巻き込まれていく』
経済戦争はいよいよ本格的な段階へと移行しようとしていた。
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